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創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –4/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                                 WME36 梅邑貫


その黒田如水の跡を継いだ嫡男長政の関が原の合戦に於ける軍功が徳川家康に認められ、筑前五十二万三千石を与えられた所領の中に含まれてしまいます。しかし、関が原の合戦当時、秋月氏の当主秋月種長(タネナガ)は石田三成に与して大垣城の守備に就いていたのですが、徳川勢に内応したことにより、外様大名ながらも日向高鍋が与えられました。

 紛らわしいことはまだ続きます。黒田如水の嫡男で筑前藩主黒田長政は三男の長興に五万石を分与して立藩させますが、それが筑前秋月藩と呼ばれます。

 話は日向高鍋藩の藩主秋月種茂に戻りますが、その実母は先代藩主秋月種實の正室春姫ですが、春姫は筑前秋月藩の藩主黒田長貞の娘です。
 さらに、春姫の母親は豊姫と呼ばれましたが、米沢藩四代藩主上杉綱憲の娘です。この日向高鍋藩の秋月家と米沢藩の上杉家を結ぶ縁があって、秋月種茂の七歳年下の弟治憲は十歳のときに上杉家へ養子に行き、後の上杉鷹山となります。

 秋月種茂の実弟で米沢の上杉家の養子となった治憲は幼名を松三郎と言い、長じて勝興と呼ばれましたが、徳川十代将軍家治の一字をもらって治憲と改名し、さらに鷹山(ヨウザン)の号を持って、日本史上では上杉鷹山としてよく知られます。
 上杉家の米沢藩は、度重なる移封と減封を受けて、往時の威容に翳りが見えていましたが、それでも十五万石の規模を誇りました。しかし、三万石の日向高鍋藩から十五万石の米沢藩上杉家の当主となった治憲を待っていたのは過酷な現実で、特に財政状態は極めて厳しく、上杉治憲は藩政の改革に乗り出します。


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