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創作短編(52): 子供手当の元祖 秋月種茂 –6/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                               WME36 梅邑貫


一方、弟の上杉治憲は従四位下、弾正大弼(ダンジョウ・ダイヒツ)で侍従も兼ねて、日向高鍋藩と米沢藩の格の違いがその藩主の官位にも表れており、共に外様大名ではありますが、上杉謙信以来の上杉家の重みも無視できません。

 秋月種茂は弟の上杉治憲から来た文(フミ)を幾度も読み返し、その文が治憲の直筆であって、右筆に書かせたものではないことを知り、治憲が如何に悩んでいるかを知ります。しかも、種茂を兄上と呼び、堅苦しい官位を避けているのは、実の兄弟の間だけの話にしたいのであろうと種茂は察しました。
 秋月種茂は文机の前に座り直して、自ら筆を手にして返書を認め始めました。

「治憲殿
 政(マツリゴト)を建て直すは、いずれの領国にても難事なること、変わりなく候ことにして、米沢のみにあらず。追々細かきこと伝え申すが、よもや興譲館を忘れてはおられまい。興譲館は元禄十年(1697年)、上杉綱憲殿が興され給い、米沢にて優れたる者を育てしも、一度は閉じたと聞き及び候。この興譲館を再興されるが先ずは肝要でござろう。迂遠と思われようが、一国を興すも人、廃れせしむるも人、先ずは人を育てられよ。治憲殿よう知りおる日向高鍋も人在ってのことなるを思い至られよ。米沢も然りでござろう」

 兄の勧めに従って、上杉治憲は、財政難で一度は閉じた興譲館を、「新たに事を取り立てるより、廃れたるを興すは人情いつも平なるものなり」と、安永四年(1775年)に決心し、翌安永五年の四月に興譲館は藩校として再開されました。


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