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創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –3/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                    WME36 梅邑貫 


その藩主秋月種茂が考えたことは、国、即ち高鍋藩の財政改革であり、それは政治改革でもあって、そのために人口を増やし、有能な者を藩政に活かすための教育でもありました。

「人を増やし、学ばせる。而して高鍋は栄えよう。米、麦をただ供するのみにては、これ餓鬼大将とふしだらな娘を育てるに過ぎず。親に孝にして家業を栄えさせる子を育み、手習いで利発なる子を探し、藩校にて優れたる者に育成する」が秋月種茂の藩政に於ける要諦でありました。

子供を育て上げ、且つ能力を高めるための教育が両輪の如く相乗効果を発揮するもので、教育改革を放り出したままの現代の子供手当とは一線を画すべきものでありました。

  大変紛らわしいのですが、筑前(福岡県)に秋月藩がありました。そもそも秋月種茂の秋月氏は平安時代の武将大蔵春實に遡る日本でも古い家系の一つです。 伊予で朝廷に反旗を翻した藤原純友(893-941)を討ったのが大蔵春實で、その功で九州に所領を与えられ、大宰府の官人として務め、そのまま筑前の秋月に住み着き、名も秋月氏と呼ばれるようになりました。
 さらに他の文献では、秋月氏の始祖は後漢(西暦225-220)の第十二代皇帝である霊帝(在位:168-189)であるとし、大和朝時代に渡来した漢人であったとする説もありますが、定かな文献がありません。しかし、極めて古い家系であることは確かです。

 この地名としての筑前秋月は、現在の福岡県朝倉市ですが、豊臣秀吉の臣下であり懐刀でもあった黒田如水が隠居した場所でした。


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