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文芸社8月の新刊:「山の神を娶った山嫌い男」 [安曇野だより]

                                                      .by ぼくあずさ


飯豊山にてWEM36の学友には3人の百名山
踏破者がいます。
その内の一人、
下山さんの処女出版です。
山ガール、Wandelung愛好者、山嫌いの方にお勧めの一冊です。
お近くの書店で御注文下されば
幸せです。630円です。

山嫌い男カバー.jpg











下山さん

おはようございます。
とても素晴らしい本です。ありがとうございます。
「西島蔵書」に加えて末永く伝えたいと思います。

活字離れの昨今、個人出版は狭き門と聴いていました。
一読して続編出版のリクエストがあると感じました

拙ブログのカテゴリ-
「安曇野だより」を読み返すことにします

大学受験勉強をされた安曇野のお寺さんでの出来事は印象深いものでした。貴兄の人生は、よい意味で私の好きな言葉Gegenwart ist alle Erinnerung を彷彿させるものです。

Gruesse,
S.Nishijima

Gegenwart ist alle Erinnerung nach Novalis と 断捨離 [日本人とは]
http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-11-13-2


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女アルピニストを娶った山嫌い男の百名山奮戦記 [安曇野だより]

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深田久弥の百名山を踏破して何人かの方から何か書き物に残してはどうかとのお声を頂いた。

百名山登頂を達成した方を何人も知っていた私は当初あまり大したことをしでかしたとは思っていなかった。ところが時が経つにつれてもしかすると大変なことなのかもしれないと思うようになってきた。

山好きな頑強な男が達成したのではない。私は山が大嫌いであった。百名山登頂を達成した今「山が嫌い」とは言えないが山好きのかみさんや山好きの友人達がいなくなったら果たして一人で山に行くだろうか? 答えは多分「否」である。

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小さいときは虚弱体質で学校へ上がるまでは入退院を繰り返していたし、小学校でも体育の評価はいつも低く、運動会の徒競走はいつも尻、野球が好きでもクラスでは補欠の補欠で試合には一度も出させてもらったことがない。小学校、中学校といじめっ子に虐められるので学校に行くのが嫌いであった。

続きはリンク先をお読み下さい。

http://d.hatena.ne.jp/bonadult+2/20111102/1320240315


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シアトル便り最終回(11) [安曇野だより]

                                                            .by 下山成人

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3日後帰国の予定ですのでこれが最後のシアトル便りとなります。あまりお話しすることが残っていませんのでアメリカに来て驚いたことを二つばかりお話します。一つはクレジットカード会社のセキュリティー対策の徹底していることです。(性悪説に基づいているのでしょうか?)こちらでは買い物でもパーキングメーターの支払いでもほとんど銀行発行のDebit/Credit 兼用カードで済ます事が出来ます。Cashierでカードを読み取り機に通しPINコード(Personal ID Number, まあ暗証番号ですか)をキーインします。私は娘がシカゴに居る間にシカゴにあるChaseBankで口座を開きこのDebitカードを手に入れました。

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支払いに便利なのでいろいろな場面で使用していたのですがある日突然使用不可のメッセージが出て支払いが出来なくなりました。銀行の口座には未だ十分な残高がある筈です。

カード読み取り機の故障かと思いやむなくその場は現金で支払ったのですが、車を駐車するため路上のパーキングメーターにカードを差し込んでみるとやはり使えないのです。使えないと非常に不便なので直ぐカードを発行したChase Bankの支店に行きカードを再発行してくれと頼みました。応対に出た銀行マンはしばし顧客データベースにアクセして原因を調べていましたが「あなたは最近ベビーショップで大きな買い物をしていますが間違いありませんか」との言ったのです。出産祝いに娘にロッキングチェアーを買っています。「買ったけれどもそれがどうか?」と言うと急に大きな買い物をしたときは本人に確認がとれるまでカードをストップするシステムになっていると言うのです。大金と言ってもたかが10万円程度のものですから驚きです。娘も一度同じ目に会って大変困ったと言っていました。確認が取れるとその場でストップをはずしてくれましたが困ったものです。

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ところがシアトルに移ってから今度は大金を使っていないのに使えないケースに出くわしました。サービス・ステーションで車にガソリンを入れようとカード読み取り機にカードを入れるとZIPコードを入れろとメッセージが出たのです。ZIPコードはアメリカの郵便番号です。カードを発行した銀行の所在地のZIPコードなのですがシカゴの銀行のZIPコードなど覚えていません。これはカードが発行された土地から遠く離れたところで使われるのは盗難カードのおそれありということで何処で発行されたかを知っているはずの本人にZIPコードを尋ねるのだそうですがこれではZIPコードを覚えていない人はうっかり旅行にも行けないいことになります。全く厄介なことです。

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二つ目の話はスマートフォンに関しての驚いた発見です。日本ではすでに若者の50%以上が携帯電話からスマートフォンに切り替わったと聞いていますが、老人の間ではほぼ普及率は0%に近いでしょう。アメリカでは携帯電話の利用が遅れていると聞いていたのですがスマートフォンを使いこなしている老人達が多いのに驚かされたのです。シアトルでちょっと道に迷った時(別々な日時、別々な場所で)都合3人の人に道を尋ねました。一人は中年の婦人で他の二人は80才ぐらいの老人でしたが3人が3人とも「ちょっと待って」と言いながらポケットからスマートフォンを取り出しGoogle Mapの画面を出してポンポンと私の目的地をキーインして道筋を教えてくれたのです。未だにこれは偶然ではないか、またはシアトルが特に進んでいるのかなと解せないでいます。

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下山さん。 

シアトル便り最終回、西島さんのブログで拝見。 やはり私の方には到着していませんでした。

Credit/Debitカードについて一言。 米国カード会社、所有者の通常消費パターンから外れると支払を拒絶します。 10年以上前ですが、ブラッセルでブランド品の購入を米国Visaで行うとしようとしましたが拒絶され、日本のカードで支払いました。 

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高額の支払い、あるいは旅行に出る時は前もってカード会社に連絡しておきます。 ガソリンスタンドでのZipコード入力ですが、これは4-5年前から導入されています。 

米国ではこのZipコード(住居コード)とSocialSecurity#(納税者#)の最後の4文字は個人のIdentificationとして良く使われます。 下山さんのシアトル留学時代とは生活環境大きく変わったと思います。 

大嶋


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シアトル便り(10)プールサイドパーティー [安曇野だより]

                                 .by 下山成人

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8月4日娘の住んでいるコンドミニアムの自治会主催のプールサイドパーティーが夕刻6時から催されました。 メインディッシュとドリンクとは用意されているからサラダかデザートを持ってくるようにと連絡がありました。家内がジェリーのデザートを用意して家族全員で参加しました。夏のシアトルは夜9時頃まで太陽が出ているので真昼のあかるさです。

新生児の孫を連れていくと皆が「Oh, very cute!」と言って集まって来ました。アメリカ人は中々社交上手です。

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プールサイドではアマチュアバンドが音楽を奏で2-3の老人カップルがダンスをしています。一人の老婦人が「今晩は!」と声をかけてきました

Can you speak Japanese?」と訊くと「ええ、I used to live in Gifu many years ago.」と日本語ではなく英語で返事が戻って来ました。「鵜飼を見ましたか?」と訊くと「ええ、勿論です」と言うのです。彼女はしきりに「昔は私日本語ペらぺらだったのよ。」と言うのです。「日本語はどこで習ったのですか?」と訊くと「ワシントン大学で習いました。」と言うではありませんか。何時のことですかと訊くと1965年だというのです。私はワシントン大学で1965年の6月まで日本語を教えていたのです。もしかすると私の教え子の一人だったかもしれないと思うと不思議な巡り合わせを感じざるを得ませんでした。

続きを読む


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シアトル便り(9) 女性出張マッサージ師 [安曇野だより]

                            .by 下山成人

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私の娘は若いのに体が凝ると言ってはよくマッサージを受けます。 引っ越し前のシカゴでも回数券を購入してマッサージ・パーラーに通っていました。引っ越し前に券を使いきれないので少し使ってほしいと言われ私も引越しの手伝いで痛みが激しくなった腰と肩の筋肉をほぐしてもらいに出掛けました。娘が指名してくれたマッサージ師は盲目の黒人でした。しかし日本で上手なマッサージ師に掛っている私から見ると痛いだけで大した腕とは思えませんでした。ちゃんとしたマッサージ・パーラーに行くと1時間100ドルぐらいかかりますから日本より少し高いようです。

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さて、シアトルについて出産後暫くして帝王切開の痛みも抜けてきた頃娘は体が凝って仕方がないと言ってインターネットで自宅に来てくれるマッサージ師を探すことになりました。娘は買い物をするのにも、レストランを探すのもインターネットで口コミの評価を調べてから信頼できそうなものを選ぶようにしています。そこで見つけたのが現在キャンペーン中で2回分100ドル、一回一時間と言う女性のマッサージ師でした。一時間チップを入れても5000円程度ですから安いものです。しかも自宅まで出張してくれるというのです。大勢のクライアントの評価も5点評価の4.5以上となっています。娘は信頼できそうだと言って申し込むことにしました。家まで来てくれると言うので私もやってもらうことにしました。

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約束の日時娘の携帯が鳴りました。コンドミニアムの前まで来たのでドアを開けてほしいと言います。セキュリティーの関係で正面はかぎが掛かっています。大きなコンドミニアムで廊下が長く曲がりくねった通路なので私が迎えに出ることになりました。正面ドアを開けるとなんとそこには小錦が立っていたのです。全く小錦と見間違うほどの女性です。

ドアをすり抜けられるか心配になるほどの巨漢です。しかもその彼女がマッサージ用の折りたたみ式簡易ベッドを抱えてきたのです。相手が女性なのでベッドくらいは持ってあげようかなと思ったのですが腰痛持ちの私の手に負える品物ではありません。

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やっとのことでリビングルームに入ると彼女は早速ベッドを組み立て上げました。マッサージパーラーで使うような大きなベッドが出来上がりました。娘が「先にやってもらって」と言うので私がテストランの役を引き受けることになりました。「私がちょっと席をはずすのでパンツ一つになってベッドの上のカバーの中にうつ伏せになってもぐり込んでください」と言われ一抹の不安を感じながらその通りにしました。

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マッサージが始まります。彼女の太い腕で胴体を押さえつけられるともう身動きできません。強すぎたら言って下さいと言われましたが指圧は強いのが好きな私は「OK」と言ってそのまま続けてもらいました。シカゴの盲目黒人マッサージ師よりも数段上手です。息が出来ないほど押さえつけられるのですがすべてツボにはまっているのです。全身程良く指圧してくれます。へバーデン結節で指が固まってしまっている私の手の指もポキポキと音を立てて揉んでくれました。彼女の名前はテレーサ、経験16年と言っていました。とにかく思い出に残るマッサージでした。


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シアトル便り(8) [安曇野だより]

                                                 .  by 下山成人     

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育児記録データーベース作成

パソコンが扱えるということで娘に孫の育児記録のデーターベース作成を依頼されました。

これが意外に大変な仕事です。孫のオシッコ、うんち、そして授乳等々を時間と量を記録するわけですが授乳はなん種類にも分類されます。まず、母親の乳房から直接飲ませるBreast Feedingと哺乳瓶から飲ませるBottle Feedingとに分かれます。

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また、Breast Feedingであっても右の乳首から飲ませたか、左の乳首から飲ませたか、それぞれ乳首から直接飲ませたかそれとも乳首保護のNipple Shieldを付けて飲ませたかがあります。またBottle Feedingの場合でも市販の乳児用ミルクを飲ませたか前もって絞ってあった母乳を飲ませたかです。なぜこんな複雑なデーターを取らなければならないかと言うと早く理想とされる母乳だけの授乳にするための資料なのです。娘は自然分娩予定日より2週間も早く帝王切開で出産したために体内での母乳の製造が間に合わずBottle Feedingでスタートする必要があったのです。出産後すぐにLactation Consultant(授乳指導士)のもとを訪れその指導の元、データーを取り始めたのです。

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オシッコや便も色、量ともに観測しなければなりません。英語でオシッコはPee(ピー),ウンチはPoo(プー)と言います。ちなみにフランスではpipi(ピピ)caca(カカ)と言っていました。データは24時間とりますから大変な作業なのです。孫の誕生日から5週間で記入されたデータ数は裕に2000を超えました。今回ほど育児の大変さを痛感したことはありません。


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シアトル便り(第6話) 旧友との再会(2) [安曇野だより]

                                                     .by 下山成人

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シアトルに着いて3週間が経った頃、新生児用品を買いにワシントン大学そばのショッピングセンターへ娘と家内を車で連れて行くアッシーの役を仰せつかりました。女性の買い物の付き合いは大変疲れるものです。そこで思いついたのがそのショッピングセンターから1マイルも離れていないところに住んでいるポールのことでした。ポールは私が留学して初めて入った下宿で一緒だった香港からの留学生でした。女性軍は間違いなく2時間以上は買い物をしています。その間にポールのところへ行って昔話をして来たいと言うと彼女達は「それはこちらにとっても都合がいいわ。一緒についてこられると落ち着いて買い物ができないもの」と大賛成です。

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日本を出る前にメールで電話番号は訊いてありました。ポールに電話すると今日は家に居るから是非訪ねて来てほしいとのことです。ポールの住んでいるコンドミニアムはすぐ見つかりました。コンドミニアムの下で電話をすると直ぐ降りて行くから待っていてくれとのこと。暫くすると正面入り口のドアを開けてポールが現れました。頭こそ白くなっていましたが顔は日に焼けています。歩き方もすきっとして健康そうです。アメリカ流挨拶のハグをし合うと一気に47年前の友人同士に戻りました。4階の彼の住居に案内されると奥さんのリーがにこにこして迎え入れてくれました。リーに会うのは初めてでしたが毎年もらうクリスマスカードが夫婦連名で来ていたので初めて会ったような気がしません。

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昔の思い出話や47年間お互いに何をしてきたかを話していると2時間はアッと言う間に過ぎてしまいました。最近の話で面白かったのは彼のところにNHKの大河ドラマ“篤姫”のDVDが置いてあったことです。字幕が英語でついているそうでとても面白く勉強にもなると言っていました。何でも“篤姫は香港で大人気だったそうで親戚が是非見なさいと言って送ってきたとのことでした。又機会があったら来るからねと言ってポール家を後にしたのは2時間を少々過ぎた頃でした。

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一か月が経った頃、別の知り合いに会いに行く機会が訪れました。シアトルに引っ越してすぐにIKEAで買い揃えた家具の中に返品しなければならないものが出てきたのです。IKEAはシアトルの郊外KENTの町にあります。そのKENTにはワシントン大の先輩Mご夫妻が住んでいます。IKEAから車で5-6分のところです。この機会を利用しない手はありません。M氏はシアトルで我々の婚約パーティーを開いてくれた方です。 結婚式を挙げなかった我々には仲人のような方でシアトルに来たら他の人はともかくM氏ご夫妻には何とか時間を作って挨拶に行かないとねと家内と話していたのです。ご夫妻とは十年ほど前に来日された時にお会いしているので10年ぶりの再会です。  IKEAから電話をすると家に居るからいらっしゃいとのこと。カーナビを頼りに5-6分走ると    M氏夫人が表に出て手を振っているのが見えました。 M氏が78才、夫人が75才です。お子さん達は皆立派に成長されて出て行かれ今ではご夫妻だけで暮らしてみえるということでした。昔親しくしていた知人達の消息を伺うと亡くなられた方、身体が不自由になられた方の話が出て寂しい気持ちになりました。ご夫妻も自分達のお墓を買ってあり、時々掃除に行っているとのこと、別れ際に「会えるのもこれが最後になるかもね」などと言われいつの間にかそんな歳になったのかと考えさせられました。
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シアトル便り最終便 [安曇野だより]

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WME36 皆様

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明後日帰国します。 シアトル便り最終便(8)、(9)をお送りします。今まで読んでいただいた方々有難うございました。

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依然として涼しいシアトルにて

下山 成人

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ぼくあずさのCommrnt

掲載は来週末になります。読者の期待に添える内容です。

ご期待下さい。


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シアトル便り(第5話) 旧友との再会(1) [安曇野だより]

                                                              .by 下山成人 

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シアトルに着いたら再会したいと考えていた知人友人達が6人いました。 そのうち3人は約10年振り、残りの3人は実に47年振りの再会です。ところがシアトルに着いてみると慌ただしい毎日です。朝7時には起きるのですが家内と一緒に5人分の食事の準備をし、終わって食事の後かたずけをして洗濯、週に2回は絨毯張りの全室を真空掃除機で掃除をし、毎日のように娘の通院の送り迎えやらショッピングで昼間の3時間ほどが消えて4時ごろからは夕食の支度をし、食事の後かたずけを終える頃には夜の8時から9時となってしまいます。9時ごろまで太陽が出ているので夜が短く感じられます。計算が合わないと思われるかもしれませんがゴミ捨てやら、庭の手入れやらこまごました仕事が間にたくさんあるのです。と言った訳で昔のハウスボーイ時代を思い出しながら働いています。

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毎日夜になるとぐったりと疲れが出て日本に居た時に常用していた導眠剤も飲まずに眠れるようになりました。娘婿は外科医と言っても未だ卵で8月上旬に控えた国家昇級試験のための勉強が忙しく家事や育児の手伝いが思うように出来ないのです。私が友人に会いに行くにはどうしても最低4時間ほどの自由時間が必要です。

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初めて数時間の時間が取れたのがシアトル到着後3週間たった7月4日独立記念日でした。

休日で娘婿が自宅にいたので数時間のお暇をもらい予てよりお誘いを受けていた高校同期生有馬氏の自宅パーティーに出かけました。有馬氏は’60年代後半にシアトルに来てFishing BoatLeisure Boatを製造する会社を立ち上げ成功を収めた人物です。

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この日は雲ひとつない晴天で有馬邸に向かう途中の国道I5から見た真っ白なMt.Rainier(タコマ富士とも呼ばれている)は実に雄大で美しいものでした。彼の家は波静かな内海Puget Soundのシーサイドにありました。有馬邸に着いてみると若い世代の日本人達が集まっていました。近くで日本レストランをやっている若夫婦、東日本大震災の被災者の援護に日本に行ってきたばかりという看護婦さん等々です。

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海を見下ろすパテオでのバーベキューをご馳走になりながらお互いの近況を報告しあいました。彼の興したArima Marine International Inc.も最近の景気後退の煽りを受け注文が急激に落ちてしまい彼自ら現場に復帰して頑張っているそうです。それにしても今年6月に会社創設以来6000艇目のボートを製造したことになるというのですから立派な会社です。将来は良いを買い手を見つけ会社を譲りハワイに居を移し余生を楽しむつもりだそうです。この日は小一時間ほど話をしただけで又の再会を約し有馬邸を後にしました。

娘達の家に戻ると丁度日が暮れ始めワシントン湖の対岸のあちらこちらで独立記念日を祝う花火が夜空を焦がし始めました。


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シアトル便り(第4話)出産と名付け -1/2 [安曇野だより]

                        .by 下山成人

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シアトルへ着いてからの忙しさは引っ越し荷物の整理もさることながら娘の出産を真近に控えていたことから来たものでした。シカゴからシアトルへの移動も産婦人科医に「これ以上遅くなると飛行機に乗るのは危険です」と言われるぎりぎりのタイミングだったのです。以前に受けた外科手術の関係で娘は帝王切開で出産することになっていました。

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シアトルに引っ越すとすぐ娘の亭主の関係で紹介されていたSwedish Medical Center(シアトルの有名な医療センター)の産婦人科に連れて行かねばなりません。娘の亭主は仕事の関係でシカゴから来るのは10日ほど後です。結局付き添いの家内と娘を病院に連れていくのは私の役目となります。シアトルは昔住んでいた街ですから多少の土地勘があると言っても管理の悪いアメリカのでこぼこした舗装道路の上を臨月を迎えた娘を乗せて運転するのは神経を使うものです。外国の産婦人科には昔フランスに居たいた時に通訳係として妻に付き添って行ったことがありましたが娘を連れて産婦人科に行ことになるなどとは考えてもいませんでした。産婦人科の待合室で診察室から娘と家内が出てくるのを待っているのは周りに座っているのがお腹の大きい妊婦さんばかりでなんとなく場違いな感じがするものです。

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帝王切開というのはアメリカではC-sectionと言われています。CCesear(シーザー)Cです。初代ローマ皇帝のシーザーが母親の腹壁を切開して生まれたのでこの手術を帝王切開と呼ぶようになったと言われています(他の説もがあるようですが)。自然分娩と違って医者の診断に基づいて手術の日を決めるのですが手術日の一週間ほど前になると胎児の成長状態を調べるための診察が始まります。C-sectionの手術日は自然分娩予定日より1-2週間早めに設定されるのですが、それでも手術予定日前に陣痛が始まれば夜中でも娘を病院に連れて行かねばなりません。私も好きな晩酌をひかえて緊急時に備えているわけですから熟睡できません。

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手術予定日の数日前から軽い陣痛が始まり娘の亭主がシアトルに来る前に出産になりはしないかとはらはらしましたが何とか持ちこたえ手術日を迎えました。娘の亭主もその前日無事到着し手術に立ち会うことになりました。


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シアトル便り(第3話) [安曇野だより]

                                                                        ・・・・・下山成人記

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今日はシアトル便りと言っても隣町のベルビュー(Bellevue)の話です。娘の家の居間から見えるワシントン湖のFloatingBridge(浮橋)は私にとって思い出の深い橋です。完成したのが1963年で私がワシントン大学に留学していた時でした。橋の向こう側がベルビューの町でたまたま私のホストファミリーのデイビッド夫妻の家がありました。橋の完成を報ずる地方紙に「ホストファミリーが近くなり喜ぶ留学生」として私の写真が載ったのでした。

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当時のベルビューはスーパーマーケット以外大した建造物もない閑静な住宅街だったのですが今では湖畔にビルゲーツが豪勢な邸宅を構え、町の中心街にはMicrosoftやインターネット通信販売で有名なamazon.com等の躍進のおかげでしょうか高層ビルが立ち並んでいます。ベルビューは行政上シアトルでないかもしれませんが私の思い出の中ではシアトルの一部です。先日数時間の自由時間が出来たので留学時代世話になったホストファミリーのデイビッド夫人アンを訪れることにしました。アンは夫のハリーが数年前に亡くなり未亡人となっています。湖畔にあった素敵な住宅を売り払い今では隣町の老人ホームに住んでいると知り娘の車を借り訪ねて行きました。

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娘の車のカーナビには教えられた住所が載っていませんでした。そこで前もってGoogleEarthでプリントアウトしておいた地図を頼りに出掛けることにしたのです。歳のせいで目が悪くなっている上に慣れない車に初めての道ばかりで何度か道を間違えます。特にハイウエイで出口を見過ごしてしまうと元に戻るのに大変苦労します。 戻ろうとするとOne-way, One-wayの連続でなかなか元の方向に走れないのです。こんな間違いを何度か繰り返し目的地に着いたのは予定していた時間より30分以上も遅くなっていました。メインロビーで待つこと暫し、アンが入って来ました。アンと会うのは10年振りです。90歳になったそうで少し耳が遠くなり視力もだいぶ衰え以前のようなきびきびとした身のこなしは見られませんでした。それでも施設内を案内しようと言って歩き出しました。

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コミュニティーホール、図書室、食堂、園芸の好きな人用のグリーンハウス、温水プール、フィットネスクラブ、卓球室そしてさまざまな趣味のためのクラスルーム等です。ショートゴルフコースも付いています。老人ホームなどという言葉はどこにも出ていません。入居者の住まいはコンドミニアム形式でアンのところは2ベッドルーム、2レストルームそして書斎とこじんまりとしたリビングルームも付いています。亡くなったご主人と一緒に移り住んだということでしたのでこのくらいの広さは必要だったのでしょう。立派なキッチンも付いています。好きな時に自分で食事を作るのだそうですが一日一食分は管理費に含まれていて昼食か夕食好きなほうを選び食堂に食べに行くのだそうです。朝食は食べたければ食堂で5ドル払うと結構いい食事が出るとも言っていました。小一時間程アンのリビングルームで昔話に花を咲かせ80歳までスキーをし、88歳まで車を運転していたというアンの長寿を祈りながらお暇したのでした。帰路ベルビューの町を抜け思い出の浮橋を渡る頃は真っ赤な太陽がワシントン湖の西に沈んで行くところでした。


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シアトル便り(2) [安曇野だより]

                                        ・・・・・下山成人記

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シアトルに着いた後が大変でした。引っ越し荷物をUnpackして家の中の然るべき場所に収めるのに2週間、その間、多くの大物家具はシカゴで売りに出してしまっていたので新たに購入する必要がありました。日本でも若者達の間で安くてまあまあの家具が揃えられることで人気のあるIKEAでベッド、食卓、室内チェア、パテオ用のデッキチェア等々を買いました。 配達費をケチってすべて自分たちの車で何度にも分けて運ぶのでこれがまた大変です。IKEAの製品はすべて自分たちで組み立てなければなりません。工作の好きな私も組み立て説明書を見ながら組み立ててゆくのですが数が多いので大変な作業となったのです。

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さて、娘たちの新居ですが素晴らしいところでした。コンドミニアムの一階なのですが3ベッドルーム、2つのレストルームに広いリビングと食堂に近代的なキッチン、庭には広いパテオ、その先には広々としたワシントン湖に面した芝生の庭がありその隣りにはコンドミニアムの住人専用のスイミング・プールも用意されています。朝になると庭の芝生には自動的にスプリンクラーが作動しだし適宜に散水してくれます。食堂とリビングルームはワシントン湖に面していて、SeattleBellevueを結ぶフローティングブリッジ(橋の半分近くが浮き橋で出来ているためこう呼ばれています)がすぐ近くを通っていて、その遥か彼方には雪をかぶったカスケイドマウンテンの山並みが見えます。

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湖上には多くのモーターボートやヨット、そして色とりどりのカヌーが繰り出していて、近くにはコンドミニアム住人専用のプライベート桟橋に美しいボート繋がれています。その周りには睡蓮がところどころ白い美しい花を咲かせていて朝昼となく鴨達も集まって来ます。小鳥たちもやって来ます。Blue Heron(青鷺)、ハミングバード、そして一番の見ものは湖畔の高い木にとまって湖水の獲物を狙うWhite-Head-Eagle(白頭鷲?)です。獲物を見つけると木の上から水面に一気に急降下して獲物をくわえて飛び上がります。カワセミの動作と似ていますがスケールが違います。そんな鳥達を眺めていると足元には可愛いリスがやってきます。

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こんないい住まいが地上駐車場と地下駐車場がついて月20万円そこそこで借りられることになったのです。全米でも人気の高いシアトルの不動産の通常相場より23百ドル安く借りられることになったのは娘の亭主がワシントン大学病院の外科医であることが家主に気に入られたためだったそうです。一つだけ難点を挙げれば住民の半数以上が老人ということです。家主は老人が多いので医者が住んでくれたら何かと都合がいいとでも考えたのでしょうか。こんなことで娘家族が移り住んだこの住まいは何という偶然でしょう48年前私がハウスボーイとして住み込みで働いていたリチャードソン邸から数百メートルしか離れていない場所なのです。

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さて、シアトルはよく雨が多いと言われているようですが引っ越してきて一カ月になるというのに未だ雨の日は二日しかありません。気候は温暖で七月というのに毎日気温は20度前後で推移しています。25度まで上った日は一日だけでプールに入ったのも未だ一度だけです。

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ぼくあずさのComment

カテゴリー「安曇野だより」には「48年前私がハウスボーイとして住み込みで働いていたリチャードソン邸」での生活が紹介されています。1960年代の米国の上流社会を垣間見ることが出来ます。


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シアトル便り(1) [安曇野だより]

                                                                         ・・・・・下山成人記.

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日本を出て早くも1ヶ月半が過ぎようとしています。5月の中旬過ぎにシカゴに着き、早速娘の引越しの手伝いが始まりました。娘の亭主が7月からシアトルのワシントン大学の医学部勤務が決まってシアトルへ引っ越すことになったのです。シカゴに着いた当初は今にも雪が降りそうな11月の気温になったかと思うと数日後には30度近い暑さになったりで毎日着るものを選ぶのが大変でした。約2週間毎日早朝から深夜まで引っ越し荷物の整理をして忙しく皆さんに便りする時間もとれないほどでした。大小の段ボール箱合わせて200箱となりました。

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前回アナーバーからシカゴへ引っ越した時にはいい加減な引っ越し業者に振り回されて大変な思いをしたので今回は慎重に評判最高位の業者に頼むことにしました。我々は先に飛行機でシアトルへ飛び荷物の到着を待ったのですが今回は約束の日時にぴたりと一つの紛失物のなく届いたのには感激しました。3千キロ以上の距離を一人のドライバーが18トントラックを41時間かけて運転して来たのです。唯一つ失敗したのは娘が使う自家用車の転送です。娘の亭主は後から移動することになっていましたし娘はお産を控えていたので自分で長距離車を運転する事は出来ません。と言って若い頃ならばともかく今の私には辺鄙な田舎道を3千キロも運転する事は危険です。そこで業者に陸送を頼むことにしたのです。一台だけ別個に陸送を頼むより引っ越し荷物と一緒のトラックで運んでもらった方が安くつくと聞いていたので18トン車に荷物と一緒に詰め込んだのです。問題が起こったのはトラックがシアトルの新居に近づいてからです。トラックの車体が長すぎて住宅街の道路でカーブが切れないのです。結局荷物を小型トラックに積み替えて新居まで運ぶこととなり5万円ほどの追加料金がかかってしまったのです。次回はシアトル到着後のお話を報告いたします。

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下山成人:Blog 開設のお知らせ [安曇野だより]

「安曇野だより」の執筆者下山成人さんからのmail です。文末のlinkは本blog右欄下方の「読んでいるブログ」に掲載。 

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ぼくあずささん、

すかっりご無沙汰しています。 12日は楽しみにしております。小生以前からいずれはまとめようと思っていました「百名山にまつわる話」と「アメリカ、フランス、ドイツ放浪の思い出話」の執筆を始めました。

いずれは小生のホームページに体裁のよい形でまとめ上げる予定ですがテスト的に未完成のまま二つのブログとして載せ始めました。未だ、なぐり書きのままですので最終的には文章や内容の修正が必要となってくると思いますが、もしご興味がありましたら下記をクリックしてご覧ください。 

百名山の方は全部で話前後で、放浪記の方は時間がかかりますが12030話でまとめるつもりです。

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下山成人 2010-06-07

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女アルピニストを娶った山嫌い男の百名山奮闘記

http://bonadult1.blogspot.com/ 

グッジ-の青春放浪記

http://bonadult2.blogspot.com 


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シカゴだより(5):2016年オリンピック [安曇野だより]

Willisビル(以前はシアーズビルと言われ長いこと世界一高いビルだった)に登りに行ってみると一階ホール壁に世界各国の旗とともに2016年オリンピックの旗が掛かっていました。街の中でも何箇所かで2016年オリンピックの旗を見ました。一般の人がどのくらい関心を持っているかわかりませんでしたが、シカゴの人達は非常に親切にしてくれました。外人に親切にする運動でもしているのでしょうか。

(完)                    ・・・・・シカゴにて 下山成人 2009/09/01


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シカゴだより(4):ゲイとアルカポネの街 [安曇野だより]

 娘の新居のあるHalsted St.はゲイとアルカポネの街と言っても良いところです。2.3ブロック北に歩くと道路のあちこちにモンゴルの寺院のマークのようなものが目に付きます。これはゲイを公認していると言うマークなのだそうです。良く見るとそれらしきカップルが、そこらじゅう歩いています。日本でも最近は性別の怪しげな芸能人が多く見られますが「ゲイのようだ」と言う言葉はセクシュアルハラスメントになるので使ってはいけないのだそうです 

又、南の方に1キロも歩けばその昔アルカポネが対抗ギャングを大虐殺したガソリンスタンド跡もありますし、カポネが常連であったCocktail LoungeGreen Mill」もあります。カポネが常に座っていた席も残っています。その椅子に座らせてもらってカクテルを一杯飲んできました。10ドルでした。

カポネの末裔は今でも麻薬取引をしているらしいです。

(5)に続く                 ・・・・・シカゴにて 下山成人 2009/09/01


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シカゴだより(3):がん告知と訴訟社会 [安曇野だより]

娘婿となった医者の卵Edwardから面白い話を聞きましたのでご紹介しましょう。私の義兄と親友が受けた最近の癌手術の話をしたところアメリカでは必ず患者本人にがん告知をして最悪のケースを説明するのが当たり前であるとのことです。ここで面白いのは患者本人の承認がない限り他人には、家族(配偶を含め)にすら癌であることを告げられないのだそうです。 

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日本の場合はまず家族が告げられ患者本人には知らせるべきかどうか相談するのが当たり前のように思っていましたが、だいぶ様子が違います。又、最悪のケースを説明するのは間違っても訴えられないためだそうです。アメリカではちょっとしたことで医者は訴えられるそうです。たとえば分娩を担当した医者は生まれた子が17歳になるまでは訴える権利があるそうで何時訴えられるか戦々恐々としているそうです。独立した医者は常に訴訟を起こされた場合の対策費として莫大な経費が掛かっているそうです 

.                                                     もし年間2000万円ほどの収入ならその内5割の1000万円は訴訟対策費として必要とのことです。医療保険の件も大変らしいですね。果たしてオバマ大統領アメリカの医療保険改革が出来るでしょうか。訴訟問題と言えば3人に1人が弁護士とも言われるアメリカ、新薬が出れば「副作用で困っている人は薬品会社を訴えましょう私がお助けします」と弁護士が広告を出しています。                                                   ・・・・・シカゴにて 下山成人 2009/09/01


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シカゴだより(2):引越し料金18万円($1,800)は安くなかった [安曇野だより]

前回のシカゴ便りでデトロイトからシカゴまでの引越し運送業者の運送費が18万円であったことをご報告しましたがこれには問題がありました。 最初に見積が10万円の業者が見つかり、そこに頼もうとしていたところシカゴの知人からそこは評判が良くないから止めた方が良いとの言われ他の業者を探すことにしたのです。インターネットで調べると多くの引越し業者が出ていて格付けも載っています。最終的にはA+の一社とA-の一社でした。A-の業者の見積金額は$1,400A+の業者の見積は$1,800でした。両者共土曜日ピックアップの翌日の日曜デリバーと言うのでA+の業者に頼もうと言うことになったのですがA+の業者から電話が掛かってきて翌日デリバー出来る運転手の都合がつかないと言ってきました。そこでA-の方の業者(Infinityと言う大手)に頼むことになったのです。

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当日Infinityの大きなトラックがやってきました。大男が二人で作業を始めました。梱包は丁寧でやはり大手に頼んでよかったと思いました。 ところがダンボール箱の数が思ったより多くなり当初の見積金額$1,400を大幅にオーバーして前述の$1,800となったのです。ここで契約書のサインです。この時になって業者の担当者が「うちは信頼のある大手なので正直なことを言うが明日のデリバーは出来なくなった。明後日のデリバーで納得してくれ、ダメならわれわれはこのまま荷物をここに置いて引き上げる」と無茶なことを言い出したのです。今更引き上げられたらたまりません。一日遅れのデリバーでOKを出すしかありません。その夜我々は娘の車でシカゴへ戻ったのです。 

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シカゴへ戻って二日目いよいよ荷物が届くと思っていたところInfinity社から電話です。「今日の配達は難しくなった」です。「では何時配達できるのですか?」と聞くとよくわからないと言うのです。契約書には翌日配送と明記してあります。最初にコンタクトした業者の営業担当に抗議すると契約書の最後に最悪14日掛かることがありうると謳ってあると言います。良く見ると確かに契約書の隅に小さい文字でそのように書いてあるではありませんか。驚きです。 

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結局荷物が届いたのは5日目の木曜日です。ところが荷物を運んできたのはローカルの別会社のトラックです。着いたとたん運転手が先に金を払えと言います。既に全額払ってある由言っても、聞いていないの一点張りです。Infinityの担当者に電話してその場は何とか納めましたがとんでもない話です。しかも荷物を家に運び込んで最終チェックでダンボール箱3つが紛失していることが判ったのです。Infinity社に電話すると当該3箱は中継倉庫に残っているのが見つかったと言います。ついでの時に届けると言います。娘のジュエルボックスも入っているので心配ですが戻らない場合は訴えることも考え待つことにしました。二週間たった今も未だ届かないそうです。オポチュニティーロス(荷物到着の遅れで娘は仕事を休まねばならなかったこと等)を考えると18万円の引越費用は決して安くないと思いました。アメリカでも近距離の場合は同じトラックが引っ越し先まで運ぶので問題ないようですが400キロも離れていると日本の宅急便のように行き先別に荷物をまとめて積み替えて運ぶのでいろいろ問題が起こるようです。面白いのはいろいろと消費者の苦情が多いせいか苦情処理専門会社というのがあって電話するといろいろと苦情を聞いてくれます。 今回あまりにもひどいので交渉の結果Infinity者に$200値引きさせましたが、$200以上運送人へのチップで消えてしまったのです。

(3)に続く                 ・・・・・シカゴにて 下山成人 2009/09/01


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シカゴだより(1):娘の結婚式 [安曇野だより]

MEW36の皆様へ、

今娘のシカゴでの結婚式が無事終わり一息ついているところです。 

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娘とのバージンロードの行進は一度ハワイで長女の時に経験していたのであまり緊張しませんでしたが披露宴でのダンスは大変でした。披露宴で来賓の挨拶が終わるとダンスが始まります。最初は新郎新婦が踊りますがその次に新婦と花嫁の父が踊ります。はじめ娘に一緒に踊るのよと言われた時にはその他大勢の中でボックスを踊っていれば良いぐらいに考えていたのです。ところが結婚式の数日前シカゴに着いた日に映画「Shall we dance?」に出てくるようなダンス・スタデオに連れて行かれ一時間ルンバの特訓をさせられたのです。娘との結婚式でのダンスは大勢の来賓の見守る中広いフロアで踊らされたのです.一曲踊るのですがその時間の長く感じたことといったらありません。我々のダンスの後は来客のダンスが深夜まで続きました。 

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シカゴでの結婚式が終わってから飛行機でデトロイトに飛び(40分ほど)郊外にある娘が住んでいた家に行きシカゴの新居への引越しの準備を手伝いました。ここで面白い経験をしました。それは「Moving Sale」です。これは「Garage Sale」の一種ですが引越しに際して行うものを特にこのように引越しセールと呼んでいます。娘の住んでいたのは奥まった静かな路地でしたが家の前にいらなくなった物を適当な売値をつけて並べ「Moving Sale」と書いたボードをおいて置くとどこからともなく人々がやって来てこんな物までがと思われる物まで買って行くのです。ベッド、掃除機、電子レンジ等はともかくも雑誌や鞄、古いマッサージ器、机、植木鉢までも買って行きます。売値のまま買って行く人もいますが値切る人が多いです。引越しの前日から引越しの一時間前までの間に20点中17点も売れ大成功でした。大手の引越し業者に頼んだ引越し荷物はダンボール40箱とダブルベッド1、リビングルームの大きいカウチソファ1、書斎机1と自転車等で約18万円程でした。デトロイトからシカゴまでは約400kmです。どうでしょう日本より安いでしょうか高いでしょうか。さて我々は昨夜娘の車で4時間かけてシカゴまで戻って来ました。 

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東京は未だ暑そうですがシカゴはもう秋の感じです。今年は夏をスキップして秋になりそうだと言っています。デパートではもう冬物を売り出し始めました。昨夜はなんと摂氏5度にまで冷え込みました。今週は娘の新居での引越し荷物の整理を手伝い9月8日に日本に戻ります。 

(2)に続く                 ・・・・・シカゴにて 下山成人 2009/09/01


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アメリカ留学時代:1957年製アメリカンフォード(4) [安曇野だより]

                                                                                  ・・・・・下山成人記「俺が運転する」と言って我がぼろ車を彼が運転してスポケーンに向かったのだがその運転のすさまじいこと。途中スポケーンに大分近づいたころ国道横の傾斜のついた土手道を車が傾いた状態でびゅんびゅんとばすのである。怖かった。きっと事故を起こして車が大破すると思った。夕暮れ時で真っ赤な大きな太陽が車と一緒に追っかけて来るのが目に入った。これがこの世で見る最後の光景だと思った。 

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こんな思いをして到着したスポケーンであったが彼女への電話説得は功を奏さなかった。その日は静かな湖の近くのモテルに一泊した。翌日になって李さんが「俺は彼女を説得するためもう一泊する」と言い出した。私は考えた。説得に失敗したら気性の激しい李さんはますます無茶苦茶な運転をするに違いない。もうこれ以上彼に付き合うのは身の危険を感じる。私はどうしても今日シアトルに戻らねばならない用事があると言って一人先にバスで戻ることにした。 

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数日後李さんがシアトルに戻ってきた時もう我が愛車フォードは一緒でなかった。帰路事故を起こし大破したのでジャンクヤードに18ドルで売ってきたと言って私に18ドル手渡した。我が愛車を失くした悲しみより生きていられたことを神に感謝した。


アメリカ留学時代:1957年製アメリカンフォード(3 [安曇野だより]

                                                                                   ・・・・・下山成人記.

只一度だけこの車で大きな事故を起こしたことがある。まだ購入して間もないころ広い一方通行の道を走っていた。この一方交通の道はなんと8車線であった。右から4車線目を走っているうち4車線・4車線の対面道路の中央線に沿って走っている錯覚に陥ってしまった。目的地に行くには左に曲がらなければならなかった。左側4車線には当然ながら向かってくる車は一台も見えない。私は後ろを振り返らずに左にハンドルを切った。ドーンと言う音がして衝撃を受けた。左側4車線は対面路線ではなく同じ方向の車の走る車線だったので左側を後ろから走ってきていた車に追突されたのであった。衝撃でハンドルを握っていた手の指からは血が流れていた。左の小道に曲がり停車した。追突してきた車も後ろに止まった。 

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アメリカでは事故を起こしたときは自分が悪くても決して謝ってはいけないと聞いていたが勘違いして後ろも見ずに左折したことを謝った。さぞどやされるものと覚悟していたが後ろの車から降りてきた人は穏やかな人で留学生が車線を勘違いしたことを理解してくれ保険の手続きをごく事務的に終えると「これから注意してください」と言って去って行った。 

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追突されたのは左の後部車輪の上でボディーがへっこみ、タイヤに擦れていた。工具を取り出し凹んだ部分を内側からたたき出すとタイヤがすれなくなり元通り走れるようになった。その後はそれを修理することなく車を失うまでそのまま乗っていた。 

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この愛すべきフォードの最後は壮絶であった。韓国から来ていた留学生の李さんが私の車でスポケーン(シアトルの東約50キロにあるワシントン州第二の町)迄一緒に行ってくれと言う。付き合っていたアメリカ人の彼女が実家のあるスポケーンに帰ってしまったので迎えに行きたいと言う。李さんと彼女はかなり深い仲になっていたし私も彼女のシアトルのマンションに招待されご馳走にもなっていたのでOKすることにした。しかしよく話を聞くと李さんが彼女に暴力を振るい彼女が愛想をつかして実家に逃げ帰ったのだという。 

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「彼女も君の事は信頼しているから、暴力を振るうのは韓国の愛情の表現だと彼女に説明してくれ」と言う。そんな嘘はつきたくないと思ったがOKした後だったのでスポケーンに向け出発した。当然日帰りは無理なので泊まりとなる。李さんはアルバイトでYellow Cabtaxi)の運転手もしていたが運転が乱暴でよく事故を起こしていた。

(4)に続く


アメリカ留学時代:1957年製アメリカンフォード(2) [安曇野だより]

                                                                                   ・・・・・下山成人記アメリカはまさに合衆国で州によって法律も異なりワシントン州は車検の制度がなかったのである。そんなわけで古い車も多く走っていた。アメリカ人の一人の友人は1936年製のアンティーク車に乗っていた。しかしながら私の1957年製フォードほどのぼろ車はあまりお目にかかったことがない。ある時飛行場へ人を迎えに行った帰りのハイウエーでのこと。突然風にあおられてボネットが跳ね上がり前方の視界が遮られた。後ろを見るとほとんど同時にトランクルームの覆いも持ち上がり後方の視界も遮られた。まったくのメクラ状態になった。幸い交通量の少ない時間帯であったので何とか停止して事なきを得たがこんな恐ろしい思いをしたことはない。よくクラスの友人に「昨日僕のうちのそばを通っただろう。あんなけたたましい音を出して走る車は君のしかないからな」と言われる。 

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こんな車でも冬にはよく夕食後皿洗いを済ませて60マイルほど離れたスキー場に出かけた。途中の山道で周りの林がぱっつぱっつと明るくなる。自分の車がマフラーから火を噴いてその光に照らされて周りが昼間のように明るくなっていたのである。そのことを知った担当教授から呼び出しがかかった。「火を吐いて走るのは大変に危険だ」と言うのである。今考えると本当によく事故を起こさなかったものと思いぞっとするがその後マフラーを直した記憶はない。 

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ある時スキーに行った帰り道そろそろ雪道用チェ-ンをはずしてもよかろうと思いチェ-ンをはずした。そこから1キロも走らぬところでスリップを起こし車体が180度回転し後続車と正面衝突をした。この時もたいした事故にならなかったのは只運が良かったとしか考えられない。こんなぼろ車でも結構良く走ってくれた。2年間程乗っていたがエンジンが故障したのは一度だけ。日本で乗っていたダットサンと同じようにシリンダーの一つが壊れたのだ。シリンダーのライナーを取り替えるだけでOKだった。

(3)に続く


アメリカ留学時代:1957年製アメリカンフォード(1) [安曇野だより]

                                                                                    ・・・・下山成人記1962年小さいころからの夢であったアメリカ留学を実現する為愛車ダットサンを売って得たお金を資金に横浜より貨客船にてシアトルに向かった。ワシントン州シアトルにあるワシントン大学への留学である。少しアメリカの生活にも慣れた頃学費を稼ぐため大学の紹介でアメリカ人の家庭にハウスボーイとして住み込むこととなった。 

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ハウスボーイとして住み込んだリチャードソン邸はメンバー制プライベートゴルフ場内にあるお城のような豪邸であった。ワシントン湖を見下ろす小高い丘の上にあり3階建てで南面は1階から3階まですべてガラス張りであった。 キャンパス近くの下宿からここに引っ越してきてまず必要となったのが通学用自転車である。また、ブロードモアーは関係者以外の一般人はゲートで許可証を見せないと入場できない地区であり自分の車を持たないと休みの日に外出が難しいのであった。 

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そんな訳で自転車と自動車を買うことにした。自転車は15ドルでリチャードソン夫人の知り合いの息子から買った。自動車の方はホストファミリーのミセス・デービッドソンの友達から200ドルで購入した。自転車は変速ギア付で時々チェ-ンが外れるトラブルを除けば坂道の多い通学路には最適であった。車は1957年製のアメリカンフォードで色は濃紺で全体に丸っこい形をしている。運転席から前を見ると大きなずんぐりしたボネットが見えバスを運転しているような感じがした。日本で乗っていたダットサンが小さかったので特に大きく感じたのかもしれない。 

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だがこの車がものすごい代物であったのである。ボネットのヒンジが片方壊れていてエンジンルームをチェックする時ボンネットを開くのに苦労する。助手席の座席は磨り減ってぽっくり穴の開いたように凹んでいる。又、助手席側のドアは壊れていていつも紐でくくって走行中に開かないようにしている必要があった。サイドブレーキは壊れていて使えない。おかげでサンフランシスコに似て坂道の多いシアトルのダウンタウンでは赤信号に出会うとアクセルとクラッチをたくみに操りバランスをとって停止状態を保っていた。おかげで数ヶ月も経つとクラッチワークが上手くなった。またマフラーも穴だらけで物凄い爆音をたて火花を散らせて走った。こんなぼろ車を使えたのはワシントン州であったからである。

(2)に続く


安曇野と私(3) [安曇野だより]

10年ほど経った頃、海外留学から戻って新婚生活を送っていた東京の私のもとに突然和尚が訪れた。「有明村が中房から温泉を引いて別荘地開発公社を作ったのだが私も理事にさせられた。いい場所だから是非買っておくといい」と言う。実は私が海外留学する直前にこの和尚から寺の周りの土地を買っておくとよいぞと勧められたことがあった。当時坪200円であったが和尚は「今は未だ一般に知られていないがこの先に黒部ダムと言うのが出来るらしい。出来ることが知れわたってからでは土地の値段が上がってしまう」と言うのである。言ってみれば株で言うインサイダー取引のようなものである。私も有明は好きになっていたので買っておきたいと思った。只、アメリカに旅立つ直前の話だったので親父に頼んだ。親父も話にのってくれたのであったが仕事が忙しく買おうとした時には既に土地は値上がりしていたそうでこの話はそこでお終りになっていた。 

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結婚前山好きの家内にいつか山の近くに家を持って見せると空約束をしていたこと、そして別荘地の販売価格を聞くと無理して買えない事もない程度であったので120坪ほどの温泉つき土地を買うことにした。今から35年ほど前のことである。当時は中央高速も関越道もなかったので訪れるのが大変であったが今では高速道路のおかげで3時間少々で行ける。冬はスキー、春は里山歩き、夏は川遊びそして秋は栗拾いや紅葉を楽しめるので一年中行ったり来たりしている。ちなみに正真院の方は件の和尚のお孫さんが立派な住職となり寺を切り盛りしている。

                                                                                   ・・・・・下山成人記


安曇野と私(2) [安曇野だより]

一週間ぐらいは驚くことが多くて一日も早く逃げ出したい気持ちであったが不思議なことにだんだんとこの和尚の魅力に惹かれていくのであった。所詮人生なんてえもんはなるようにしかならないのだからじたばたしてもしょうがない。 簡単に言えば「自然に任せて生きよ」と言うのがこの和尚の生き方であったのである。 

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結局私と友人は2週間程この寺の世話になった。最後の晩には送別会だと言って我々のためにすき焼きパーティーを開いてくれた。酒がどんどん振舞われ私と友人は酔いつぶれて寝てしまった。翌朝のことである。住職の奥さんが我々のところに来て言うではないか。「方丈さん(奥さんはいつも和尚のことをこう呼んでいた)があれから田舎芸者の所へ行ってしまい戻ってこないの。二人で迎えに行ってくれないかしら。」奥さんに描いてもらった地図を頼りに私と友人は田舎芸者の住みかを尋ねた。雨戸が閉まっていた。戸を叩くと目をこすりながら和尚が姿を現した。まだ酔いが醒めていないようである。「俺は何も悪いことはしておらんぞ」と言うと又引き込んでしまった。大した和尚である。 

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この和尚との話はその後フランスの女流作家グン・ニーベリさんやアメリカ神学校の牧師の卵ノーマン・アラーズ君を連れて訪れた際の禅の珍問答や珍騒動やらいろいろあるのだがそれらの話は又と言うことにして話を先に進める。

                                                                                  ・・・・・下山成人記

(3)に続く


安曇野と私(1) [安曇野だより]

安曇野は私の第二の故郷と言っても良い。安曇野との出会いは50年以上前に遡る。夏休みに高校の友人と大学受験勉強に本腰を入れるべくどこかよい所がないか探していた。幾つかの候補の中で有明(現在は安曇野市)にある曹洞宗の禅寺<正真院>に籠ることになった。親父の知り合いが正真院の檀家の長であった関係で話がとんとん進んだのである。当時は安曇野という言葉はあまり使われていなかったので有明の正真院と呼んでいた。北アルプスの燕岳への登り口中房温泉までは国鉄(今のJR)大糸線の有明駅からバスが出ていた。 

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今では有明は廃れてしまい、一つ松本よりの穂高が賑わっており中房温泉行きのバスも穂高駅から出ている。寺には方丈さん(住職)と奥さんそして二人の男の子が居た。寺は古く可なり傾いていたが我々二人は池のある庭に面した一室を与えられた。池の向こう側には北アルプスからの雪解け水が勢い良く流れていた。暑い日はそこに足を入れて涼むのだが冷たくて長いことは足を入れていられない。勉強するには良かったのだがそこの住職は生臭坊主だったので最初は逃げ出したい気持ちになった。 

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到着した日に先ず目に入ったのが住職の机の上にあった石原慎太郎の「太陽の季節」だ。そして屋根裏部屋に行くとずらっーと「世界裸体全集」が並んでいる。それに参ったのは毎日4時半ごろから木魚を叩く音と読経だ。そして5時には我々には広くて長い廊下の雑巾かけが課せられる。これは大変なところに入ってしまったぞと友人と二人で何とか早々に引き上げる方法がないかと真剣に相談したものだ。ある時寺の飼い猫が百舌(もず)をくわえて座敷に飛び込んできた。百舌は羽をばたつかせて逃げ出そうとしている。和尚はそれを見て喜んで「もっとやれもっとやれ」と猫をけしかけているではないか。殺生を咎めるのが和尚の務めと思っていたので驚いた。それに殆ど毎晩のように我々に酒を勧めるのである。焼酎を始めて飲んだのがこの時だった。目の前で四角い鯨肉の塊を包丁で刻み酒の肴に食え食えと勧めてくる。時には「蹴っ飛ばし(馬肉)」になることもある。方丈の奥さん(実はこの方は後妻さんだったがとても出来た方であった)もいろいろと酒の肴になる田舎料理を作ってはすすめる。

                                                                                    ・・・・・下山成人記

(2)に続く


私と安曇野:予告編 [安曇野だより]

稲門機械科倶楽部の皆さん

お早うございます。私は今安曇野にいます。今日は雨で久しぶりにメールする時間がとれました。 こちらは毎日涼しく庭の木陰で小鳥の囀りを聞きながら 朝食をとるのは気持ちの良いものです。四十雀が木に取り付けた小箱に出たり入ったりしています。巣作りに忙しいようです。一昨日は隣町の池田町の蛍祭りに行ってきました。1000匹もの源氏蛍の乱舞を楽しんできました。自然の蛍を鑑賞したのは数十年ぶりでした。池田町は安曇野市と大町市の間にある町で穂高町、明科町、豊科町等が合併して安曇野市となった時も独自路線を貫き合併に参加しなかった町です。町民全員がやる気満々で環境問題にも積極的に取り組んでいます。  15年かけて蛍を呼び戻したそうです 

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昨日は家内と家内の山友達の女性と3人で飯田市の近くにある しらびそ峠から御池山に登ってきました。御池山は日本で初めて学術的に認定された隕石クレーターのあるところです。数万年前に直径40mほどの隕石が衝突し、直径900mほどのクレーターを形作り今でも40%ほどが残っているとのこと。平成15年に発表されたばかりで、まだ最近の発見のようで知らない方も多いようです。しらびそ峠から反対側にある尾高山(2212m、高尾山ではありません)にも登ってくるつもりでしたが雨になりそうだったのでやめにし代わりに日本のチロルと呼ばれる下栗の里(谷底に向かって標高800m~1100mの間に耕地や民家が点在する。傾斜が30~40度もある場所にあります。)を訪れました.

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御池山クレーター

http://tsutomu3.com/06year/1021shirabiso/shirabiso_3.htm

日本のチロル「下栗の里」

http://www.tohyamago.com/kankou/simoguri/index.html  

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ぼくあずささんのブログに「安曇野たより」として「我が愛すべきぼろ車達」を書きはじめましたが本来は安曇野からお便りをすべきかと思いここ数日のことを書いた次第です。近い内に「私と安曇野」と題して私と安曇野の50年以上にわたる係わり合いの話を ぼくあずさ氏のブログに送るつもりです 

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PS: ぼくあずささん「日本百低山」というのもありますよ。又、深田久弥の百名山には標高1000m以下の山は開門岳(924m)と筑波山(876m)の二つだけしか選ばれていませんが岩崎元郎の新百名山には22座も選ばれています。 火山としては東京神津島の天上山(574)や三原山(764m)が低いですね。 でも笠山(112.2m)にはかないませんね

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紫陽花に関しては10日ほど前に八王子の高幡不動に行ってきましたが自生の紫陽花が多くて感激しました。 しかも四国の88札所めぐりも出来ちゃうのです。 一週間ほど前には伊熊さんたちと越生の紫陽花山に行ってきました。.             下山成人  2009/06/30


我が愛すべきボロ車達へのComments(3) [安曇野だより]

下山さん

我々が機械科に在籍していた頃の日本の道路と国産車事情を思い浮かべながら拝読しています。 

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私も卒業後ですが、クラウンに5人用のテントと夏用シュラフを乗せ、妹二人と共に鳥取砂丘まで、4泊5日のドライブは楽しい想い出。香住の応挙寺(大乗寺)の襖絵と2日目の天ノ橋立を眼下に見渡せる棚田でのキャンプは忘れ難い。 

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往路、小田原宿に入って観音開きのドアに異常音が発生、偶々トヨペットの店がある。割れたプラスチック製のコマを無料交換してもらう。箱根の山中でなかったのは幸運。山陰道と中国山脈の峠越えの道は殆ど未舗装でした。姫路の町中を走るクラウン、まったくの泥・泥・泥んこでした。 

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続きを楽しみしております。

ぼくあずさ  2009/06/17

(4)に続く

 

水仙とエチゼンガニ

http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2006/04/test_1.htm


我が愛すべきボロ車達へのComments(2) [安曇野だより]

ぼくあずささん、下山さんへ  ・・・ 6/16 13:15 村尾

下山さんの「我が愛すべきボロ車達(2)」を拝読しました。文中、「山掛けタイヤ」なる今は死語となった言葉にインドネシアを思い出しました。 

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インドネシアでは再生タイヤが安く売られています。トレッドが磨耗して原型が殆ど見えないタイヤを、少年達が彫刻刀で器用にトレッドを彫り起こし、黒い靴墨を塗って光らせて店頭に並びます。日本人駐在員でこのタイヤを新品と見間違えて買い、数十キロ走ってバーストさせた体験の持主もいます。インドネシア人は器用なことにかけては日本人を上回ることもあります。 

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ジャカルタへ出張中のある朝、支店長の電話で起こされて社宅へ急行したことがあります。ベンツのエンジンが掛からないから見てくれとのこと。何とキャブレターだけが盗まれており、これでは如何な「稲門機械屋倶楽部」の猛者もどうしようもなく、100ドルだけ預って繁華街にある店へ行きました。この場所は有名な泥棒市場で、そこに件のキャブレターが置いてあり、100ドルで買い取って再び支店長宅へ戻って復旧させました。 

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ジャカルタの目抜き通りに「井上タイヤ」の大看板がありました。私はそれまで井上タイヤを知らなかったのですが、二輪車用タイヤを専門に製造している日本企業で、当時のインドネシアではミシュラン、ブリジストン、ダンロップに優る知名度がありました。

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再び下山論に戻りますが、シリンダーライナーを交換しなくなって何十年になりましょうか。今のエンジンは何とも進化したものです。でも、あまりに進化すると衰退の始まりでもあり、自動車の動力が電車と同じになるのも間近いでしょう。何となく寂しさを感じます。

(3)に続く 

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我が愛すべきぼろ車達() [安曇野だより]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2009-06-16 


我が愛すべきボロ車達へのComments(1) [安曇野だより]

下山さん、ぼくあずささんへ    ・・・ 6/15 14:05 村尾

下山さん著す「我が愛すべきボロ車達」(1)を拝読しました。フロント・グラスは湾曲していない平板なガラスであることから、ダットサン110型だと推測します。エンジンは860cc、サイドヴァルヴでした。方向指示器が枝木式とは懐かしい方式です。アポロ工業のほぼ一手専売で「アポロ」と呼ばれていましたね。あのアポロ工業もサンウェーブ工業と一緒になってから、「アポロ」は時代の流れに消えていきました。 

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エンジン・ボンネットを開けて右側、小さな銘板が貼ってあり、110型なら日産自らが製造した車体であり110A型であれば三菱重工の製造になる車体でした。 

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あの頃、ダットサン110型はトヨタ・クラウンとタクシーを二分しておりました。はるか後の昭和50年頃、蒲田駅前に往時の観音開きのトヨタ・クラウンが個人タクシーとして使われており、たまたま乗った折に、オーナーでもある運転手に長持ちさせる秘訣を訊ねたことがあり、その答を今でも覚えています。曰く、「走らず、停まらず、曲らず。もう一つ、夜は走らず」。お見事の一語に尽きます。 

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下山さん、村尾さん

Taxiは米国車が普通でしたが、1957年、初めて国産の箱形ダットサンで浅草まで行きました。スプリングが柔く三ノ輪の交差点を大きく傾きながら走り抜けた。オースチンをStrokeのみ短くしたEngineだと聴きました。 

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当時、稲門自動車部には寄贈されたダットサンがありましたが、運転できるのは白タイヤ徽章を制服の襟につけた上級生のみでした。勉強と部活の両立は難しく、冬の館山合宿を最後に退部しました。私の緑タイヤ徽章は、今でも青春の楽しい想い出を秘めています。 

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昭和20年代に材木運搬用にやっと入手した戦前製ダイハツには、確かに手動の方向指示器がついていました。ケッチンがひどいので、新発売のマツダに買換えました。ケッチンはありませんでしたが、ノッキングが激しいエンジンでした。

ぼくあずさ  2009/06/15/16:30

(2)に続く 

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我が愛すべきぼろ車達() [安曇野だより]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2009-06-15 


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