SSブログ
稲門機械屋倶楽部 ブログトップ
前の30件 | 次の30件

JALの復活とANAの不満 –1/2 [稲門機械屋倶楽部]

                                                  WME36 村尾鐵男


数日前、経理破綻したJALが株式を再上場して完全に復活し、これに対して、ANAは「法の保護を受けたJALとの競争は不公平」だと不満を高め、国交省もJALへの規制を考え始めました。ANAの不満は何でしょうか。今一つ明らかにならず、ANAも多くを語りません。報道もANAの不満を伝えながら、今一つ歯切れの悪さが残ります。

かつて国鉄は政治家の画策で走らせた赤字路線の重たい負担で破綻し、現在のJRに分割再生しました。政治家は票田を確保するために、国が管理する国鉄に地元選挙区への線路敷設を強要しました。運輸大臣に就任して最初の仕事が「俺が町への急行停車」であった大物国会議員がいたほどです。

国鉄も今はなく、時代も空の時代になり、しかも大蔵省も手が出せない「空港整備特別会計」の潤沢な資金で、一県一空港の建設が始り、空港が完成すると、次は東京や大阪との直行便の就航を目指して、地元選出の与野党国会議員が手を結び、運輸省と航空会社へ波状攻撃を掛けるのが常態でした。

その最大の被害者が日本エアシステム(JAS)でしたが、そのJASを抱え込んでしまったのがJALです。運輸省は空港建設を決めるときの計画書に年間50万人の乗客が見込まれると書かれていても、実際は10万人ほどの空港も多数あり、定期便を飛ばせば必ず大きな赤字となる必然性がありました。
搭乗率なる用語があり、概ね搭乗率65%が損益分岐点となります。65%を越えた乗客の運賃収入がそっくり利益となり、65%に足りない乗客数に運賃を乗じた金額がそっくり損失となる搭乗率の仕組みです。


nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(53):女武者 巴御前 –1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                 WME36 梅邑貫


時     :平安末期より鎌倉の初め、1180年頃
場所   :信濃と鎌倉
登場人物:巴御前と源義仲

Tomoe-Gozen.jpg巴御前(トモエゴゼン)については出生も没年も不詳ですが、源義仲の武将の一人として大活躍をしており、源義仲が、と呼ぶよりは木曽義仲の名の方がよく知られていますが、義仲が久寿(キュウジュ)元年(1154年)の生まれで、寿永三年(1184年)に没しているので、巴御前もこの時代の人物であろうと推測されます。
木曽義仲は三十歳で没しており、そのときの巴御前の年齢は、文献では一致しておりませんが、二十四、五歳であろうと推し計られます。

巴御前は、鞆(トモ)とも鞆絵(トモエ)とも呼ばれていたようですが、木曽義仲の便女でした。
便女は「ビンジョ」と読み、文字通りに便利な女性の意味で、身の周りの世話に始まり、煮炊き洗濯と何でも出来る女性を意味し、文献によっては美女と書かかれた言葉が訛って「ビンジョ」となり、やがて「便女」と書かれたと説明しています。

しかし、巴御前は、色白で美人であったようで、やがて長じてから木曽義仲の愛妾となります。木曽義仲と巴御前は夫婦であったと伝える文献もありますが、木曽義仲が源頼朝の軍勢に敗れて自害する前に、巴御前に「信濃に残した妻には最早会えない」と語っていますから、木曽義仲は巴御前とは別の女性を正妻としていました。
 木曽義仲は一歳のときに父の義賢が頼朝の父である義朝に殺され、木曽へ逃れて育てられますが、兄弟同然に育った中原兄弟の妹が巴御前です。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

中国の夫婦別姓と嫁 [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


夫婦別姓の論議が日本でも盛んですが、中国では婚姻法が幾度も改正されて、夫婦別姓が広く容認されています。ただ、日本では論じられたことのない「冠姓」があります。たとえば、陳秀麗なる女性が劉なる姓の男と結婚して、劉陳秀麗と名乗る場合です。夫婦別姓でも、子供は原則として父の姓となりますが、母親の実家に跡継ぎがいない場合は、母親の姓を名乗ることも可能で、兄弟姉妹が別の姓となります。

さて、ここまでは公式論です。実態はどうでしょうか。中国人の通念は宗族の域を出ないとか個人主義だと言われます。宗族とは、自分と同じ姓を名乗り、血縁関係のある親族だけが大切で、他人を排斥する考えであり、個人主義はまさに他人はどうなっても構わないとの狭い意味での個人主義です。この宗族主義や個人主義は今に始るものではなく、古代から続く拭い難い中国人の習性です。

ですから、息子が結婚して嫁が来ることになって、その嫁に息子の姓を名乗らせるか否か、即ち、宗族の一員として迎えるか否かが大問題となります。当人同士はともあれ、両親、特に父親にとっては、先ずは宗族の利益が大事で、他の宗族に属する息子の嫁を自分達の宗族に迎えるには大きな抵抗感があります。
世の中の半分を支えるのは女性だから、夫婦別姓は当然とする考えは建前であって、本音は宗族を守る旧弊に「あります。

又、夫にとって最大の敵は妻だとする考えも濃厚です。永く一緒に暮らした妻ほど、夫の隠された部分をよく知っており、夫にとって妻は時限爆弾です。いつ何処で暴露されぬとも限りません。


nice!(7)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –10/10 [稲門機械屋倶楽部]

                           WME36 梅邑貫


 日向高鍋藩は藩主秋月種茂の事跡を継いで、今日の宮崎県児湯郡高鍋町も文教の町として栄えています。
その基礎を築いた秋月種茂は文教と福祉の政策を推し進めるに際して、農民により重い年貢米を求めることもせず、又、商人にさらなる上納金を求めることもなく、新田の開墾と藩そのものの殖産興業に努めました。為政者が政策を強く推進するとき、その財源を増税に求め、加えて不要にばら撒けば、秋月種茂に言わせれば下策中の下策です。

 天明八年(1788年)の初冬、秋月種茂は四十五歳、日向高鍋藩の藩主に就いた宝暦十年(1760年)から二十八年が経っていましたが、「いささか疲れ申した」と言って、嫡男の種徳(タネノリ)に藩主の座を譲って隠居しました。
ところが、二十三歳で藩主に就いた種徳が病弱で、藩政改革の先頭に立つことが出来ず、隠居した父親の種茂が依然として政務を執る状況が続き、しかも文化四年(1808年)に種徳が親より先に亡くなってしまいました。
その跡は、種徳は正室との間に子がなく、側室との間に生まれた十九歳の種任(タネタダ)が継ぎます。

秋月種茂は文政二年(1819年)十一月に七十五歳で没しておりますが、実弟の上杉鷹山は二年四ヶ月後の文政五年(1822年)五月に七十一歳で没しました
秋月種茂は今の世にはあまり知られておらず、一方、上杉鷹山はよく知られていますが、共に藩政改革に挑み成功した二人の名君で、実の兄弟であった藩主の物語でした。      (了)


nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –9/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                  WME36 梅邑貫


「殿、産後に命を落す母親が多く困りおりまする」
「産婆に払う代金が不如意なる故か」
「いや。産婆がおらぬ村が多々あり、それ故にござりまする」
種茂の行動は早く、急使を大坂へ派遣して産婆を連れて来させ、さらに新たな指示を与えます。「以後、貧しき故の間引きは固く禁ずる。双子を生んだ折は、その産婆代は藩費と致し、双子の親に扶助料を与えよ」

 明倫堂を開いたとき、秋月種茂はその建学の精神を文書で明らかにしております。曰く、「各人、自らの行動規範を確立せよ」。 あるとき、明倫堂での成績表が種茂に届けられましたが、それに目を通した後、明倫堂の教官達に申し渡した種茂の言葉が遺されています。
「人を育てるとは、五経を覚えさせることにあらず。人を吟味するとは、覚えたる詩経の数を確めるにあらず。世のため人のため、如何に働けるかを教え、それを見るのじゃ」

  三人目以降の子供への一日米二合か麦三合の無償供与、双子の家庭への産婆料の免除と支援、明倫堂に於ける成績優秀者への奨学金付与、このような施策は藩庫が潤っていればこそ実現できたのですが、事実、日向高鍋藩は藩主秋月種茂の藩政改革の効果が出て、表高は二万七千石に過ぎないのですが、実高は六万石ほどにも達していました。
 上杉鷹山に較べて、その兄の秋月種茂は話題になることが少ないのですが、秋月種茂の採った方策は現代にも通じます。


nice!(7)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –8/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                  2012-9 WME36 梅邑貫


「新田を開き、山に木を植え、江戸や大坂で高く売れるものを作るのじゃ」と秋月種茂は督励し、たとえば換金性に優れた朝鮮人参の栽培にも励みました。
 さらに、特筆されるのは、農民に牧場の経営を許したことです。日本に於ける牧場経営は、徳川八代将軍吉宗が下総、今の千葉県に開いた牧場がよく知られていますが、いずれも幕府直轄の牧場で、牧場で働くのは農民であっても、幕府の管理下での労働で、農民自らの才覚を生かす経営と運営ではありませんでした。その牧場を秋月種茂は農民達に開放して運営も任せ、主として馬を育てました。

 話は少々遡りますが、秋月種茂は江戸の屋敷で生まれ、外様大名の嫡男は国許へ戻る機会がありませんでした。当時は証人なる言葉が遣われているのですが、これは人質を意味し、外様大名は正室と子供達を江戸に留め置くことが義務付けられていたからです。その秋月種茂が初めて高鍋へ戻ったのは、宝暦十年(1760年)、父の種美は隠居して、種茂が第七代藩主を継いでからのことです。初めて日向高鍋藩へ帰国した秋月種茂は若く、優れて進取の気性を見せる小田岡右衛門をはじめとする者達を見出し、藩政改革の要諦を理解させた上で現実の施政を任せます。三人目以降の子供に一日米二合か麦三合を与え、水路と溜池を造成する一方で新田を開墾し、牧場を開いて農耕用の馬を育て、山林を整備して木材を生産し、さらに換金性の高い作物を栽培させました。それに加えて藩校明倫堂を開き、身分家柄に拘らずに優れた若者を育てました。

 あるとき、家中の者が秋月種茂に躊躇いがちに伝えました。
nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

天下、王土にあらざるはなし [稲門機械屋倶楽部]

                                                  WME36 村尾鐵男


詩経・小雅

溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣。

溥天(フテン)の下(モト)、王土(オウド)に非(アラ)ざるは莫(ナ)く、率土(ソツド)の濱(ホトリ)、王臣(オウシン)に非ざるは莫し。

詩経の小雅、谷風の什、北山に詠われる有名な詩です。「什」は十篇の詩を一巻にまとめたものを指します。溥天の「溥」は「遍(アマネ)く」の意味で、溥天は天下とか世界と訳されます。「王土」の王は各王朝の王とか皇帝です。「率土の濱」とは、「陸地が続く限り」とか「行き着ける限り」の意味です。

「天下に王の土地でない場所はない。いかに辺鄙(ヘンピ)な場所に住んでいても、皆、王の臣下である」

中国人が太古の時代から信じている王土論で、現在の中国人にも国境の概念が希薄です。ともかく、中国人が住む土地は中国領と信じ、今は中国人が住んでいなくても、大昔に住んでいれば、その場所も中国領だと信じます。
台湾も満洲もチベットも、回教徒が住む新疆ウィグルも中国領であると主張する根拠がここにあります。でも、そのくらいで驚いてはなりません。

太古の時代、北京原人の末裔が北へ移動してベーリング海峡を跨いでアラスカへ渡り、住み易い温暖の地を求めて南下し、アメリカン・インディアンとして定住しました。だからアメリカは中国領だと真面目に主張する中国人がいます。アメリカは、中国の皇帝が油断している隙に、コロンブスに掠め取られてそうです。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

三光作戦の嘘 [稲門機械屋倶楽部]

                                                  WME36 村尾鐵男


中国政権が永く日本を非難していた「三光作戦」があります。戦時中、日本軍が中国戦線で行なったと非難する「三光作戦」です。
「三光」とは、「三つの空っぽ」の意味で、「殺し尽くす」、「焼き尽くす」、「奪い尽くす」の三つで、これを「殺光」、「焼光」、「搶光(ソウコウ)」と呼び、三つの「光」をまとめて「三光」と称します。

私は「三光作戦」は中国自作の作戦名だろうとの疑いを持ち、三十年ほど前ですが、旧陸軍で中国戦線を転戦した方々数名に尋ねてみたのですが、一笑に付されました。
「君ね。そんな作戦はなかったよ。皇軍の戦い方でないないね。極貧の農民を殺し、家を焼いても効果はないよ。奪うものは何もないよ。俺達は皇軍だぞ。みっともない作戦なんかしないぞ。それに、そんな訳の判らん作戦名は付けんよ」

私にも判ることですが、日本語の「光」には「空っぽにする」との意味はありません。分厚い漢和辞典で調べると、俗語として、たとえば「用光」が「用い尽くす」と記されています。しかし、たとえ俗語でも、日本語では「光」に「尽くす」の意味はありません。

実は、「三光」は中国人の得意とする古来の業で、合戦の度に数十万の敵兵を殺して埋め、敵地を焼き払いました。この数日間、狂い盛った反日デモがその証拠で、日系の工場や店舗を「焼き尽くし」て「奪い尽くし」、殺人こそなかったのですが、日本人見れば中国から出て行けと威しました。
最近、中国政府の要人からは「三光作戦」の言葉を聞かなくなりました。彼等も嘘であることを知っていたからでしょう。百回喋っても真実にならない嘘です。


nice!(7)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

以馬上得之、寧可以馬上治之乎 [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


少々難しい漢文が続いて恐縮ですが、お付き合い下さい。

以馬上得之、寧可以馬上治之乎。

馬上を以て之を得るも、寧(イズク)んぞ馬上を以て之を治むべけんや。

少々長い文章の一節で、「之(コレ)」とは政権のことです。又、「馬上」とは武力を意味します。紀元前二世紀、漢の高祖を儒臣の陸賈(リク・カ)が諭した言葉です。

「政権は武力で獲ることができるが、武力で国を治めることはできない」との意味です。

今の中国共産党政権は、毛沢東が武力で簒奪したものですが、武力で治め続けてもいます。中国の古代より、禅譲で政権が移行する例は稀で、大半の政権が武力で奪取したものです。従って、現在の中国もその一つですが、政権交代のルールがありません。武力で得た政権は、必然的に武力で統治する独裁政権となるので、政権交代の方法を知らず、自分も武力で政権を奪取したので、自分の政権もいつかは武力で倒されるだろうと想像し、倒されまいとして武力統治を過酷にし、ライヴァルの芽は早々に刈り取ってしまいます。

荒れ狂った反日デモが急速に終焉しました。おそらく、デモの中に毛沢東の肖像画が現れたときが、デモを抑える転機と現中国政権は考えたのでしょう。毛沢東主義者にとって、共産主義貴族と化した政権首脳は倒すに値する標的です。ですから、反日から毛沢東を信奉する反政府デモへと移行することが現政権には最も警戒すべきことです。


nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –7/10 [稲門機械屋倶楽部]

                              WME36 梅邑貫


 この米沢藩の藩校である興譲館は、現在は山形県立興譲館高等学校としてその名を残しております。

  秋月種茂は日向高鍋の「明倫堂」をさらに充実させ、成績が優秀な者には奨学金を与えて、さらに高度な勉学に励むべく江戸や京都へ留学させるようにもなりました。
 若干重複しますが、秋月種茂の教育方針で特筆されるのは、藩士の子弟に限ることなく、町民と農民にも明倫堂で学ぶ機会を与えたことです。
他の藩の多くも藩校を設立して教育に力を注いでいましたが、大半はその対象を藩士、それも上士と呼ばれる高級武士の子弟だけに限ることが通常であり、下士の子弟にも入校が許される例は少なかったのです。その時代に、秋月種茂の明倫堂は上士と下士の子弟は当然としながらも、町民と農民の子供達にも学べる明倫堂は際立った存在でありました。

「子供を育て易くし、育った子供に学問を与える。これぞ我が高鍋の基(モトイ)なり」が秋月種茂の信念でありましたが、為政者として、子育てと教育のみに意を注いだのではなく、藩の財政を少しでも良くするために殖産興業にも熱意を示しました。

 先ず、新田の開墾から着手しました。現在の宮崎県は気候が温暖であることで知られていますが、特に日向地方は暖かくて冬季の寒冷も厳しくなく、夏季も猛暑に見舞われることが少ない土地です。
ですから、秋月種茂の時代でも、為政者に積極性があれば、農業と林業を興すことは、弟の治憲が苦労している東北地方の米沢に較べれば恵まれていました。


nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

天下之勢久分必合、久合必分 [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


天下之勢久分必合、久合必分。

天下の勢い、分かれて久さしきは必ず合し、

合して久しきは、必ず分かつ。

読者の皆さんは、この一文を何処かで読まれているはずです。三国志演義の冒頭、書き出しの部分です。
「国家は永く分かれていると、必ず一緒になり、永く一緒にいれば、必ず分かれる」との意味で、中国人であれば、三国志は読まずとも、武侠小説の三国志演義は必ず読んでおり、その冒頭部分は中国人の誰もが知る名文句であり、離合集散の摂理をよく知っています。一方で、中国人の口癖が「統一」です。中国人が、何故、斯くも統一を好んで求めるのか、私には今もって理解できずにおります。「統一」は日本語で言え
「中国は一つ」です。
「歴史悠久、土地広大、人口衆多」は中国人が自分達の中国を表すときの言葉ですが、加えて暫く前から、「中国は一つ」が中国政府も含めた口癖です。
ところが、現実の中国は一つではありません。独立国台湾があり、チベットや新疆ウイグルは、中国共産党政権による独裁強権抑圧が緩めば直ぐに独立するでしょう。ですから、統一を好む政府は常に高圧的で高飛車です。
秦の始皇帝が初めて中国を統一しましたが、二十年ほど後には分裂しました。中国が最も広大であったのは満洲族に漢族が征服された清朝時代ですが、これを破った中華民国も政府が複数あって三十年ほどで瓦解しました。
今の中国共産党独裁政権は磐石に見えますが、「統一」と「中国は一つ」を叫び続けるところから察して、「統一」が崩れる危険性を感じているのでしょう。


nice!(5)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

中国、上も下も責任転嫁 [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


昨夜から今日にかけて、日本のTVでも放映されましたが、中国外交部(外務省)の洪磊(コウ・ライ)報道官が記者会見で言い放ちました。
「反日デモで日系の工場や商店に損害が出ているが、これは総て日本政府の責任である」

18日早朝に「ぼくあずさは地球人」に掲載された「人不為己、天誅地滅」で、中国人は、一般庶民でも、絶対に謝らず、常に責任転嫁を謀って地位と生命を護らなくてはならないと書きました。
中国外務省の報道官が公式の記者会見で、「全責任は中国にある」とはまさか言えないでしょう。しかし、「デモの中には行き過ぎもある」とか「政府は他人や他国の財産や人を傷つけることまでは容認していない」と、このくらいは言えるはずです。

でも悲しいかな、中国人に染み付いた古来の伝統的思考形式は「絶対に謝らない」ことです。謝る余地を残しても自分の身が護れなくなります。
あの報道官が少しでも含みのある表現を口にすれば、直ちに更迭されて、明日からは姿を消すでしょう。

中国の歴史で独裁でなかった時代はありません。今も中国共産党の独裁体制の下にあります。歴史の改竄も独裁政治の下でなら思いの侭です。

「日清戦争後のどさくさに紛れて、日本が中国領の尖閣諸島を盗んだ」。これが中国政府が初めて明らかにした尖閣諸島が中国領であるとする根拠です。嘘も百回言えば真実となりますから、中国は謝ることなしに、嘘を言い続けなくてはなりません。中国人にも中国とは疲れる国でしょう。


nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖 秋月種茂 –6/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                               WME36 梅邑貫


一方、弟の上杉治憲は従四位下、弾正大弼(ダンジョウ・ダイヒツ)で侍従も兼ねて、日向高鍋藩と米沢藩の格の違いがその藩主の官位にも表れており、共に外様大名ではありますが、上杉謙信以来の上杉家の重みも無視できません。

 秋月種茂は弟の上杉治憲から来た文(フミ)を幾度も読み返し、その文が治憲の直筆であって、右筆に書かせたものではないことを知り、治憲が如何に悩んでいるかを知ります。しかも、種茂を兄上と呼び、堅苦しい官位を避けているのは、実の兄弟の間だけの話にしたいのであろうと種茂は察しました。
 秋月種茂は文机の前に座り直して、自ら筆を手にして返書を認め始めました。

「治憲殿
 政(マツリゴト)を建て直すは、いずれの領国にても難事なること、変わりなく候ことにして、米沢のみにあらず。追々細かきこと伝え申すが、よもや興譲館を忘れてはおられまい。興譲館は元禄十年(1697年)、上杉綱憲殿が興され給い、米沢にて優れたる者を育てしも、一度は閉じたと聞き及び候。この興譲館を再興されるが先ずは肝要でござろう。迂遠と思われようが、一国を興すも人、廃れせしむるも人、先ずは人を育てられよ。治憲殿よう知りおる日向高鍋も人在ってのことなるを思い至られよ。米沢も然りでござろう」

 兄の勧めに従って、上杉治憲は、財政難で一度は閉じた興譲館を、「新たに事を取り立てるより、廃れたるを興すは人情いつも平なるものなり」と、安永四年(1775年)に決心し、翌安永五年の四月に興譲館は藩校として再開されました。


nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

昨今、気の毒に思うこと二つ [稲門機械屋倶楽部]

                                                 WME36 村尾鐵男


昨日、今日と慌しいニュースが流れていますが、それを読み聞き、「気の毒だ」と思うことが二つあります。


中国の若者

本当に気の毒です。江沢民統治下の反日偏向教育だけを受けさせられて、反日となれば、大きな五星紅旗を振ってデモに加わり、興奮すると直ぐに暴徒化する現代中国の若き単細胞達は気の毒です。次代の中国を担うはずの若者がこの有様では、中国の未来はありません。しかも、誰が煽動したのか、昨日と今日、反日デモの中に毛沢東の肖像画が掲げられました。
「毛沢東時代は良かったなあ。貧しい時代だったが、皆が貧しかった。今みたいに、不正に金を儲けようとは誰も思わず、国のために汗水を流した」
現在の中国で、毛沢東の肖像画は時限爆弾で、その肖像画の後を反日を絶叫しながら追う若者はただの爆弾運びの駒で、気の毒です。


中国共産党首脳

来月には全国人民代表大会が予定され、胡錦濤から習近平へ中華帝国皇帝の座が移される予定で、今は胡錦濤が少しでも影響力を残すべく、習近平も胡錦濤の影響力を少しでも少なくすべく、両者必死の攻防を繰り返しており、ともかく新たな問題に対処する時間はありません。

そこへ日本政府の尖閣諸島国有化のニュースが届き、江沢民の申し子達が騒ぎ始めました。


偏向教育の権化である江沢民の申し子は、抑えれば党と政府に反発し、抑えなければ世界に中国の恥を撒き散らします。さて、どうするか。中国は手詰りに陥たようで、気の毒です。


nice!(8)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

人不為己天誅地滅 [稲門機械屋倶楽部]

                                            WME36 村尾鐵男


人不為己天誅地滅
人、己に為さずば、天が誅し地を滅する。

中国人が好んで遣う言葉で、「他人が自分のために何かをしてくれなければ、その他人には天誅が下され、その他人が住む地を滅亡させる」との意味です。

私も公私共に多数の中国人との付き合いがあり、それも永きに及んでいます。その付き合いで知ったことがあります。中国人は絶対に謝りません。謝らないどころか、自分の非を他人に転嫁して、自分は正しいと常に主張します。
何故、中国人は謝ることができないのか。謝ることは自分の非を認めることですが、これは中国共産党による独裁下の現代中国では「自己批判」をしたと受け留められ、地位を失い、時には命も失うことになるので、絶対に謝ることができません。

何も現代中国だけの現象ではなく、古来から続く中国文化でもあります。家臣が皇帝の前で何かのことで謝れば、それは死を意味しました。その中国文化を忠実に受け継いでおり、今や中国文化は朝鮮半島でこそ命脈を保っていると自負する小中華の韓国と北朝鮮も謝ることを知りません。
自分の地位を守り、自分の命を永らえさせるには、自分の非を他人に転嫁しなくてはなりませんが、そのためには屁理屈でも歴史や事実の歪曲でも構うところなしに相手を悪者に仕立てあげなくてはなりません。

8月中旬以降の韓国と中国の態度を見ると、この両国の首脳が、もし日本へ向かって謝ると、地位と命をも失う危機に瀕している内情があるようです。その危機とは何でしょうか。


nice!(12)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –5/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                  WME36 梅邑貫


 日向高鍋藩の江戸表屋敷は麻布にありました。今の地図に引き直すと、麻布広尾交差点から東へ進み、有栖川宮記念公園に突き当たり、左へ進んで公園に沿って右へ曲って公園の向かい側の辺りでした。一方、米沢上杉家の江戸表屋敷は桜田門の正面、現在の東京警視庁の向かい側でした。
 又、江戸城へ登城した際、上杉治憲の控えの間は大広間ですが、秋月種茂は柳の間で控えました。大広間と柳の間は江戸城の本丸内で直ぐ近くに位置しますが、大名が勝手に他の大名の控の間を訪ね歩いて気安く声を掛けることもできません。実の兄弟の間でも、互いに屋敷を訪ね合うか、書状を認めて送るしかありません。

 ある日、麻布の日向高鍋藩の江戸表屋敷へ桜田門外の米沢藩表屋敷から使いの者が書状を届けに来ました。

「兄上、我が米沢を如何致すべきや。藩庫が軽きこと、事実、この上なく、加えて、永年に及びて借入れたる莫大なる金銀の証文も高く積まれおり、日夜、一時と雖も、心休めることができませぬ。秋月家を離れまする折、兄上より懇々と諭されましたる御言葉を幾たびも思い起こしおりまする。兄上が申されましたること、何事にも先んじて人を求めよ、人なくば人を育てよ。まことに至当なる御言葉にして、今まさに身に沁みて、粗衣粗食の我が両肩に圧し掛かりおりまする」

  大名の間で文書を交わすときは、相手の官位で呼ぶのが習わしでした。官位とは、たとえば大岡越前守忠相の「越前守」の部分です。この頃、兄の日向高鍋藩主秋月種茂は従五位下、山城守です。


nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

中国の民度の、何と低いことか [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


この数日、中国各地で反日デモが燃え盛っており、その民度の低さには世界の世論が呆れていることでしょう。
翻って、東京麻布の中国大使館へ「尖閣から手を引け」との反中国デモが押し寄せたとは聞かず、又、大手商社等に「中国から撤退せよ」とのデモが押し寄せたとも聞きません。外務省の正門に「親中・媚中大使を更迭せよ」とのデモもありません。

火を着けると直ぐに燃える中国の民衆、その民度の低さに驚くべきものがあります。
中国には国民がいません。存在するのは中国共産党の党員8千万人とそれ以外の民衆だけです。
中国共産党が蒋介石率いる国民党を駆逐して政権を取ってからも、古代中国以来続く共通の政策を踏襲したものがあります。
その一つが愚民政策です。民主化とか民衆の声に耳を傾けるとかではなく、はるかそれ以前の低次元政策で、民衆には「知らしめるべからず。由らしめるべからず」の古来一貫した統治手段です。

反日教育は極めて容易で、教育とは呼ぶに値しない低次元の教育です。現代の焚書坑儒で情報を封鎖して、統治者に都合のよい情報のみを民衆に与え、一方で、歴史を改竄して、民衆には「大中華帝国のさらなる拡大」意識をも持たせて浮世の辛さから目を逸らせ、党と政権上層部の権力闘争と不正蓄財を覆い隠してしまうのが常套手段です。
今も続く愚民大量動員の反日デモは、そろそろ抑えないと矛先が急に変わる危険を孕みます。中国王朝はこの愚民によって倒された歴史は、中国国内では改竄されていても、外国では正しく知られています。


nice!(12)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –4/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                 WME36 梅邑貫


その黒田如水の跡を継いだ嫡男長政の関が原の合戦に於ける軍功が徳川家康に認められ、筑前五十二万三千石を与えられた所領の中に含まれてしまいます。しかし、関が原の合戦当時、秋月氏の当主秋月種長(タネナガ)は石田三成に与して大垣城の守備に就いていたのですが、徳川勢に内応したことにより、外様大名ながらも日向高鍋が与えられました。

 紛らわしいことはまだ続きます。黒田如水の嫡男で筑前藩主黒田長政は三男の長興に五万石を分与して立藩させますが、それが筑前秋月藩と呼ばれます。

 話は日向高鍋藩の藩主秋月種茂に戻りますが、その実母は先代藩主秋月種實の正室春姫ですが、春姫は筑前秋月藩の藩主黒田長貞の娘です。
 さらに、春姫の母親は豊姫と呼ばれましたが、米沢藩四代藩主上杉綱憲の娘です。この日向高鍋藩の秋月家と米沢藩の上杉家を結ぶ縁があって、秋月種茂の七歳年下の弟治憲は十歳のときに上杉家へ養子に行き、後の上杉鷹山となります。

 秋月種茂の実弟で米沢の上杉家の養子となった治憲は幼名を松三郎と言い、長じて勝興と呼ばれましたが、徳川十代将軍家治の一字をもらって治憲と改名し、さらに鷹山(ヨウザン)の号を持って、日本史上では上杉鷹山としてよく知られます。
 上杉家の米沢藩は、度重なる移封と減封を受けて、往時の威容に翳りが見えていましたが、それでも十五万石の規模を誇りました。しかし、三万石の日向高鍋藩から十五万石の米沢藩上杉家の当主となった治憲を待っていたのは過酷な現実で、特に財政状態は極めて厳しく、上杉治憲は藩政の改革に乗り出します。


nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

習近平、颯爽と再登場 [稲門機械屋倶楽部]

                                                WME36 村尾鐵男


中国共産党次期主席と次期国家主席への就任が確実視されている習近平は9月1日から動静が不明になっていたのですが、昨日15日、北京の中国農業大学の始業式に現れ、颯爽と歩く姿が報道されました。

日本の場合で言えば、次期首相が確実視される自民党総裁候補五名の内の誰かが、この2週間の間、姿を消していたのと同じです

中国は奇妙な国です。その数々の奇妙なことの一つが、党首脳とか政府首脳の、特に健康状態については絶対極秘にされることです。
習近平の姿が消えて、当然ですが、政府はその理由に一切触れないので、香港情報や憶測がネットと口コミで流布され、水泳中の背中の負傷、癌の手術、交通事故、胡錦濤に撃たれた、親族間の暗闘等々、数多くの憶測情報が乱れ飛びました。

日本でも健康状態に不安を覚えた首相が辞任しています。かつての石橋湛山と最近では安倍晋三です。
中国でも党や政府の頂点に立つ者は健康でなくては勤まりません。

特に中国では、頂点に在る者はその座が常に狙われており、健康状態に弱みがあると、それだけで引きずり降ろされる口実となります。従って、政敵に隙を見せぬためにも、健康状態は極秘の扱いとなります。

習近平が2週間も姿を消した理由として、党務に多忙であったとの説が流布されています。それにしても、クリントン米国国務長官との会見も取り消した多忙さとは何でしょうか。奇妙な国がますます奇妙に映ります。


nice!(8)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

支離滅裂の電力政策 [稲門機械屋倶楽部]

                                     WME36 村尾鐵男


民主党野田政権は、十四日に「2030年代に原発ゼロ」を目指すとのエネルギー政策を決め、翌日の十五日には経産相が、既に建設許可が与えられながらも昨年三月の震災で建設工事が中断していた三ヶ所の原子力発電所の建設を認めました。三基の原子力発電所の完成時期は定かではありませんが、数年内に完成すれば、これも民主党政権が定めた「原発使用期間40年以内」に従えば、2050年代後半までは稼動することになります。

日本国家に責任を負う政権と責任政党の民主党が、何故、斯くも無責任な政策に走ってしまったのか。
それは間近に迫る選挙対策に冷静さを失ったに過ぎないからでしょう。
現在、日本国家の背骨でもある産業の成り立ちを考慮することなく、ただただ「原発ゼロ」を口走る者は何人いるのでしょうか。決して少なくはありません。
次の国政選挙で敗北必死、政権脱落必死、党の解体をも予想される民主党が藁にもすがる思いで求めたのが「原発ゼロ」票です。
民主党の選挙対策ですから、耳当りさえ良ければよいことで、辻褄合わせとか論理的整合性はどうでもよいことです。


大學 傳七章

心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味。

心、焉(ココ)に在らざれば、視(ミ)れども見えず、
聴(キ)けども聞こえず、食(ク)らえども其(ソ)の味を知らず。


nice!(7)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

ロシア正教総主教来日 [稲門機械屋倶楽部]

                        2012-9-15 WME36 村尾鐵男


大ニュースばかりの新聞で埋没していますが、昨14日、ロシア正教のキリル総主教が来日し、函館から東北の被災地を通り、東京神田のニコライ堂まで祈りの旅をされ、18日には天皇陛下に拝謁してから帰国されるそうです。ロシア正教の信徒は9千万人と言われる一大宗教組織です。尚、私はキリスト教徒ではありません。

8世紀の頃、バイキングの名で知られるノルマン人が現在のウクライナの大草原へ到達して国家を建設しました。国家建設には二百年ほども要するのですが、それは定住地を持たない遊牧民が広大に過ぎる草原に散在していたからです。
ようやく出来上がった国家は「キエフ大公国」と呼ばれ、ウラディーミルが初代大公となります。
まとまりの悪いキエフ大公国を一つに結び付けるには宗教が必要であるとウラディーミルは考えました。
そこで、カトリック教、イスラム教、ギリシャ正教、ユダヤ教の代表をキエフへ招いて、今で言うプレゼンテイションをウラディーミル大公の前で行わせました。

実は、ウラディーミル大公にとっては、キエフ大公国の国教はどれでもよかったのです。大公の下で、各地に散っている遊牧民が心を一つにする道具が宗教ですから、どの宗教でもよかったのです。

ウラディーミル大公は妻が五人いたので、複数の妻を容認しるイスラム教へ傾きましたが、酒が呑めないと知って退け、酒が自由に幾らでも呑めるギリシャ正教を選びました。それが今のロシア正教の始まりですが、ウラディーミル大公は妻の他に八百人の愛妾を抱えていたそうです。立派な男です。


nice!(10)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –3/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                    WME36 梅邑貫 


その藩主秋月種茂が考えたことは、国、即ち高鍋藩の財政改革であり、それは政治改革でもあって、そのために人口を増やし、有能な者を藩政に活かすための教育でもありました。

「人を増やし、学ばせる。而して高鍋は栄えよう。米、麦をただ供するのみにては、これ餓鬼大将とふしだらな娘を育てるに過ぎず。親に孝にして家業を栄えさせる子を育み、手習いで利発なる子を探し、藩校にて優れたる者に育成する」が秋月種茂の藩政に於ける要諦でありました。

子供を育て上げ、且つ能力を高めるための教育が両輪の如く相乗効果を発揮するもので、教育改革を放り出したままの現代の子供手当とは一線を画すべきものでありました。

  大変紛らわしいのですが、筑前(福岡県)に秋月藩がありました。そもそも秋月種茂の秋月氏は平安時代の武将大蔵春實に遡る日本でも古い家系の一つです。 伊予で朝廷に反旗を翻した藤原純友(893-941)を討ったのが大蔵春實で、その功で九州に所領を与えられ、大宰府の官人として務め、そのまま筑前の秋月に住み着き、名も秋月氏と呼ばれるようになりました。
 さらに他の文献では、秋月氏の始祖は後漢(西暦225-220)の第十二代皇帝である霊帝(在位:168-189)であるとし、大和朝時代に渡来した漢人であったとする説もありますが、定かな文献がありません。しかし、極めて古い家系であることは確かです。

 この地名としての筑前秋月は、現在の福岡県朝倉市ですが、豊臣秀吉の臣下であり懐刀でもあった黒田如水が隠居した場所でした。


nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

野田政権、中国を倣う [稲門機械屋倶楽部]

                                         WME36 村尾鐵男


昨日一日の出来事を今朝の新聞で読んで驚きました。野田内閣は昨日、我国のエネルギー戦略を定めたのですが、2030年代には原子力発電を廃止することに決めました。日本国家の将来を定める重要なエネルギー戦略を、こともあろうに昨日決めました。


昨日、尖閣諸島沖の我国の領海へ中国国家機関に属する艦艇六隻が不法侵入して遊弋し、国民の耳目が永田町から離れて西方の尖閣諸島へ注がれていたその間隙を突くように「エネルギー・環境会議」を開いて2030年代に原子力発電を廃すると決めました。

しかし、2030年代には原子力発電を廃するとしながらも、その結論は各所に矛盾と綻びが見えて、とてもこのままで突き進めるものではありません。察するに選挙目当ての思想的バラ撒きの一種です。

それはともあれ、中国船の不法侵入で世間が騒いでいる隙を狙った姑息な手段は、中国の政治手法に倣ったとしか思えません。
中国も尖閣諸島で意図的に騒ぎを起して、内政の苦境を乗り越えようと画策しており、中国民衆の目を政権内の権力闘争から逸らせ効果は絶大です。
野田政権も同じ手法でエネルギー戦略を決めてしまいました。中国船が日本の領海に侵入を始めたのが午前7時半頃、最後の船が領海外へ出たのが午後1時半頃で、「エネルギー・環境会議」へ野田首相が加わったのが午後4時半です。中国船が領海外へ出るのを見届けた後と言えば理屈は通りますが、如何にも姑息に過ぎる原発廃止の決定です。まさか中国政府に頼んで尖閣諸島の領海へ不法侵入を敢行してもらったとは思いたくありませんが・・・。


nice!(9)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

バナナの皮は何処から [稲門機械屋倶楽部]

                                          WME36 村尾鐵男


私は昭和36年(1961年)に航空会社へ就職し、平成4年(1996年)に定年退職しましたが、入社3年後の頃、まだ現場のエンジン工場に勤務していた頃に目撃したある事が今でも思い出されて、その理由が判らないままになっています。
当時はDC4型旅客機の全盛期で、20機も運航させていたのですが、ある日、オーバーホールの時間制限に達したエンジンが工場へ戻って来ました。
エンジンは米国PWA社製のR-2000型で、空冷星型18気筒、総排気量33,700ccです。1気筒当りの排気量は1、870ccです。

そのシリンダーの空冷用フィンにバナナの皮が乾燥して固くなって付着していました。
誰がバナナの皮をエンジンに向かって投げ捨てたのか。これがこの50年ほどの間、私には謎のままです。

バナナの皮は干乾びてシリンダーの空冷用フィンに食い込んでいましたから、生の状態でエンジンへ向かって投げられて、プロペラの風で押し込まれたと想像され、作動中のエンジンの熱で乾燥して固くなったと推測されます。
操縦士が操縦中にバナナを食べ、操縦席横の窓を開けて外へ投げ捨てたのか。あり得ないことです。
地上で誰かがバナナを食べて、エンジンへ向かって皮を投げ捨てたのか。地上作業中にバナナを食べる者はいません。
ターミナル屋上の送迎デッキで誰かがバナナを食べて、眼下の飛行機へ向かって皮を投げ捨てたのか。飛行機までは100mほどの距離があります。誰も見ていない所で、私はバナナの皮だけを投げてみましたが、10mの飛ばすことはできませんでした。50年来の謎は依然として謎のままです。


nice!(11)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –2/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                 2012-9 WME36 梅邑貫 

 全国的には、残念ながらあまり知られておりませんが、宮崎県の高鍋町は教育熱心な都市としてその分野では著名であります。秋月種茂が始祖となる「明倫堂」が二百五十年を経た今日も脈々と生き続けていると思われます。しかし、秋月種茂は単に教育機関を創ったことだけではありません。

「農民の子、三人目以降には、子一人につき、一日当たり米二合、或いは麦三合を給する」

 この創作短編を著す前に入念に調べたのですが、申し訳ないことに、秋月種茂が上記の宣言を発しったのが何時であったかがどうしても判らぬままになりました。おそらく明和年間(1764‐71年)の後半であろうと察します。

当時の日向の国には、北から延岡、高鍋、佐土原、飫肥(オビ)の各藩があり、延岡藩の七万石を除けば、高鍋藩の二万七千石の如く、いずれも小藩で、しかも江戸から遠く、多額の出費を強いられる参勤交代もあり、財政面では苦労しておりました。

 秋月種茂が打ち出した「三人目の子供以降、一日に米二合か麦三合」は今で言う子供手当そのものです。

 今の時代民主党政権が執拗に拘(コダワ)る子供手当は、国民の人気を得んがためのバラマキ政治の典型例となりました。

しかし、日向高鍋藩の藩主秋月種茂が案出した子供手当は現代の子供手当とは大いに違います。藩主とは国主と同じで、良し悪しは別にして、当時の政治形態の下では、国主が国民の人気を得る必要はなく、迎合する必要もありませんでした。


nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

民主党代表選に思うこと [稲門機械屋倶楽部]

                 2012-9-13 WME36 村尾鐵男


日本では昔から芸人とスポーツ選手と政治家は現役でいる限り呼び捨てにする慣わしです。ましてや政治家は呼び捨てが当然ですから、この一文でも呼び捨てにします。

民主党代表選に赤松広隆が立候補しました。赤松広隆は一年ほど前、農水相の任にあったときだったと記憶しますが、在日韓国人で結成する韓国居留民団、これを縮めて民団と呼びますが、民団に選挙権を公約しています。本人もこの事実が報道されたときに否定していません。

小沢一郎に至っては韓国を訪ねて選挙権付与を約束しています。小沢一郎は野田政権が三年前の選挙時に公言したマニフェストに記されなかった消費税増税を断行したと言って脱党しました。外国人への選挙権付与は民主党の選挙マニフェストに書かれていたでしょうか。

さて、赤松広隆ですが、民団との公約をどうするのか、口を閉ざしたままです。
今年の正月頃に新聞で読みましたが、スイスでは長期滞在の外国人に国防費を負担させ、一人当たり年間50万円ほどだそうです。しかも選挙権は論外です。
在日南北朝鮮人は60万人です。一人当たり年間50万円の「平和享受費」を課せば、3000億円の税収となります。
とは言え、外国人への選挙権付与の件ですが、たとへ地方選挙に限定するにしても、民主党のマニフェストには無かったはずです。マニフェストに書かなかったことを断行するのが好きな政党です。ところで、選挙権を与えると約束する前に、何故、日本への帰化を勧めないのでしょうか。順序が逆です。


nice!(9)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 -1/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                 2012-9 WME36 梅邑貫


時    :宝暦十年(1760年)より
場所  :日向高鍋藩
登場人物:秋月種茂

 日向の高鍋藩は現在の宮崎県児湯(コユ)郡東部で高鍋町を含む一帯でが、南北に長い宮崎県の海岸部、日向灘に面する中央部の辺りです。この日向高鍋藩の第七代藩主が秋月種茂(タネシゲ)で、宝暦十年(1760年)に、父親で第六代藩主の秋月種実(タネミツ、或いは、タネミ)の隠居に伴い、弱冠十六歳で就任しました。官位は従五位下、山城守です。

 十六歳の年齢は若いことには違いありませんが、昔は数え年で十五歳になると元服し、一人の大人として見做されました。女性も十三歳になると一人前とされました。

 秋月種茂は藩主に就くと、直ちに藩政の改革に着手しますが、それは性急なものではなく、若さを活かす、即ち、持ち時間が長いが故の着実なものであり、

「余は、先ず、人を育てるが肝要と思うておる」と宣言し、秋月種茂その人自身が大変な勉強好きでしたが、藩士とその子弟に限ることなく、郷民をも対象とする教育に熱意を注ぎました。

 日向高鍋藩には「明倫堂」と命名された藩校がありますが、この有名な「明倫堂」が設立されたのは、秋月種茂が藩主に就いてから十八年後の安永七年(1776年)ですが、その「明倫堂」として結実させるはるか前から、士と民を挙げての教育が藩主秋月種茂の強い意志の下で始められていました。


nice!(9)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

誕生日祝い [稲門機械屋倶楽部]

                 2012-9-12 WME36 村尾鐵男


今日は私の○○歳の誕生日です。

IMGP0025.JPGIMGP0026.JPG








9日の日曜日、誕生日には数日早いのですが、私の娘でモナ動物病院を逗子で開業している秀子が二人の孫、桃子と夏凪(ナナギ)を連れて我が家へ来てくれました。

忙しい娘が作り持って来てくれた料理とケーキと冬のシャツ等二着を祝いに贈ってくれました。その二着の服の袋に孫達のメモが入っており、それを読んで驚いたことがあります。

上の桃子は中学二年生ですが、「いつも数学と英語を教えてくれて有難う」と書かれたその字が上手いことです。ついこの間まで、子供の字で様になっていなかったのですが、いつの間にか形の整った綺麗な文字が書けるように成長していました。

下の夏凪は小学校五年生ですが、「いつもいろいろと買ってくれて有難う。長生きしてね」と書かれた書体はまあまあです。でも、あと半年で間違いなく私の背丈を追い越すでしょう。まだ生まれて間もない頃、怖々と抱いて風呂に入れたのを想い出しますが、よくぞここまで育ったと感慨一入です。


nice!(14)  コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

中国で何が起きたのか(3) [稲門機械屋倶楽部]

                            2012-9-13 WME36 村尾鐵男


今、中国で「習近平」と打ち込んで検索すると、「法により表示できない」との表示しか現れないそうです。

産経新聞の電子版によると、次のような書き込みがあったそうです。
She受傷了。 Who干的 ?」

習近平の習は北京語では「シー」と発音しますが、これを She と置き代え、胡錦濤の胡は「フー」と発音するのを Who と置き換えています。

「習近平は傷を受けた。胡錦濤がやったのか?」の意味です。
「干」は カン と発音し、俗語に近い「やる」とか「やった」の意味です。「的」は「ティェ」と発音しますが、語尾が上がるが下がるかで意味が異なります。この場合は、私は語尾が上がる「的(マト)」と解釈します。

中国人は昔から政府そのものと政府の公式発表を信用しませんが、それは政府による欺瞞と国民無視が常態化しているからです。
その代わりに、人から人への口コミ情報を信じて行動します。

習近平は北京の301病院へ入院しているとの情報が口コミで伝わっています。301病院は軍の病院で、要人は概ねこの病院で治療を受け、特に重病や重傷の患者の対応力で知られています。


nice!(9)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

創作短編(51):伊藤博文を撃ったのは誰か -10/10 [稲門機械屋倶楽部]

                         2012-9 WME36 梅邑貫


実は、この創作短編は前回で終わっていたのですが、急遽、蛇足を付け加えさせていただきます。

つい先月の8月15
日、韓国大統領李明博が日本領の竹島へ不法上陸し、後の記者会見で、「韓国独立運動の犠牲者に天皇陛下の謝罪」を求め、その一週間ほど後に韓国の外相に相当する閣僚も同じ発言を繰り返しました。
「韓国独立運動の犠牲者」の内に安重根も含まれると私は想像しますが、日本から見れば安重根はテロリストです。明治政府の重鎮であった伊藤博文に直接銃弾を浴びせてはいないにしても、そのテロリストに日本は、天皇陛下ならずとも、謝罪はおろか侘びの一言も必要としません。

この一文は楠木誠一郎著「日本史 謎の殺人事件」(二見書房刊)
を参考にさせていただきましたが、その原著では安重根と共に裁かれた他の三人の刑が軽いことから、三人か、その内の誰かが日本に通じていたであろうと推測しています。

いずれにしても、安重根が伊藤博文を暗殺せんとした理由の十五ヶ条は現代の日本人にとっても憤懣ものであって、支離滅裂です
安重根が自らこの十五ヶ条を考え出したのか、誰か別の者に刷り込まれたのかは今となっては検証の方法がありませんが、先の韓国大統領と外相の発言と照らし合わせると、国内政治での思惑があるにせよ、自分に都合の良い一方的な歪曲と解釈は安重根を今もって英雄として祭り上げている特有の思考構造に共通します。

私達はとんでもない隣人と大昔から付き合っています。日本の技術を求めるためには平身低頭しながらも、一度手にすると、元々自分達で開発したと自ら思い込ませて信ずる奇妙な思考様式を持っています。日本はこの国と民族に近着き過ぎてはなりません。「君子、危うきに近寄らず」です


nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog
前の30件 | 次の30件 稲門機械屋倶楽部 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。