創作短編(52): 子供手当の元祖秋月種茂 –2/10 [稲門機械屋倶楽部]
2012-9 WME36 梅邑貫
全国的には、残念ながらあまり知られておりませんが、宮崎県の高鍋町は教育熱心な都市としてその分野では著名であります。秋月種茂が始祖となる「明倫堂」が二百五十年を経た今日も脈々と生き続けていると思われます。しかし、秋月種茂は単に教育機関を創ったことだけではありません。
「農民の子、三人目以降には、子一人につき、一日当たり米二合、或いは麦三合を給する」
この創作短編を著す前に入念に調べたのですが、申し訳ないことに、秋月種茂が上記の宣言を発しったのが何時であったかがどうしても判らぬままになりました。おそらく明和年間(1764‐71年)の後半であろうと察します。
当時の日向の国には、北から延岡、高鍋、佐土原、飫肥(オビ)の各藩があり、延岡藩の七万石を除けば、高鍋藩の二万七千石の如く、いずれも小藩で、しかも江戸から遠く、多額の出費を強いられる参勤交代もあり、財政面では苦労しておりました。
秋月種茂が打ち出した「三人目の子供以降、一日に米二合か麦三合」は今で言う子供手当そのものです。
今の時代、民主党政権が執拗に拘(コダワ)る子供手当は、国民の人気を得んがためのバラマキ政治の典型例となりました。
しかし、日向高鍋藩の藩主秋月種茂が案出した子供手当は現代の子供手当とは大いに違います。藩主とは国主と同じで、良し悪しは別にして、当時の政治形態の下では、国主が国民の人気を得る必要はなく、迎合する必要もありませんでした。
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