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発明馬鹿 -2/16 [北陸短信]

.                                  刀根 日佐志

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つい先頃、八郎はその長官に技術分野の方で、私の発明にアドバイスを頂ける人を紹介して欲しいと頼んだ。電話をするだけで心がわくわくしていたので、二日後、八郎は長官から「良い方が見つかりました」と直接連絡を受けたときには、年甲斐もなく心臓が小刻みに鼓動していた。

「五日後、航空技術研究所へ視察に行きます。そこの技術部長に事前に主旨を連絡してご相談しておきました。当日、視察の終わった時間に、研究所の本多幸一部長を訪問して下さい。話がついております」

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 今もって独身の長官は、結婚する気がないのかもしれないと関係のないことを考えながら、八郎は長官からの電話を受けた。

午後四時過ぎの約束した時間に、八郎は、早足で研究所へと向かった。

幾つもの研究棟からなる航空技術研究所は、東京の都心を離れた閑静な所にあり、緑の森で囲まれていた。平成十二年十一月の空は薄墨を流したように濁っていた。

その曇り空に覆われた研究棟の建物は、あたかも地べたに這いつくばって動こうとしない愚鈍な牛のように、じっと何かに耐えている姿に見え、森閑としていた。そして、幾多の風雨に耐えた灰色に汚れた外観を、曝け出していた。そんな外面からは、世の先端を行く研究がなされている佇まいには思われなかった。

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研究員に聞くと、いつもは人が時折、研究室に出入りしているくらいで、建物の中も静寂が保たれており、研究室は実験機材が、所狭しと置かれているという。だが今日は、少々様子が違っていた。大勢の人が建物の廊下を行き来して、研究室の中も綺麗に整理していた。長官の視察が終わり午後四時頃になると、元の静かな研究所に戻っていた。

八郎は腕時計に目を遣ると本多部長の部屋に入った。

「長官から事前にお電話を頂いて、聞いておりました。先ほど来られたときにも、その話が出ておりました」

どうぞお座り下さいと部長は八郎を部長室の応接コーナーに迎えてくれた。ソファーには部長とその横の席に、部長の大学で同級生という草本省吾が座っていた

八郎はその向かいの席に腰掛けた。

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草本は毎月一回、新しい情報を求めて部長を訪ねていたので、長官から連絡を受けた部長は、今日同席するように彼に依頼したらしい。彼はメーカーに勤務の後、郷里の富山で社員三十人の設計会社を経営しており、傍ら幾つもの発明を商品化していると、八郎は部長から紹介を受けた。


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発明馬鹿 -1/16 [北陸短信]

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                                                                            刀根 日佐志

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発明を形にするのは難しい。その出来上がった製品を売るのは、もっと難しい。大泉八郎にとっては永遠の課題であった。いや世の発明家にとっても、共通の課題かも知れないとすら考えていた。創った物は容易に売れないことは、身にしみて感じていたが、発明から逃れることは出来なかった。

ある夜、繁華街を歩いていたら、銀行のビルの屋上にネオンサインが輝いていた。それに目が留まると、八郎はふとある考えが頭をよぎっていった。

「銀行強盗事件が銀行内で発生したら、行員は気が動転して警察への通報どころではない。自動的に屋外のネオンサインのように銀行強盗発生中のメッセージが出されたなら、通行人が警察に通報してくれる」

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 一人で呟くと、これは凄いアイデアだと、両腕を曲げて胸の前でぐるぐる回すと、自画自賛の叫びが頭の中を支配して、外の事柄は入り込む余地がない。数日後には、開発室にこもり始めた。

八郎は社員五人の警備保障会社を営んでいたが、仕事は部下任せで、発明で明け暮れる毎日を送っていた。現在は、銀行強盗の撃退装置開発のため、自宅にも帰らず会社の開発室に寝泊りしてそれに没頭していた。

徹夜の夜食は会社近くの惣菜店で買ってきたものを皿に載せて食べていた。もう何日になるのか、汚れた皿や食器類が山になっていた。これは何とかならないだろうかと考えると、ふと或る考えが閃いた。

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八郎は以前、国会議員、遠藤裕子の議員秘書をしていた。先般、遠藤裕子は技術庁長官に就任した。八郎は秘書時代に感心していたが、長官は頭の回転が速く、応答がスピーディーであった。先送りすることを大変嫌っており、何でも直ぐに解決することを習慣としていた。議員になる女は男勝りと思うが、そんな感じはなかった。一つ一つの仕草が女らしく、愛らしかった。女性ならではの細やかな心遣いと、暖かみがあった。彼女の側にいると女の魅力を存分に感ずるのであった。秘書当時、八郎は新婚であったが、遠藤裕子議員に思慕の念を抱いていた。もちろん一方的な想いであって相手に伝えたことはない。


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お節介野郎 -15/15 [北陸短信]

                                                      .by 刀根日佐志                                              

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ケーキ店の時には溝蓋は問題にはならなかったが、その頃から、徐々に溝蓋の強度が弱まってきていたと考えられる。従って、カレーハウスが開店する時に、全部の溝蓋を、もっと丈夫なものに交換しておけば、こんな苦労はしなかっただろうと五郎はコック帽の二人に同情をするのである。

この二人は色々な逆境にあっても、仲違いをすることはなかったようだ。外で退屈そうに壁にもたれ掛かり煙草の煙を吹かすのも、溝蓋の対策をたてるのも、店内の椅子の上に足を長々と乗せて休むのも、常に一緒なのであろう。きっと、幼友達で、仲良しで、インドの片田舎に育ったのではなかろうか。寂しくなると二人で遠くインドの家族のことや、郷里の思い出話をして励まし合っているに違いないと五郎は勝手に推測した。

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インドでは溝蓋はどうであれ、不潔に思える露天の店ですらカレーの店には大勢の人が詰め掛けてくる。それなのに、仮に溝蓋が阿波踊りや黒田節を踊っていたとしても、こんな富山県の片田舎で店に人が来ないのは、彼らには、納得が行かないのであろうと五郎は想像するのである。溝蓋では滑稽で痛々しい数々の努力がなされた。しかし集客について心血を注ぐ奮闘がなかったこの店の終焉は、間近に迫っているように思われた。

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五郎はこの頃、或る重大な決断をしてカレーハウスに歩を向けていた。そしてカレーハウス『インド』に五郎は思い詰めたように、つかつかと入って行った。退屈そうにコック帽の二人が客席の椅子に座っていた。五郎の真剣な顔付きを見た二人は、食事に来たとは考えてないようであった。五郎は客席の彼等の前に座ると、挨拶もせずに唐突に話を切り出した。

「このカレーハウスの経営を一緒にやりませんか」

「……」

 コック帽の二人は狐に摘ままれたように、きょとんとして顔を見合わせていた。五郎は相手がどう考えていようがどうでもよい、自分の考えを力ずくでもよいから押し進めるつもりでいた。

「私はカレーハウスの経営をやりたいと考がえてます」

「わてらはこの店を閉めることに決めたんや」

「であれば、私がこの店を借りますので、あなた達はここで引き続きカレーを作りませんか」

「……」

「北陸人の好みの味、店作りを私は良く研究しております。あなた方は、このまま辞めてしまえば、一生悔いを残すことになりますよ」

「……」

五郎は必ずや味と雰囲気では、富山で一番の評判店を作るぞと心に誓うのであった。そして、今まで何の店も成功を見なかったこの辺鄙な場所に拘った。インド人でも成功しなかったカレーの店を、五郎はそのインド人を使い成功させようとする意地と執念みたいなものを漲らせていた。

                                               (完)


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お節介野郎 -14/15 [北陸短信]

                                                      .by 刀根日佐志                                              

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そのそばで五郎は話を聞いていたので、事情が飲み込めた。どうもコック帽の二人が大阪の道頓堀でコック見習いとして働いているときに、幼稚園生が裏の道頓堀川に落ち、溺れそうになっているのを、コック帽の二人で助けたことがあるらしい。その幼稚園生の親がこのチンドン屋のリーダーであったようだ。五年くらい前のことで、リーダーにしてみれば、息子の命の恩人であるコック帽の二人に、富山の地で、しかも思いもかけない所で、再会したのである。

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超満員という夢のような出来事が、一日だが訪れた『インド』は、その後、一、二日は数人の客の姿を見たが、また、元の閑散とした店に戻ってしまった。正しく、三日天下であった。大きな絶頂から絶望への落差に、得体の知れない神の悪戯があったと思わずにはいられないのであろう。静けさが訪れると、料理人としての実力の無さがもたらす無力感を、ひしひしと感じているに違いない。

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しばらくしてから五郎が店の前を通ると、コック帽の二人は、客席の椅子を二、三脚引き寄せた上に足を長々と乗せていた。そして、向かい合って寝そべっている姿が、時々、見掛けられるようになった。相変わらず店内には人影はなくガランとしている。

それからも、溝蓋対策の努力が続けられていた。道路工事の時に良く見掛ける、あっちへお回り下さいと迂回指示する、真横に太い矢印の付いた矢印板が、溝蓋の前に置かれていた。それを見て五郎は、その場に立ち尽くしてしまった。

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それでは、この店を避けて行って下さいとの指示である。近くの廃材置き場に探しに行ったらこんな物しかなかったのであろう。さすがに、矢印板の真の意味に気が付いたのか、その直後には矢印板は取り払われて、溝蓋の前は侵入を防ぐパイプスタンドの仕切りに置き換えられていた。


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お節介野郎 -13/15 [北陸短信]

                                                      .by 刀根日佐志                                              

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翌日、昼近く五郎が散歩しているとき、三人の大阪チンドンチームが車で目的地へ向かっていたのに出会った。T小学校の前に差し掛かると、授業参観を終えたと思われる大勢の父母と子供達が、校門から吐き出されるようにどっと出てきた。チンドン屋は人の集団を見ると、チンドン魂に火がつくとみえて、車から降りて、ここから一・五キロをFマーケットの宣伝をしながら、そのマーケットまで練り歩くことにしたらしい。突然に降って湧いた甲高い打楽器の音とパフォーマンスに、父母と子供たちは物珍しさも手伝い、大喜びである。大きな人だかりの集団は、チンドン屋を中心に移動した。五郎もその集団に混じって歩いた。やがてカレーハウス『インド』の前に差し掛かった。

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『インド』ではコック帽の二人は、何の騒ぎかと店の前へ出てきた。パフォーマンスをしながら、チンドン屋の三人が、『インド』の前を通ったとき、じろじろとコック帽の二人の顔をしつこいばかりに覗き込んでいた。すると、何を思ったかチンドン屋は、即興でカレーハウス『インド』の歌を歌い宣伝を始めると、そのまま、『インド』の店内に入り込んでしまった。勿論、五郎も見物客の集団も店内に入り込んだので、狭い店は人で超満員であった。昼食時間であったのでチンドン屋の三人は、カレーライスを注文した。店内の大勢の人も釣られてカレーライスを注文した。五郎がこのカレーライスを食べるのは二度目になる。

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『インド』では、今までに、こんな大商いをした歴史はなく、立ち所に売り切れてしまった。座り切れないので立ったまま外で、食べる人もいた程である。チンドン屋のリーダーが、コック帽つまりインド人と何やら話しこんでいた。不思議なことに、チンドン屋が逆にコック帽に深々と頭を下げて、お礼を述べていた。

「息子を助けてもろたコックさんに、富山で会うなんて不思議でおます。その節はほんま、おおきに」

「息子さん大きいならはっただすやろ」

「その息子がもう小学校五年生だっせ」

  
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お節介野郎 -12/15 [北陸短信]

                                                      .by 刀根日佐志                                              

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          ( 3 )

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富山県庁の横手を流れる川縁の桜は満開である。中でも精一杯に開花した花弁を囲む萼は、その保持力を失った瞬間、ときおり吹く風に力なくパラパラと花弁を放出させていく。近くの公園からチンドンチームの鉦や太鼓、ラッパ、賑やかな口上が伝わると、呼応するかのように春風が、桜並木の小枝を軽く揺らしながら通り過ぎて行く。すると、全国チンドンコンクールの催事に祝意を表するかのように、観客の頭上に伸びた桜の木からは花吹雪が降り注いだ。真昼の木漏れ日が、それを限りない純白色に輝かせていた。

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会場の富山城址公園では、このチンドンコンクールが佳境を迎えていた。勝ち残った大阪と九州のチンドンチームが優勝決定戦を繰り広げた。互いに勝ち抜いてきたグループであり、チームワークと人を引き付ける歌と踊り、楽器演奏は群を抜いていた。優勝した大阪のチンドンチームはスポンサー企業の宣伝を巧みに織り込んだ演出に、一日の長があった。五郎はこのコンクールを見物していたが、いつも散歩コースにしているK駅近くにあるFマーケットが今回の優勝チームへのスポンサーであった。

従って優勝チームには、スポンサー企業から優勝賞金が贈られた。そのとき、優勝チームのリーダーは山伏装束に太い大きな杖を持ち、お礼の口上を述べると、その太い杖でドーンと床を打った。その瞬間、大きな音と共に花火のようなものが揚がった。

すると空中で満艦飾の落下傘が開き、ひらひらと舞い降りてきた。洋傘くらいの大きさに開いた落下傘は、日に当たると金、銀、赤色の電飾のように照り輝いた。そして、見物客の視線を釘付けにした。やがて、その視線は落下傘から垂れ下がった長い幕に向けられた。

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『Fマーケット只今、特売期間中』と書いてあった。まもなく、降りてきた落下傘は、桜の枝に引っ掛かり、いつまでも『Fマーケット只今、特売期間中』の垂れ幕が下がり皆の目に焼け付いた。

それから、リーダーを含めた山伏装束の三人は、鉦、太鼓、ラッパを打ち鳴らし即興でFマーケットの宣伝歌を歌った。そして、「お礼に明日の午後、Fマーケットで宣伝活動をします。皆様を、お待ちしております」と述べた。突然の心憎いばかりの演出に見物客から盛大な拍手喝采を浴びた。


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お節介野郎 -11/15 [北陸短信]

                                                    .by 刀根日佐志                                              

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― 俺は希望してこの店に入ったことになるのか、コック帽がサービスするからというので入ったのか。それにより重大な差が生ずる。お金を払うことになるのと、サービスだから払わなくてもよい、とでは大きな違いだ。

などと考えていたら「お待ち遠さま」とカレーが運ばれてきた。

 深皿の中に、さらさらなスープカレーが入っていた。別の皿に、ご飯が薄く盛ってある。今日炊いたのであろうか、真っ白であり安心した。スープカレーの中に鱈が二切れ、馬鈴薯が二切れ、海中の小島のように置かれてある。カレーを味わってみると、辛さはあるが、こくとまろやかさとがない。ご飯を食べてみたが少々硬めである。北陸人には家庭で作るどろどろしたカレーには馴染みがあるが、スープカレーはまだ受け入れられない気がする。鱈の身は、干した鱈を煮たのであろうか、少々硬いのと何だか頼りない味だ。などと思いながら食べていたら全部平らげてしまった。

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 ところで、お勘定はどうしようか。サービスだったら、ご馳走様と、このまま出て行けばよいが……。

「お客様、お金!」と、追い掛けられたら、格好が悪い。

これ以上、考えを巡らすのも面倒臭くなった。単刀直入に言ってみよう。お勘定はと聞いて相手の出方をみることにした。

「おいくらですか」

「七百円だす。おおきに」

と間髪入れずに、五郎の喉元へ突き刺さるように答えが返ってきた。

「……」

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 落語家は『間』が大切だと言うが、この『間』にはお手上げだ。想定もしていなかった剛速球勝負に、五郎は、思わず出た苦笑いを噛み殺した。これ程までに、瞬時に完敗の裁きが出れば、気持もサバサバする。でも少しばかりの愚痴は勘弁してほしい。

― 関西人いやインド人は、がめついなあ。でもこれだけの商売のセンスがあれば、もっと誘客ができるのに。

とぼそぼそ呟いた。                                              

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五郎は、カレーハウス『インド』を出るとき考えていた。

確かに全て平らげたが、味は良いとは言えない。再度、入店しようと思わせるには、少々、インパクトに欠ける味だ。そうだ、俺の中に住むあのお節介野郎に聞かれたら、こう答えよう。

― 応援団長のような奴には「これ以上、もうむきになってまで応援するな」と。

― 経営者じみた奴には「人を制するには、絶妙な『間』を研究しろ!」と。

― あの二人への返答が決まれば気が楽だ。るんるん気分で、鼻歌でも歌いながら帰ろう。でも、あの店が見えなくなってからでないと、五郎が満足して帰ったとコック帽に思われるからなあ……。

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それから数日間、五郎はカレーを食べたことが、夢の中の出来事であったのではないかと、自問自答してみたが、ポケットに千円を出した時の釣銭三百円が入っていたので事実に間違いないと悟った。

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カレーを食べた後、五郎はコック帽と顔を合わせるのも何だかバツが悪い気がして、今までよりも心持ち遠巻きに『インド』を見るようになった。また五郎の中のやかましいお節介野郎も、表に現れることがなくなった。


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お節介野郎 -10/15 [北陸短信]

                                                     .by 刀根日佐志                                              

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昼の時間に五郎が、カレーハウス『インド』の前を通ると、反り返った溝蓋の隙間に被せてあった『すの子』が、溝から飛び出ていた。あれだけ傍観者を決め込んでいた五郎が何気なく、吸い寄せられるように溝の所へ近付いた。そして、しゃがみ込むと『すの子』を被せ直していた。

「おおきに!」と言う声に驚いて見上げるとコック帽の一人が五郎の後ろに立っていた。上手な関西弁で続けた。

「カレー食べて行きなはれ。わてらのカレーは、ごっつう美味しいおます!」

「……」

「どうぞお入りやす」

「……」

コック帽に急かされると夢遊病者のように、ふらふらと五郎は店内まで歩いて行った。

あれだけ躊躇していた頑な気持は、どこかへ飛散していた。予期せぬコック帽との出会いと、意外なインド人の流暢な関西弁に呆気に取られている内に、気がつくと客席に坐っていた。もう一人のコック帽は、店内で寛いでいたが、慌てて調理室に入って行った。

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「どないしますか」とメニューを指差した。

呆然とした気持が遠のき、五郎は落ち着きを取り戻した。コック帽をよく見ると、若く彫りが深い顔、鼻が高く、窪んだ目は五郎を見て、微笑んでいるようである。メニューには、インドカレー、シーフードカレー、ココナツカレーと書いてあった。

以前に店内を一度見たことがあるが、そのときと、何ら変わっていない。でも壁際にインドの民族衣装をまとい横笛を手にした女性を織り込んだタペストリーが吊るしてあり、それははじめて見る。

「シーフードカレー」

と五郎は答えた。それから先程のことを反芻していた。


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お節介野郎 -9/15 [北陸短信]

                                                      .by . 刀根日佐志                                              

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玄関前の側溝では、両端を跳ね上げた無様な格好の溝蓋は、よく見ると裏返しされて嵌め込まれていた。今度は中央が、こんもりと隆起して、不揃いな六人の踊り手が、頭をもたげたような異様なおどけた格好で、阿波踊りを見せているようにも思える。隆起した分、溝蓋は短くなり、溝蓋間には数センチの空間をつくり、歩行者は隆起した所で躓き、更に空間に足を挟まれる二重の危険が潜んでいた。

やがて車が踏みつけると隆起は、再度反転した。そして、いびつさが益々増幅し、軟体動物のように波状に変形した溝蓋と、両端を跳ね上げた無様な格好の溝蓋とが交錯した。

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その上を通過する車で溝蓋は擦れ合い、まるでゆったりと踊る黒田節と、テンポの速い阿波踊りとが同時に踊っているようなアンバランスな動作と、軋みが伝わってくる。

近所の方の噂によれば、この店は、京都、大阪でコックとして働いていた二人のインド人が、独立して出店したのだという。

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インド人経営者は、客を巧く店に誘導する工夫よりも、インド人の料理する本場のカレーの店を開けば、客は必ず食べに来るとでも考えているのかも知れない。店の雰囲気の好さと、安全、安心、かつ飲食に対する日本人の拘りを、甘く見すぎてはいけないと、五郎は呟いていた。

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「この店に一度入りたい、美味しそうだ」と店先から流れてくるメッセージが、仮にあったとしても、それより先に「この店の前の溝蓋は危ない、特に、お年寄りや子供さんは近寄らないでください」とラウドスピーカーが高らかに鳴り出してしまう。

数日後に、溝蓋は極度に反り返りが大きくなり、角近くの三枚が、大人の足が溝にはまり込むくらいに口をあけていた。溝蓋は金属製にも拘わらず、通り過ぎる車は無常にも飴のように曲げていくが、なおも手加減することはない。

やがてコック帽の二人は、溝蓋を裏返す戦術は止め、あんぐりと大きな口を開けた所に、拾ってきたと一目で分かるような薄汚れたベニヤ板の切れ端が、被せてあった。その後、ベニヤ板の切れ端は、風でどこかへ飛ばされていたが、代わりに、どこで探したのか木製の『すの子』が並べてあった。


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お節介野郎 -8/15 [北陸短信]

                                                     .by 刀根日佐志                                              

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五郎は、一歩、店内に踏み込んでいた。だが、逃げ腰である以上「御免ください」と口から出た声は、決して店の奥の調理室まで聞こえる音量ではなかった。奥まで聞こえて店員が出て来て「いらっしゃいませ」と言われることを望んではいない。店員が出て来ないうちに、早く店から出てしまおうとする気持の方が支配的であった。 

ならば何故、一度は入店したのかと言われれば「味見してみたい」「いや、それは御免蒙る」の複雑な感情が葛藤していたからである。その時点で、どちらが勝っていたかを問いただすしかない。

五郎は、体の中に住むあのお節介野郎に「俺はカレーハウス『インド』のカレーライスを一度は食べる試みをした」との弁明をしておきたかったのかも知れない。心では半ばホッとして店を出た。

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だが「すいません。店の奥にいたので気づきませんでした。どうぞお入りください」

と店員が追い掛けて来るのではないかと五郎は、足早に店を出た。しかし、胸の鼓動の高まりはしばらく続いていた。

五郎の「いや、それは御免蒙る」の気持は、さらりと断りを入れるという単純なものではなかった。薄気味悪いものには、身も竦むので勘弁してほしいと願うような強いものであった。

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「味見してみたい」との気持と共存するのは、多くの人が、お化け屋敷は怖いが、入ってみたい気もするというのに似ていた。

カレーハウス『インド』の裏手を通り過ぎると、午後の陽を受けて、コック帽を被り白衣を着たインド人と思われる背の高い二人が、壁に寄り掛かっていた。そして、虚ろな表情で煙草の煙を燻らしていた。客が来ない退屈さと、手持ち無沙汰と、苛立ちとで、ついつい店の外に出て休んでいるのであろう。その姿を、五郎はちらりと横目で見て足早に通り過ぎた。

一杯のカレーライスを食わんがためには、すこぶる躊躇し、葛藤し、大いなる決断を必要とする。そして、いらぬ神経を使い、鼓動を高め心臓をも疲労させる。はたまた、溝蓋に躓いて、怪我の危険も身に迫る。カレーハウス『インド』は何と罪作りな店であろうかと、五郎は真顔で呟いていた。


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お節介野郎 -7/15 [北陸短信]

                                                    .by 刀根日佐志                                              

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          ( 2 )

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角地にあるこの店の玄関前から横手へと、L字型に側溝が走っていた。そして、細い道路のある横手の方は、コンクリートの溝蓋が、綺麗に嵌め込まれていた。玄関前は格子型の金属製の溝蓋が、十数枚並んで通路を形成していたのである。

 時々、玄関前を車が通り、横手の細い道路に小回りして曲がるとき、側溝の上に乗り上げ踏みつけて行く。すると、金属製の溝蓋は角から六枚が、水から持ち上げた魚が反り返った様に、道路から五センチくらい、両端を跳ね上げた無様な格好になっていた。

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-- 店に入る時にお客さんが躓かなければよいが。

と五郎は呟くばかりである。

とある昼下がり、五郎はカレーハウス『インド』の店前で「入ろうか、入るまいか」と意を決しかねていた。だが決心して店の前に立っていたが、及び腰で、この場に至っても「今日はお休みです。まだ、ご飯が炊き上がっていませんので……」と店員が出てきて断って欲しいとの願望が心を支配していた。

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玄関の扉には、やや大きい文字でカレーハウス『インド』と書いてあった。そして『営業中』の札の下がった扉を開けてみた。

店内には人影がなく、窓から入り込んだ力のない光が床にこぼれていた。天井から下がった数本の黄色いシェ―ドから白熱灯の光が、寂しげに燈っている。四人掛けの白いテーブルが四組と、数人が座れるカウンターがあった。白熱灯の光は、テーブルの白に反射してシェードが、湾曲した形でテーブル上に映し出されている。視線をずらすと、ゆっくりと揺れて見える。壁にかかったスピーカーから人のいない店内で流れていた音楽が、何だか、はしゃいでいるように聞こえた。籐のフォーク入れが置かれている以外は、テーブルには何もなく、飾られている物もなかった。ただ、店内はカレーの香りが侘しく漂っていた。


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お節介野郎 -6/15 [北陸短信]

                                       .by 刀根日佐志                                              

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― カレーも悪くはないが、この団地にアピールする味は出来るの

      かなあ。

― 競合の多いカレーの世界、何で違いを出そうとするのか。

      五郎は目尻に数本の皺を寄せ、眼を細めた奇妙な表情で呟いた。

― でもカレーでも良いか!

― 客を呼び込む方策を考え、知恵と味で勝負すればよい。カレーで

      いこう。五郎は真顔になり、今度はすんなりと妥協し、幾分投げ遣り

      気に呟き、半分は自分が経営しているという気持になっていた。

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春も終わりの晴れ渡った空には、真綿を引き伸ばしたような白雲が幾筋か流れていた。空には小鳥の群れが飛び交い、あたりの木々の間を移動していた。その上空に飛翔する鳶が、数羽ゆったりと弧を描き、ピーヒョロと鳴き声を響かせ、下方を睥睨しているように映った。

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カレーハウス『インド』の店先には、祝開店の花輪二基が置かれてある。それ以外に、華々しく新規開店を誇示するものが見当らない寂しいものであった。

― 何でこの地区全域にビラを入れるとか、開店のサービス券を配る

      とかを考えないのだろうか。解せない。本当にカレーライスを売り

      たいのか!

― このままでは、このカレーライス店の存在を知らせることが出来ない

      じゃないか。

― 一にも二にも宣伝だ。何を考えているのか。頑張れ!

五郎の中に住む、お節介野郎がもごもごと動きだす。そして怒りを露わにして眉を吊り上げ、握り締めた拳を振り上げさせた。 半年くらい経った『インド』は最初の萎えた勢いのままで、客の姿を見ることはなかった。

「この店に一度入りたい。美味しそうだ」と店先から流れてくるメッセージがなければ、お客さんは来てくれない。全てを見通した真面目な顔で五郎は呟く。

 でも一度、店内を覗き、シェフの顔も見て、どんなカレーかを味わってみたいと思う気がする。その反面、数日前に調理した売れ残りの黄色くなったご飯が出てくるのではないかと心配する。さらに、一部は固形化して固まりの混じりあったカレーが出てきたらどうしようかと思うと、この店に入ることには勇気を必要とした。


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お節介野郎 -5/15 [北陸短信]

                                       .by 刀根日佐志  

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何の店であろうか。客を引き付けるに充分な店か。どんな工夫を凝らした店になるのだろうか。益々、五郎は気懸かりになり、明日にでも開店してほしい気持を沸沸とさせてい.た。

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翌日、車でわざわざ遠回りをして、そこの前を通りながら様子を見に行った。すると、家具屋のトラックから二人の作業員が、四人掛けの白い木製のテーブルと椅子を下ろして店内に運び込んでいた。椅子は木製で、茶色の洒落た長い背もたれが付いていた。

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でも、店内は地味な感じで、何となくアンバランスな黄色の三角錐形のシェードを取付けた照明が下がっていた。客席があるから、どうも食べ物屋に違いないと思われる。

こう考えると五郎のお節介は、ますます増幅していき、独り言をブツブツ呟くようになった。

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パスタ、いやピザの店、蕎麦屋、うどん屋、それとも天婦羅屋かなあ。でもなさそうだ。

ステーキの店は、この団地には向かないからなあ。

牛丼の店かなあ。でも『吉野家』や『すき屋』には勝てない。

あの大仏の掌の飾りは何を意味するのだろうか。分からない。

五郎は想像の樹海に足を踏込みんでしまった。徘徊が始まり方向感覚を失い、無意味にさ迷い歩き、抜け出るすべを失った。原生林が広がり、地には絨毯のような苔が蜜生し、倒木が行く手を妨げている。天を見れば、大木の茂り重なった枝葉が昼の暗がりを作っているようだ。出口が分からない。

結論の出る日を待った。

店内の改修工事が終わった。

五郎は店の側で見ていた。

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近くから鶯の鳴き声が聞こえてきた。この地域では珍しい。周りの木々を見たが、その姿はなかった。五郎は視線を頭上に向け探し当てたが、電線の上で鶯が囀るのでは、風情もなく絵にもならないと詰まらなく思って、すぐさま、その店に目をやった。

外観は平凡で、ごく有り触れた何ら特徴のないものである。だが、朝日を浴びた大きな窓ガラスが異様に照り輝き、そこにはガラス一杯に張られた掌の飾りが、黒い光となり浮かび上ってきた。甲高い鶯の鳴き声が、その黒い光の中に染み込んでいった。

ドアにはカレーハウス『インド』と書かれ、玄関先にも小さな看板が置いてあった。


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お節介野郎 -4/15 [北陸短信]

                                       .by 刀根日佐志                                              

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しばらくすると、その店先にケーキ、半額セールの張り紙があったかと思うと、数日後に閉店の看板に変わっていた。その店はケーキ店になる前は回転寿司の店であった。隣町の行列の出来る回転寿司の繁盛店は、相変らずの活況を呈しているのに較べ、何時も閑散としていた。妻が運転する車で五郎は、中学生の息子と、その回転寿司店の前を通ったことがある。その時も客の姿は見当らなかった。

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「この店はいつも人が入ってないなあ。どう思う」   

このようなことには、関心がないと思いながらも、五郎は息子に意見を求めてみた。

「こんな人通りの少ない所に、回転寿司の店はないよなあ。場所が悪すぎるちゅうの。僕だったら、別の場所を選ぶよ!」

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 予想を超えた息子の言葉を聞いて五郎は、ハッとした。そして隣の席に座る息子の表情を黙って見つめた。中学生の息子が、日頃、町の片隅で何気なく生じている事柄にも、問題意識を持っていることに改めて気づき、半ば満足をした。

中学生すら立地に疑問を呈した回転寿司の店は、間もなく姿を消していったが、それ以来、五郎は何かとこの場所に、こだわりを持ちながら眺めていた。ケーキ店の次は何の店が来るだろうか。

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この場所は何の店を開いても繁栄を見ることのない、客から見放された辺鄙な所である。

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・例え辺鄙な場所であろうが、繁盛店を作る方法がある筈である。なんと言う情けない者ばかりであろうか。

反骨精神の旺盛な五郎はついつい呟いてしまうのであった。なんとなく今度、出来た店を心情的に応援したくなっていた。

ケーキ店が閉店すると、すぐ改装が始まった。客席が見渡せる大きな窓ガラスには、大仏の大きな掌をデザインしたと思われる茶色のカッティングシートが張られて、その脇から見える店内は何となく暗く感じられた。

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・大仏の掌の飾りは、信心深さを意味しているのだろうか。長野、善光寺の仁王門近くの、八幡屋磯五郎商店を真似して、唐辛子の販売でもする気かな。仏具でも陳列するのだろうか。いや、この人通りの少ないところでは無理だ。


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お節介野郎 -3/14 [北陸短信]

                                                   .by 刀根日佐志                                                 

.

 奥さんは、静まり返っている焼肉屋の方を見ながら小声で言うと、何か解決策を考えているかのように車の周辺を見渡していた。

「ちょっこ、私に車のキー貸してみられ!」

 五郎から車のキーを受け取り、その車の前に立った。そして、奥さんは息を強く吐き出し、細い体のお腹を一層薄くすると、不可能と思われた車と車の狭い空間に、蟹の如く体を横に滑り込ませた。僅かな隙間から運転席のドアを開き、細い手で窓ガラスを開けると、車の屋根に両手をのせた。そして、懸垂宜しく細く伸びた両足を持ち上げると、開いた窓から両足を先に、身体を運転席に潜り込ませた。

五郎は数分間の美人曲芸師の華麗な技を堪能し、喝采を送りたい気持で見ていた。彼女のスリムな身体のどこに、こんなエネルギーが、隠されているのか感心しているうちに車の脱出は完了した。

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今頃、焼肉屋の主人は呵責の念を持ちつつも、「してやられた!」と苦々しい思いで、どこかから、きっと覗き見をしているのではないだろうか。そっと、焼肉屋の二階の窓を見遣ると、カーテンが微かに揺れているように思えた。

ケーキ店の奥さんは華麗な技を終えると、安心したように肩で息をした。そしてぼそぼそと呟くように喋った。

「以前は、運転席側に一台の車を寄せて置いていただけで、助手席側から乗れば問題がなかったがに、段々と意地悪くなったが」

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この様なことがあってから、この場所のケーキ店に関心を持つようになり、お店の繁盛を願っていた。

それから間もなく、そのケーキ店から数百メートル先の大通りに全国チェーンの洋菓子の安売り店がオープンした。するとケーキ店の店先にはパッタリと客の姿を見掛けなくなってしまった。


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お節介野郎 -2/15 [北陸短信]

                                                      .by 刀根日佐志                                              

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数日後、焼肉屋と、ケーキ店と、共用と思われる駐車場に、車を止めて五郎はケーキを買いに入った。

買い物を終えて駐車場に戻ると、五郎の車の左右と後ろに、よくもこれだけ接近できたものだと思うくらいに、三台の車が置かれていた。勿論、狭い空間に身体を入れて、ドアを開け運転席に辿りつくことは出来ない。止む無く、焼肉屋の店先に入った。店内には客も主人も見当たらない。

そこで大声で叫ぶことにした。

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「ごめんください!」

室内に響き渡り、二階にまで届いたと思ったが、誰も出てこない。念を入れて、もう一度叫んだ。

「こんにちは!」

これだけ叫んでも誰も出てこない。五郎は諦めてケーキ店に戻り、ケーキ店の奥さんに相談することにした。

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「奥さん、店の横の駐車場に車を停めたら動けなくなりました」

「あれは焼肉屋さんの駐車場やさかい、皆さん間違えて止められると、嫌がらせをするがいよ!」

奥さんは可愛い顔を曇らせた。

「一緒に見に行かれんけぇ!」

五郎のように途中から富山に移り住んできたものと違い、奥さんは富山弁が流暢だ。何とも言えない小気味よいイントネーションに加えて声が綺麗だ。ベージュのブラウスに紺のスラックスを、お洒落に着こなした奥さんは、先に立って歩き出し車の前に立った。

「随分と、くっつけてあるがぃね! ひどいちゃ!」


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お節介野郎 -1/15 [北陸短信]

                                                   .by 刀根日佐志                                              

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          ( 1 )

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春の清清しい朝、空虚な頭の中を、さわさわと風が吹き抜けていく。すると、真っ青な空の色が、脳の中まで染み入るような、芳潤で晴れ晴れした気持になる。毎日、散歩をしていると、こんな気分を味わうことが偶にある。その時は、行き交う人の表情も爽やかに見える。

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T小学校の横道を通ると、生き生きとした表情で、小学生の幾つもの集団が、通って行く。子供達は弾むような声で、陽気に語らいながら、ゴムのような弾力のある動作と躍動感のある歩き方で、校門に吸い寄せられるように入って行った。その後には、爽快感が漂っていた。

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五郎は妻と二人で富山県の片田舎で洋品店を営んでいた。誰からも失敗すると言われていた立地条件の悪い所に洋品店を開こうと決断し、それを軌道に乗せたのは五郎であった。しかし今では妻に任せっきりで、ときどき店に顔を出すが、五郎は自由気侭に毎日を送っていた。それを妻は咎めようともしなかった。店員を三人使い妻は店を切り盛りし、店は大いに繁盛していた。

五郎は五十歳を過ぎると、頓に出てきたお腹を気にして朝昼二回の散歩をするようになった。今日は朝にも同じコースを歩いた。

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T小学校を通り過ぎて、K駅方向へ歩くと左手に先頃オープンしたケーキ店があり、細い通り一つを跨いで焼肉屋があった。焼肉屋には客がいなかったが、小綺麗にしたそのケーキ店の小さな店先には、三人の客がケーキの品定めをしながら買物をしている姿を目にした。奥ではご主人がパティシエを務め、中年の美人でスタイルのよい奥さんが、店先で客に、にこやかに応対しケーキの販売をしていた。

その清楚な雰囲気は、ケーキを美味しそうに見せている。特に、室内照度を落とし、ショウインドは程よい明りにしてあるので、その照明とケーキの色彩とが融合して、お菓子の国からメロディーが流れて来るようである。


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還って来た日々 -25/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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終わりになるが、同級生と仁のことに少し触れておこう。

ナミはその後、家業の鉄工業を継いで、今日も鉄を削ったり穴を開けたりして、機械部品を製作している。ナミは元来、真面目で堅実な性格であった。高度経済の最中にも、無理をした工場の拡張を選ばず、小人数の規模で今日まで地道に仕事を続けている。

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残念ながら、あの木鋏は、もう作っていないらしい。従って、コークス炉や機械ハンマーは現在、工場の中には見あたらない。何となく寂しい気がしてならない。

トノは家業が大きな木材業であったが、何度かの不況と、また変化の激しい業界に追従できずに、さっさと廃業してサラリーマンになった。思いきりの良い淡白な性格は、見切るのも早い。勤めは何度か変わったらしいが、現在も働いていると聞く。

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テイ子をはじめ女性たちは、暖衣飽食の時代にあって、身体の体系を一サイズ上げて、意気軒昂と、お孫さんに囲まれ元気に暮らしていると聞く。

仁のことにも少々ふれておこう。大学に進むと運動部に入り、ラグビーに力を入れ過ぎたためか七年間かかり卒業した。従って、三郎と同時に社会人になった。中堅商社に入り、その後、とんとん拍子で出世し、若くして役員になった。

しかしその直後、会社を辞めた。なにを思ったか田舎に引っ越し、農地を買い農業をして生活している。若いときから将来は自然を相手にしたいと言っていたが。自分の意志を変えない性格は、終始、貫かれていて今も変わらない。

                                                             (完)


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還って来た日々 -24/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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 彼の弱音を聞き、勝ち気で元気者のトシオを知る三郎は、その大きな落差に得体の知れない悲愴な気持ちがこみ上げてきた。これは返事をするのも辛いくらいに、体が衰弱しているに違いないと思った。

「体を治して元気になってくれよ」

「……」

.

 トシオのお母さんから、酒をやめるように説得を頼まれたが、既に、その段階は過ぎ去っていたやに思われた。

弱々しいトシオの声を聞き、三郎は励ますだけが、精一杯であった。そのときアルコールが肝臓を機能不全に陥れており、身体がかなり悪化していたように思う。それが最後で、間もなく訃報を聞いた。一時期、中杉先生はトシオの深酒を教え子から聞き、お酒を控えるように、手紙を出したことがあったという。

先生は現在に至るまで、やはり皆の先生なのである。いつまでも、教え子のことを気に掛けている。今になれば、元先生と生徒との年齢差は見かけ上、余り差はなくなったが、距離感は以前のまま維持され保たれている。誠に、人間と人間の関係には、興味深いものがあると三郎は思った。

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同窓会は旧友との出会いと、多くの思い出を残し、終わりの時間が来た。座を盛り上げていたトノは、杯の酒をぐいとあおると、両手に箸を持ち席から立ち上がった。了解を得るかのように先生に視線を送ると、

「皆の美声を聞かしてくれ。大声で蛍の光を歌うぞ!」

肩をいからし極端に大きく上下させ、箸をタクト代わりに指揮を執った。

別れの時間を惜しむかのように、全員が席から立ち上がると腕を振り熱唱した。俯き加減な先生の目からは、きらりと光るものが見えた。再度のアンコールの歌声が消え、フィナーとなったが、まだ光っていた。

同窓会から三年後、残念なことに、中杉先生は肺炎を拗らせて亡くなられた。かえすがえすも残念に思うが、三郎はあの時の同窓会に出席でき、先生と皆に会えたことが幸運であったと思っている。


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還って来た日々 -23/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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 同窓会は終盤に差し掛かったが、盛り上がりは続いた。

トノは手拭で頬被りをすると、どこから探してきたのか、手に籠を持っている。安来節を歌いながら、泥鰌掬いを始めた。

安来節が終わるとサイは大声で言う。

「わしは炭坑節を踊るちゃ」

皆は炭坑節を歌い出す。サイは目尻を下げると、笑みを漏らしながら、しなやかな手付きで舞い始める。

今度はサイが芸者ワルツを歌うと、トノ、ナミも参加して器用に踊り始めた。少年時代に大人たちが熱唱し踊っていたものを、半世紀の歴史の重みを載せて、皆が歌い乱舞した。そして、その重みを噛み締めている。

禿げ上がったトノの頭と、ナミの顔にある深い皺、喉の皮膚の弛みを見た。年輪は確実に身体の各部分に刻まれ、そこには、本人のみ知る苦楽の人生履歴があるに違いないと三郎は思った。中杉先生の方に目をやった。先生の前には人垣がある。未だに、皆を束ねて、ご意見番的な存在感を持つ。

先程、ナミには、

「深酒はやめるがいよ。トシオを見なさい」

トシオが酒で身体を壊し、命を落としたことを引き合いに出した。

ナミは素直に、

「分かったちゃ。最近は、あまり飲まんがや」

と先生に視線を移すと笑顔を見せた。

トシオは中学を卒業すると、運送店で運転手として働いていた。二十年以上前のことだが、お酒の飲みすぎで肝臓を悪くしていた。三郎がトシオのお母さんに金沢で会ったとき、東京でトラックの運転手をしているトシオを、お母さんが電話口に呼び出した。そして、お酒を止めるように三郎から伝えてくれと頼まれて、三郎は電話でトシオと話したことがあった。

「トシオ、元気ですか。三郎です」

「サブか、俺はもう駄目らしい……」

.

 蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。

「トシオ、君のお母さんが大変心配しているよ」

「……」

「だいぶ具合が悪そうだね」

「うん……」


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還って来た日々 -22/25 [北陸短信]

                               刀根 日佐志

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 三郎は当時を思い出して言う。

「それはまだ良い方で、学校に弁当を持って来れんで、校庭の隅で鉄棒にブラ下がりながら、昼時間を過ごしていたがや。残酷な時代でした。そんな子が、何人かいたが」

 先生は、本人が宴席にいるのも構わず大きな声で名前も出して、歯に衣着せぬ言い方をした。なんでも、ずばずばと平気で話して着飾らない。それが的を射ていて嫌味を伴わない。でも語りかける目には、労りと暖かみが感じられた。この人と話をしていると飽きがこない。半世紀が過ぎても、元先生と生徒の間を結んで離さないものがあった。

そこへサイが、先生の前にお酒を注ぎに来た。

「サイ、元気でやっているがか。今、どうしているがいね」

「元気でやっとるちゃ。いま、B社の自動車整備の仕事をしとるが」

 と語るサイは、昔ながらの威勢のよい風貌を見せていた。彼は今も変わらない。

「サイは、しり高(市立工業高校)の機械を出たがやね」

先生の記憶の中に、生徒の経歴がしっかりと、格納されていた。

そこへ、テイ子が先生の前に来た。

「もう病気治ったがかいね? 入院しとったがやろ」

「もうすっかり良いがや」

「テイ子、あんた娘さん二人やったね。もうお孫さん何人ね」

「もう二人ずつで四人いるがや。上の娘は、ボウの近所に嫁いだがや」

今度はボウの話に飛んだ。テイ子は先生から離れた席で、ボウが友人と談笑していたのを横目で見ながら話した。

「ボウはK工業で、会社のお偉いさんになっているらしいが。たしか、部長と聞いているがや」

.

 テイ子は娘から聞いたことを話したのだろう。

「ボウは小さくて、よく皆から泣かされていた。言うことを聞かない子でね、宿題はしてきたことがない子でした。その子が偉くなったがやね」

 先生はテイ子から聞いた教え子の出世に、目を細めて喜んでいたが、話を続けた。

「ボウは、とにかく腕白坊主やった」

 先生は急に若々しい表情をすると、思い出したように話を続けた。

「うちの学校は、特に、腕白が多かった。学校近くの梨畑から小学生が、梨を盗っていくと苦情が多くきてね。何度も、校長先生が謝りに行ったがいよ」


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還って来た日々 -21/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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 皆の席を決めると、トノは叫んだ。

「これから宴会を始めるさかい、皆さん、隣の広間に移動してください」

 トノが横の襖を開けると、その広間に宴席の準備がされていた。

中杉先生が正面の席に座ると、先生の乾杯で宴会が始まった。そのとき、四角い輪郭の顔に窪んだ目、小柄でせっかちな歩き方をする一人が遅れて入ってきた。シーンとなり、入り口付近に皆の視線が向けられると、続いて大きな拍手が響いた。

中杉先生は、今回初参加の一人をすぐに言い当てた。

「あら、ボウや!」

新しい発見をしたように、小さな声を出した。

.

 三郎も、その横の席で、ナミも呼応する様に、

「そうだ、ボウだ!」

と大声で叫んだ。ボウは何だか機嫌の悪そうな顔で、席に坐った。同窓会場では、宴会が進んでいった。

隣の席から中杉先生は、三郎に話しかけてきた。

「サブはその後、どこの大学へ行ったが」

「A大の理工学部を卒業してN社へ入ったが」

「サブは小学校のときから、理科、算数が強かったからね。やはり理工系へ進んだがいね」

.

 先生は白い歯を出して笑顔を見せると、頬の下の窪みが少し深くなった。その深みの中に生きてきた克明な甘苦の記録が、刻まれているように感じ、三郎はじっと見入った。

「でも先生よくそんなことを、覚えているがいね。先程お聞きして驚いていたが」

「生徒のことは、性格や趣味まではっきり覚えているが、未だに忘れんがよ」

「でもあの時代は戦後の苦しい頃で、生活実態は悲惨でしたがや」

 先生は当時を回顧し、むごい昔を思い出したように、顔をしかめていた。いま眼鏡を掛けているが、当時は掛けてなかったはずであると、三郎は丸い縁の眼鏡と、その奥の目をじっと見た。目は柔和で、包容力のある輝きが感じられる。

「私などは、ご飯に芋の葉や蔓、大根等が混じったものや、水団、雑炊をよく食べましたよ。また、それが美味しかったんや」


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還って来た日々 -20/25 [北陸短信]

                                                                  .by 刀根 日差志

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.「……」

しばしの沈黙が続いた。

「サブやろう。確か理科系の得意な木本三郎君ですね。貴方は髪も黒々として若いがいね。染めているのでは、ないがだろう」

間を置いて先生は答えた。

すると皆から口々に、「サブだ!」と五十年間を凝縮した驚きに似た叫び声が、涌き上った。

「いや先生、恐れ入りました。木本三郎です。皆さんどうもご無沙汰で!」

(理科系に強かったことまで覚えているとは、驚いたなあ)

.

 三郎は立ち上がり、先生と握手を交わすと皆に一礼して、車座になった談笑の輪に加わった。半数は女性で、顔が丸々と身体も太った者が多い。一瞬見ただけでは、先生と同年代と思える者もいた。それほど先生の方が、若く見えたのであろう。皆と話しているうちにテイ子、トノは小三のときの顔と重なってきた。

「サブ、久しぶりやなあ、わしを覚えとっかぃ(覚えているかい)」

 横の席から、白髪に少々の黒い色を混ぜた髪の男が、話しかけてきた。

彼には、聡明な目、長い顔、説得力のある声に特徴がある。確かに、覚えている。いや、間もなく思い出しそうだ……。幼い頃に刻まれていた記憶よりも、年輪を重ねて爽やかさが加わっている。じっと見ていると思い出した。

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「分かるちゃ。お前は勉強ができたから忘れとらん。なーん昔と変わらん。髪の色が白くなっただけやちゃ!」

 三郎は彼の差し出した大きな手を握り、金沢弁で応じた。もうお互いにあだ名で呼び合っていた。

 そこへすっかり頭が禿げ上がり、好々爺に見える幹事のトノが来た。

「サブ、お前も昔と変わらんな。宴会の席順を決めるさかい、くじ引いて!」

 トノは老眼鏡の奥から優しく目を細めて、くじの入った紙袋を差し出した。白いものが目立ち始め、への字に垂れ下がった眉毛を、一層下げると微笑んだ。そして三郎の選んだくじを広げると、澄んだ声で叫んだ。

「お前、中杉先生の横の席や、正面の左横や」

 こまごまと世話をするのが好きなこと、そしてこの澄んだ声、トノは何も変わっていない。昔のままだ。


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還って来た日々 -19/25 [北陸短信]

                                     .   刀根 日差志       

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 緩やかな山道を登りきったところに、和風造りで、五階建の建物から張り出た数寄屋造りの玄関が見えてきた。永楽館と書かれた玄関から館内に入り、諸川小学校同窓会と表示のある広間の前に来ると、歓声や笑い声が聞こえてきた。三郎は入ることに、いささかちゅうちょし身体は、かすかな強張りと緊張を覚えた。

(五十年前の友を見て分かるだろうか。今はどんな風貌をしているのであろうか)

(中杉先生はかなりのお歳だ。どんな表情でお話をされるだろうか。サイ、トノ、テイ子……は来ているのだろうか)

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部屋の前に立つと、急に色々な思いが巡ってくる。だが、なぜか名前は思い出せない。五十年経ってもあだ名はすらすらと出てくる。一瞬、立ち止まったが、なんのためらいもない表情を作ると三郎は広間に入った。

.

「みなさん、こんにちは!」

 挨拶をして皆の前に立つと、談笑が止まり一斉に視線が集中し、拍手で迎えられた。三郎も皆の方に目を向けると、真っ先に、中杉先生の彫りが深く頬骨に丸みのある顔が目に入り、すぐに判別ができた。顔全体が少しこけていたが、中杉先生と一目で分かった。半世紀の風雪を経ても、面影には変化はない。 

.

中央に先生を囲んで二十数人いたが、への字の眉毛に大きな口、その横には下頬にふくらみのある温顔がある。二人は昔の容貌のままで、歳を取ったのだろう。すぐにあだ名が思い浮かぶ。ほかは誰だか判別がつかないが、じっくりと見れば思い出すに違いないと考えていた。

三郎は皆に相対して、広間の中央に坐ると中杉先生に言った。

「先生、私を覚えていますか」

「私が名前を言い当てるさかい、皆さん黙っているがいよ!(いなさいよ)」

 先生はきりっとした目付きになると、皆の発言を封ずるかのように口を開き、三郎の顔をじっと見た。そして記憶の引出しを開けているかのように、しばらく視線をやや上に向けて考えていた。


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還って来た日々 -18/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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          ( 三 )

三郎は大学を卒業すると、東京で就職し郷里金沢から離れていた。時々、中杉和子先生を囲んで同窓会をしていることを知らなかった。先生のことすら忘れてしまっていた。三郎は定年前の五十七歳で脱サラして、妻の出身地富山へ移り住み、小さな商社を経営するようになった。

.

時折、郷里金沢へ帰る用事があり、金沢駅前の喫茶店でナミと会う機会ができた。

「ナミ、元気そうだな。お前も変わらんな。まだ、元の仕事を続けとるんか」

 顔のしわが少し目立って見えたが、ナミは昔のままである。

「サブも変わらんちゃ。わしはいまも鉄工所を続けとるがや」

「ところで、小学校の同級生は、みなどうしとる。知りたいなあ」

「このあいだ、同窓会があったんや。中杉先生もみんな元気やちゃ!」

落ち着いた喋り方で、途中で唾を飲み込むと話を続けた。

「今度、同窓会を開くとき、サブにも連絡するよう幹事に話しとくちゃ」

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しばらく後、富山の三郎の所へ同窓会の幹事から連絡が来た。案内には、先生からの手紙も同封されていた。

「中杉先生ですよ! もう皆さんと教室でお会いしてから、五〇年近く時が経過しました。皆さん方も来年は、還暦になるでしょう。私は古希を迎えました。現在は元気でいますが、もうあと何度お会いできるでしょうかね。皆さんの懐かしい顔を見たいと思います。皆さん今度の同窓会には、必ず出席してくださいね」

太平洋戦争の敗戦直後に中杉先生は、諸川小学校に赴任した。そこでクラス担任となり、貧困にあえぎ一生懸命に生きている生徒たちを、先生の実家に招き御馳走などして、温かい目で見守っていた。だから、なおさらに先生は当時の生徒を懐かしく想い、同窓会で会いたがっていたように思う。

 三郎は小学校時代の中杉クラスの同窓会に、初めて参加することになった。金沢の奥座敷と言われる湯涌温泉の永楽館へ、車で向かった。晴れていた四月の空は、爽やかに澄んで、清らかな空気を透して新緑の医王山の稜線を、くっきりと見せた。

遮るもののない昼間の陽光が、緑の森に満ちた空気を暖かく包みこんでいた。まだ明るさの残る日暮れ前より、その暖気がそっと抜け出てきて、程よい温もりで肌を心地よく撫でてくれるようである。開けた車の窓を吹き抜けていく春風は、森の香りをも含むような感じがする。


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還って来た日々 -17/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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    仁はそれを見ながら、呟いていた。

「あの小父さんは粘りがないちゃ。まだまだ頑張れば負けるちゃ」

 仁は母とナミのお母さんから、鱈を一匹ずつ買ってくるように頼まれていた。

商人の中でもひと際、威張っており、恐そうな人のところへ行くと、仁はいきなり切り出す。

「小父さん、その鱈いくらや」

「坊や、鱈、買うがか」

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 仁は凛とした顔をすると、子供と思って馬鹿にするなとばかりに、強い口調で言い返した。

「だから、値段を聞いとんがや!」

 その商人は、むっとした顔をして金額を示した。

「小父さん、大分高いちゃ!」

子供と思って馬鹿にしていたが、なかなか手ごわいと考えたのだろう。この商人は、真剣になりだす。

「坊や、この鱈大きいがや。ここまでまけた」

「わし、今、この広場を回って見て来たがや。まだ安く売っている人が、いたちゃ」

「ほんなら、特別サービスや」

 なかなか妥協しようとしない仁に、商人は苛々して声を荒げた。仁はそんなことにお構い無く、交渉を続ける。三郎は喧嘩になりはしないかと、はらはらしながら様子を見ていた。

「その値段はまだ、サービスがたらんちゃ」

「これで最後や。この値段で」

.

 何度かの遣り取りの末、商人は投げ遣りに叫ぶ。

「小父さん、分かったちゃ。じゃ二匹買うから、もう少し負ければ買うちゃ」

 商人は仁の押しに、とうとう音を上げて、仁のいうなりになった。

 最後に商人は仁に聞く。

「お前、幾つや」

「中学生や」

「やっぱり、まだ坊やか」

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ナミと三郎は鱈をぶら下げて歩いた。大きな鱈をぶら下げていることに、なぜか三郎は、優越感のようなものを感じて歩いた。でも重かった。

 ナミは仁に聞いた。

「仁さん、なんで、恐そうな小父さんから買ったがけ」

「恐そうに見えたり、偉そうにしている小父さんは、すぐ、かーっとなるさかい、わしらの考えが通し易いのや」

三郎は仁の読みの深さと、駆け引きに感心した。やはり、あの不良の「鬼」が、仁に勝てなかったのは、当たり前のように思えた。

それから「何をするにも、頭を使う者が最後に勝つが」と言った中杉先生の言葉を思い出した。大きなことを学んだ気がして、三郎は青い冬空を見上げて、大きく深呼吸をした。


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還って来た日々 -16/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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その年の冬は寒かった。降り続いた雪は、屋根や道路を覆い、軒下には氷柱が垂れ下がった。道行く人は、雪を踏みつけながら歩く。踏み固められた雪の表面には、ゴム靴底の波型の跡や、踵の凹みが幾つも見える。さらに踏まれると、歩きにくいごつごつした路面になる。そこに日の光が当たると、鏡のような輝きをみせ、踏むとつるつると滑った。

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日曜日の午前、仁とナミ、三郎は、照り輝く雪の上を、転ばないように腰を落として歩いた。金沢駅前の広場まで来ると、冷たい風が強くなり、首の辺りをぐるぐると旋回していく。思わず三郎は首をすくめた。

駅前広場では、商人たちが、鱈を売りに来ている。彼らは木箱から鱈を取り出すと、エラを開き短い縄を通し、それを鱈の口から取り出すと、結び目を作った。輪になった縄で、ぶら下げた大きな鱈を、群がる客たちに見せて値段を示していた。仁は商人たちの間を、うろうろと見て回っていた。

労働者風の男が、一人の商人に近付くと、

「これ、幾らや」

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 商人のつけた値段に、その男は言った。

「もっと負けろよ」

「お兄さん、この鱈はでかいやろ。(大きいでしょう)眞子やぞ。この値で精一杯や」

 商人の威勢の良い言葉と、睨みを利かした目付きに、客の男は気後れしている。しぶしぶ財布からお金を取り出すと鱈を受け取った。そして自転車のハンドルの所にぶら下げると、そのまま帰って行った。


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還って来た日々 -15/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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(それにしても逃げ足の速い奴だ、ミチオはもういない)と思ったが、その後、三郎は、どこからどのように、逃げたか覚えていない。気がついたら梨畑を抜け、脇の道を走っていた。夢中で有りっ丈の力を出して走った。後ろから誰かが、追っかけてくるのではないかと振り向いたが、暗闇の中で全く分からない。

恐怖心だけが昂ぶり、震えが治まらなかった。来たときの田圃道へ差し掛かると、木の影にミチオがいる。トシオも、ナミも逃げてきた。皆のハアハアという息遣いが闇の中で、増幅されたように大きく聞こえた。

「おーい、ボウがいないぞ!」

 トシオが叫んだ。暗闇でじっと目を凝らすが、ボウがいない。しばらく待ったが、来ない。

「探しに行かんなん。梨を置いていこか」

恐くて、行きたくない気持ちが強かったが、勇気を出して三郎が言う。

皆は、ポケットから取りだした梨を草むらに隠すと、梨畑まで引き返すことにする。ゆっくりと歩いた。梨畑のおやじに見付からないように、梨畑の近くで立ち止まり、辺りを窺った。今迄、気が付かなかったが虫の鳴き声が、やけにうるさく耳をつく。もう親爺はいない。

耳を澄ますと、近くからシクシク啜り泣きが、聞こえてきた。

「あそこの電柱に、ボウがいるちゃ」

 ミチオが小声で叫んだ。

「電柱に縛られておるちゃ」

 ナミとトシオが、駆け寄った。

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目が暗闇に慣れてくると、確かにボウの姿が見えてきた。先程の梨畑の角にあった電柱に、荒縄でぐるぐる巻きに縛られていたので、皆で縄を解いた。思いのほか、かたく結び付けられている。ボウは自分で解くことはできずに、泣きじゃくっていた。

「頑張れ。ボウ、泣いたら駄目やちゃ」

皆で励ましたが、肩をぐったりと落として泣き止まない。三郎は何と慰めたらよいのか分からないまま、ボウの体を支えた。

「ボウ、わしの肩に手を乗せろ」

三郎はボウと肩を組むと、そこにナミも加わり、三人で歩いた。ボウの体から震えが伝わってくる。ぶるぶると小刻みな身震いが、ボウの受けた恐怖の大きさを表しているようで、三郎は申し訳ない気持ちになった。

「ボウ、頑張れよ」

 ナミも励ましていたが、恐怖心が、容易に払拭されないようだ。段々と皆から会話が消えていった。それからは、黙りこくって、誰も一言も喋らない。先ほど隠してきた梨も忘れて、そのまま帰った。三郎は、今も親爺が追っかけて来るのではないかと思い、時々振り返ってみたが、もう捕まろうが、どうでも良いと思うようになった。とにかく家の方角へ向かって帰りたかった……。


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還って来た日々 -14/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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季節が夏から秋に変わろうとしていた。その夕方は蒸し暑く、外で夕涼みをした。耳障りな蝉の鳴き声が、一日の終りを惜しむかのように鼓膜に響いている。蒸し暑い空気が覆い被さるように、身体にへばり付き、ひとりでに汗がにじみ出てくる。三郎は外に長椅子を持ち出した。そしてうちわを手に、蚊を払いながらトシオ、ボウ、ナミとで縁台将棋をした。三郎は五年生になっていた。そこへ、六年生のミチオがやってきた。

「今から、西念まで行って度胸試ししまいか」

ミチオが前屈みになると、突然言い出す。

「度胸試しで、なにするがけ」

 皆はミチオに聞いた。

「暗い所で、度胸試しすると面白いぞ」

「すぐそこの西念まで歩いて行くんや、そこでや」

 なにやら好奇心を煽るような言い方で、ミチオは話をする。

「……」

「わしについて来い。そしたら分かるちゃ」

 ミチオは野球が上手で、背が大きくて足が速く、皆は尊敬していた。ミチオが強調したのでついて行くことにした。

「そんなら、行こか」

 皆はミチオの後ろを歩いた。西念は近くにあり、梨畑が多い所である。目的地まで来ると、もう暗く遠くまで視界が届かない。

「お前ら、この梨畑へ入って梨を盗るがや、それが度胸試しや」

 ミチオは説明をした。

「そんなことしたら、捕まるが」

 皆は口々に言った。

「わしら時々、来て、盗っとるから大丈夫やちゃ。暗いと、誰もおらんちゃ」

 ミチオは説得口調で話をすると、梨畑の脇の細い所から中へ入って行った。

 三郎、ナミ、トシオ、ボウが躊躇していると何度も「お前たちも早く入れ」と中からミチオが小声で叫んだ。三郎の胸は、ドキドキと音をたてて鳴り出したが、皆で梨畑の中に入った。背伸びしたり、ジャンプして梨を取った。左右のポケットに、二個入れたときである。

「泥棒! 梨泥棒、泥棒」

 けたたましく、大きな怒鳴り声が響いた。ミチオは「逃げろ、逃げろ!」と叫ぶと、もう姿が見えなかった。


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還って来た日々 -13/25 [北陸短信]

                                刀根 日佐志

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正面から飛び込んでくると身構えた「鬼」は、二つの鉄拳を胸の前で揃えていた。しかし、仁が目の前から消えた。「鬼」は午後の眩いばかりの直射日光を顔面に受け、唖然とした表情で固まったままの姿勢でいた。そして相手の予想をはるかに超えた計略と、俊敏さに追従できなかったのであろう。

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つまり、既に観念していたと、三人組は仁を甘く見ていたらしい。確かに、無防備を思わせる仁のだらりとした恰好は、全てを投げ出していたやに思わせた。緩慢を感じさせた動作は、突如、敏捷になった。でも眼光は終始、爛々と光っていたのを、彼らは見落している。

「鬼」には油断がもたらした悔悟の念が、残される結果になった。だが、これだけ黒白が瞬時に明明白白となれば、「鬼」には激怒する気持が湧き上がることはなかったに違いない。強い陽光に、照らされた眩しそうな「鬼」の顔は、ひと際、無力感に充ちていたが、その心の中に一抹の清爽な風さえ吹き抜けていったのではないだろうか。

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三郎は何事もなく済んでほっとし、仁の大胆不敵な行動に敬服した。あの奇計は、時代物の好きな仁が、物語からヒントを得た策であったに違いないと思った。仁はちみつであり一度考えたら、それを貫くところがある。全ての面で、三人組より数枚上手に見え誇らしかった。

「三人組を相手にするちゃ凄い。仁さんは凄いちゃ」

ナミとトシオは上気した表情で、小声で呟いていた。

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後日、ナミとトシオと三郎が、中杉先生にこのことを話した。

「時代劇に出てきそうな場面やね。三人とも良く覚えときなさいよ。勝負をせんで勝つことも。それと何をするにも、頭を使わないと駄目なが。でも、不良を相手にせんほうがよいがよ(しない方が良いわよ)」

先生は、三人の頭を撫でながら、にっこりと笑みを浮かべて話をした。そして、もう一度、「何をするにも、頭を使う者が、最後に勝つが!」

と小さな声で囁いた。

三郎は中杉先生に、頭を撫でられたことが意味もなく嬉しかった。だが、それ以上に、仁の行動を手本にしなさいと言われたことが、弟として誇らしかった。三郎はあらためて「勝負をせんで勝つ」「頭を使う者が勝つ」と頭の中で反芻した。


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