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我が愛すべきぼろ車達(6) [安曇野だより]

                                                                       ・・・・・下山成人 書き下ろしその後は順調に進んだが浜松近辺は国道1号と雖も、未だ舗装されておらず砂利道を、砂煙を立てて進んだ。夕刻には京都に入った。いい宿が見つからない。そろそろ宿を見つけないと今夜は寝られないかもしれない。自宅の親父に電話すると大阪まで行けるなら知っている料亭の女将に電話しておいてやると言われたので大阪まで頑張って走ることにした。 

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大阪の料亭に着いたのは夜の11時をまわっていた。女将は三人分の布団をひいてくれていた。それに三人分のうな重弁当を用意してくれていた。とても美味かった。その夜は床についても未だドライブ中のように天井が揺れていた。翌日は神戸から有料道路で六甲山に登り有馬温泉に立ち寄り宝塚を通って岐阜まで走った。 青春の良き思い出である。 

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この我が愛すべきダットサンはアメリカ留学が決まってから親戚の知り合いの早稲田の後輩が5万円で引き取って行った。その金が横浜からシアトルまでの船賃の一部となったのは言うまでもない。

(7)に続く


我が愛すべきぼろ車達(5) [安曇野だより]

                                                                       ・・・・・下山成人 書き下ろし

3.昭和355月2人の友人を誘い神戸まで行ってみようと言うことになった。東海道の国道1号線は未だ完全舗装になっていなかったので一日で何処まで行けるかは出てみないと分からなかった。 兎にかく早出をしようと出発の前夜は渋谷の友人宅に泊めてもらう事になった。朝4時友人宅を出発。五反田から第一京浜に入ったあたりで突然ギヤが固まりギアチェンジが出来なくなった。3速に入ったままである。ドライブを断念すべきか迷った。時間が早かったので車の流れは少ない。どうせどこかの修理工場へ持ち込まなければならないなら行ける所まで走ってみようということになった。 

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先に見える信号が青になるタイミングを計りながら信号で止まらずにすむよう3速ギイアの範囲内で速度を調節し数ある信号を潜り抜けなんと一度も停止することなく小田原までたどり着いたのである。今ではとても信じがたい話だが事実である。小田原で国道1号線沿いにあった修理工場で車を止めた。診てもらうとディファレンシャルギアがいかれていることが分かった。修理を頼むと快く直ぐ修理をしてくれた。山中湖でのシリンダーのオーバーホールといいこの小田原でのディファレンシャルギイアの修理といい迅速にかつ安い修理費で修理してくれたものと感心する。 

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一時間もしない内に修理が終わり予定通り神戸まで行くことになった。最初の難関は箱根の山である。長野での悪路の体験があったのであまり心配はしていなかったがやはり我がダットサンは大きな唸りをたてて登った。箱根の峠で三島の町が遠くに見えてきたときは感激した。

(6)に続く


我が愛すべきぼろ車達(4) [安曇野だより]

                                                                       ・・・・・下山成人 書き下ろしエンジンが正常に動き出すまで30分以上も掛かったのである。いかし、やっと動き出したと思ったら山道は益々急になり15分も登ると再びベーパーロックに見舞われた。今度は何とか早くエンジンを冷やすため3人手に手にビニール袋を持ち道路脇の登山道を谷まで下りて行き水を汲んできてはエンジンにかける。こんな作業を頂上に着くまでに45箇所で行いやっとのことで美ヶ原に着いたときはもう暗くなっていた。美しい筈の景色も見ることが出来なかったのである。 

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今では松本から美ヶ原への道は舗装されていて(あたりまえだ)340分で上まで行けるのに我が愛車ダットサンは10時間も掛かったのであった。その翌日は松本から東京に向かった。国道20号は殆ど舗装されていなかった。しかも伊勢湾台風の傷跡がいたるところで見られ道路は何箇所かで分断されていた。一箇所は橋が流されたままで川を渡るには川の流れの中を進まねばならなかったのである。我ら3人裸足になって流れの浅いところを探す。一番条件の良いところで幅約7メートル水深約15センチ程の所が見つかった。 川底はぼこぼこした岩である。 

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こんなところを我がぼろ車は無事渡れるであろうか? 自信はなかったがここを通らなければ東京へは戻れない。運転する人間以外は外に出ていざと言う時に車を押す準備をする。イチカバチで車を川に突入させた。天への祈りが効いたかぼろ車はこの難所を突破したのである。何時間掛かったであろうか我々は夕方八王子にたどり着いた。八王子の町でちょっと車から出てタイヤを見て驚いた。四つのタイヤ全部磨り減ってゴムの部分が薄くなり下の布地が覗いていた。正にご苦労様我がダットサンであった。

(5)に続く


我が愛すべきぼろ車達(3) [安曇野だより]

                                                                       ・・・・・下山成人 書き下ろし

峠のトンネルは岩をくりぬいたもので車がやっと通れる狭さであった。このトンネルをやっとのことで潜り抜けると後は大町まで下り道である。相変らずの悪路であるが下りなのでエンジンの負担が少なく何とか大町にたどり着く。その日は有明(今の安曇野市)まで進み知り合いの禅寺正真院に泊めてもらう。和尚に「明日は美ヶ原に登ってみましょう」と勧められその気になる。 

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翌朝早起きして寺に別れを告げ松本へ出る。美ヶ原への道路は直ぐ見つかった。山道に入ったのは朝8時であった。勿論砂利道である。30分程登ったところで我が愛車が突然悲鳴をあげだした。アクセルが利かない。いくら踏んでもふうふうふうと唸るだけで先に進まない。さあ困ったと3人して車の外に出て途方にくれていると小型トラックが上から下ってきた。 

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田舎のお兄ちゃん風の若い運転手であったが我々に気が付きトラックを止めて近づいてきた。「どうしただ?」と聞くのでアクセルが利かないというとボネットを上げキャブレターを指差し「こりゃベーパーロック(vapor lock)ずら」と言った。 

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ベーパーロックは通常はオーバーヒートで蒸気の膨らみがブレーキの油圧パイプの中に生じ油圧が効かなくなる現象を言うらしいが、この場合はその現象がエンジンに噴霧ガソリンを送り込むパイプ中に発生しエンジンに供給されるガソリンが極端に希薄になり、エンジンが正常に機能しなくなることを指していた。「これはエンジンが冷えてくれば又正常に動き出す ずら」と教えてくれたのであった。 

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若いトラックの運転手がベーパーロック現象を良く知っていたのは美ヶ原に登る車は良くこのトラブルに見舞われていたに違いない。そうと分かればエンジンが冷えるのを待つしかない。持参していたウクレレを持ち出し車のそばでしばし演奏して時間をつぶす。

(4)に続く


我が愛すべきぼろ車達(2) [安曇野だより]

                                                                       ・・・・・下山成人 書き下ろし1.ある時この車で小学校時代のクラスメート数名と山中湖までドライブすることになった。国道20号は未だ舗装が完全でなく何箇所も砂利道を通って何時間も掛けてお昼近くに山中湖に近づいた時であった。急にゴックン・ゴックンと音をたてて車体が揺れだし、アクセルを踏んでも力が出ずのろのろ走るだけであった。未熟なクラッチワークによって起るノッキングとは明らかに違う。それでも超低速でやっとのことで湖畔の整備工場へ持ち込んだ。整備士が何やらエンジン部をチェックしていたが「こりぁ駄目だ。シリンダーの一つに穴が開いている。これでは東京まで帰れないぞ」とのたまった。 

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「シリンダーのオーバーホールをしてやるから暫く山中湖であそんでいなさい。」と言うが早いかエンジンを分解し始めた。23時間後戻ってくると「もう出来てるよ!」と言ってエンジンをかけてくれる。シリンダーの内壁を取り替えたと言う。当時は旧くなったエンジンはシリンダーのオーバーホールを行い又何年か乗り回したものである。今はそんなことはしないようだが時々何故だろうと思う。もっとも当時はタイヤも磨り減ってくると「山かけ」といって磨り減った面の上にタイヤのゴムを溶かし込み再使用したものだった。新品のタイヤに比べればもちは悪いが、それでも安いので私も山かけの再生タイヤを愛用していた。山中湖ドライブに参加した同級生みんなでシリンダーオーバーホールの手際のよさに感心することしきり。修理費がとてつもなく高いのではと心配していたが数人で割り勘したら気にならない金額だったので驚き。学生と思ってまけてくれたのかもしれない。感謝!感謝!の山中湖ドライブでした。 

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2.又ある時中学・高校時代の同期の友人2人を誘い新潟県の高田市(現在の上越市)まで行ってみようということになった。確か国道17号で行ったと思うがあまり記憶に残っていないので高田市までのドライブにはあまり問題はなかったようである。夜になって高田市に着き宿を探して一泊。翌朝早起きして市内の旧遊郭跡を見学し長野へ向かう。長野からは山道に入り大町に向かった。この山道が何年も人が通っていないのではと思われるほどに荒れている。馬車の轍が深いうえに背丈の高い草で覆われており先が良く見通せない。今でも上田市から明科に抜ける青木峠と言うのがあって道を踏み外すと23百メートル下の谷底まで落ちて行き引き上げ不可能で何台もの自動車が谷底に転がっていると言うがその青木峠の未舗装版と思えばよい。この山道では我が愛車は何度もエンストを起こした。そのつど皆で車を押し何とか悪路のドライブを続行する。

(3)に続く


我が愛すべきぼろ車達(1) [安曇野だより]

                                ・・・・・下山成人 書き下ろし飯豊山 025.jpg今年2月にPriusを購入。これが私の所有する18台目の車である。年代順に記すとダットサン(‘57)、フォード(‘57)、フィアット、コルベアー、VW、ブルーバード、マークII、ミラージュ、プレーリー、アコード、アメリカン・アコード、フェスティバ、コルサ、シビック、BMWRAV4、パジェロミニ、プリウスとなる。フィアット、フェスティバ、コルサとパジェロミニは主に家内が使用していた車である。       写真は百名山完登の飯豊山にて

.2台目のフォードから4代目のコルベアまではアメリカ留学中のものでありVWはフランス滞在中に乗っていた車である。15万キロ以上乗ったのはアコードとRAV4である。すべての車にはそれぞれいろいろの思い出があるが特に思い出深い初代ダットサン、フォード、それにVWについての思い出を時間の許す限り記してみたい。  なお、私は村尾さん達と同じ稲門機械科倶楽部に属している。

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ダットサン

大学入学以前に運転免許証を取っていたのでどうしても車が欲しかった。最初は家庭教師のアルバイトで貯めた金でオートバイを買うことにしたのだが資金援助するから危険なオートバイでなく自動車にしてくれと親に言われる。結局1960年に1957年製のタクシー上がりのダットサンを22万円で買うことになった。 

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車体は薄い青みがかったグレー色でシートは赤っぽいビニール製であった。確かエンジンが700CCぐらいの車でフロントガラスは平らな一枚ガラスであった。方向指示器は電気式ではなく運転席のノブを回すと車の側面からぴょこんと赤い方向指示板が飛び出すものだった。今でこそ中古車が安く買えるが当時はなかなかアルバイトで貯めた金で買えるようなものはなかったのである。 

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毎朝エンジンオイルの残量をチェックし、車の前面からクランク棒をエンジンに差込み手でぐいぐいと回してエンジンを起動させる。時にはエンジンルームを開きキャブレターの上部をはずし手のひらをかぶせてチョークさせないとエンジンが掛からない。慣れてくると手のひらの押さえ加減のコツがわかってきて直ぐにエンジンが掛かるようになる。 

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ぼろ車ではあったが良く働いてくれた。機械科在学中にしばしばこの車で通学していたので記憶されている方もいるかもしれない。堀君設計の卒論用の実験装置をこの車で溶接所に運んだ思い出がある。最高時速は下り坂での84キロ、時速80キロ近辺での共振振動を起こすがそこまで加速して走ることはめったになかったので問題にはならなかった。

(2)に続く

  

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下山さん

村尾さんの連載に続く自動車シリーズ、早速初回、拝見しました。18台とは多い方でしょう。私は米国を含めせいぜい10台(ブルーバード、クラウン2台、米国でシヴィック、日産、デルタ、コンチネンタルタウンカー、フォードトーラスワゴン、キャデラックコントアー、ホンダパイロットーSUV )で最後の2台今も乗っています。 

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ぼくあずささん

自動車には、皆さん人生の重要な局面と結びついて思い出が多いでしょう。

大嶋  20090/6/15/6:00.


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