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東京裁判と民間人(非戦闘員)の殺戮 -2/5 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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この東京大空襲当時鶴見の山の手に住んでいたのだが、真っ暗な夜空に東京の空が真っ赤になっていたのを今でも覚えている。空襲そのものについては以前に毛利登乙さんから生々しい体験記を頂いたのでご本人の了解は頂いていないのですが改めてここに再掲したい。

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①空襲当夜

私は父の勤める東京ガス大島工場の社宅に父母と3人(兄と姉は疎開中)で住んでいました。当時都市ガスは石炭を乾留して製造し、副産物としてコークス、タール、ベンゾール、ナフタリン等ができ、工場の中には貯蔵するヤードやタンクがありました。

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空襲当日、初めはいつものごとく遠く離れたところに焼夷弾が落下するのが見えました(8角形の筒に蓋がついていて蓋の中に空色のリボンがあり落下するときに燃える。したがって遠目には夜空に線香花火がゆっくり落下するように見える)。ところがだんだんと焼夷弾が近くに落下するようになり、ガスタンク、タールなどのタンクに正確に命中するようになりました。このころになるとB-29は1機ずつ超低空で飛来するようになり、目標を正確に捕らえるようになりました。家に火の手が近づくころやっと工場で手配を終えた父が戻ってきて3人で着の身着のままで逃げ始めました。

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火災により発生する風に吹き飛ばされぬよう、3人はロープで縛りあい、防空頭巾にどぶの水をかけながら焼失した家屋の後を選んで近くの運河に向かって逃げました。途中背中に火のついた布団を背負って逃げる人や、焼夷弾の直撃を受けて倒れる人、人で一杯の防空壕等々を見ながら運河にたどり着きました。幸いと言うか幸運というか、岸に1艘の小船が繋いであり、まだ焼け残っていた家の壁に掛かっていたはしご、とび口、ひたき(?棒の先に布の紐がついていて水をつけて火を消す)を取り外し舟(木製、4,5人乗り)に乗り移りました。後は火の付いた漂着物から舟を守るために夜どうし棒で近づかないように防ぎました。


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東京裁判と民間人(非戦闘員)の殺戮 -1/5 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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先週お盆の休みを家内の実家で過ごしたことをお伝えしましたが、8月15日の終戦の日に縁側にぼんやり座っていたら、ふと戦時中の歌の一節が頭の隅をよぎりました。田舎に行った所為でしょうか。

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太郎は父の故郷へ、花子は母の故郷へ

 里で聞いたは何の声・・・・・・ 

 のぞみ大きく育てよと遠く離れた父の声。

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<父母の声> 作詞:与田準一、作曲:草川 信

http://www2.bbweb-arena.com/corelli/newpage27.html 

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昭和19年、空襲が激しくなって学童疎開が行われた頃の歌です。

当時はまだ子どもだった所為もあるのでしょうが何も感じなかったのですが、今聞くと哀調を帯びた何とも切ない歌で、親元を離れた子供の悲しさが胸を打ちます。

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地方に親類・縁者があるものはこの歌のようにそこを頼って子どもを疎開させ(縁故疎開)、これだけでは効果が無かったので、國民學校初等科3年生以上は学年毎に、或いはクラス毎に集団疎開をさせられました。まだ2年生だったので集団疎開は免れましたが、当時はすでに食糧事情も逼迫し、何処へ行ってもひもじい思いをしたことだろうと思うし、また低学年の児童が親元を離れると言うことはどんなに心細かったことだろうと思うし、また他所者ということでいじめもあって悲しかっただろうと思う。そして終戦を迎え再び親と巡り合えた子どもは幸せな方だっただろうが、疎開している間に両親を戦災で失い、所謂戦争孤児となり浮浪児となった子供も多い。

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戦後これらの子どもを扱ったラジオの帯ドラ[鐘の鳴る丘](これも民間情報教育局 - Civil Information and Educational Section, GHQの一部門- の指示によっているが ) が放送されていたが、故林家三平の夫人もその一人で沼津に疎開している間に3月10日の東京大空襲で三兄を除く両親・兄弟を皆なくし、あとは親類を盥回しにされた挙句、最後に父親の仕事だった竿の縁で噺家の三代目三遊亭金馬に引き取られ、その後林家三平と結婚、現在はハッピーだろうと思うが、皆それぞれに大変な思いをしたと思う。


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お盆の墓参りと金屋子神社 [和田の泊りより]

 

                                       ,by 月川善雄

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時々懇) 森田さん

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今年のお盆は13日から16日まで家内の実家に墓参りをしに行って来ました。(例の金屋子神社から1kmほどのところです。)

流石に田舎で気温は都会とそれ程違わないのですがアスファルトの照り返しもなく、また木々の緑の中を抜けてくる風は天然のEvaporatorで冷やされており何んとも良い気分でした。

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ところで変なことに気が付きました。尾?骨の辺りが痛いのです。考えてみると、普段はTVをみるのも、食事も、コンピューターも全て椅子に腰かけてやっており畳に直に座ると言う生活を全くやっておらずどうも腰から尻が退化しているのですね。そして近所のお坊さんがお経を上げに来てくれたので正座しようとしたら足の甲が痛くてとても座れません。そこで胡坐をかこうとしたら今度は太腿がいたくてなんとも無様な格好になってしまいました。少し畳の生活に慣れないと日本人失格になってしまいます。

今日からはまた神戸の暑い毎日です。

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写真はクリックで拡大します。

s-110813 P1000009.jpgs-110814 P1000016.jpgs-110814 P1000018.jpg.

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車窓から見た伯耆大山   山肌にたなびく雲(霧?) 緑と水がある庭

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村尾さん

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金屋子神社(かなやごじんじゃと読みます)とは製鉄、冶金の神様で全国に1200社ほどありますが、森田、西崎両氏と訪れたのはその本社で島根県安来市広瀬町西比田と言うところにあります。

山陰線の安来駅から車で40分、或いは木次線の亀嵩駅から車で20分ほどの所にあります。

写真などは下記サイトをご参照ください。

http://www.city.yasugi.shimane.jp/p/2/11/4/8/ 

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町村合併で現在は安来市になっていますが、以前は島根県能義郡で郡部の方が似合う様な気がします。

竹下登の地元だったので道路だけは素晴らしくなりましたが都会では見かけなくなった「鬼ヤンマ」が未だに飛んでるような田舎ですが日本の原風景ではあります。


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飛虎将軍 杉浦飛曹長 [和田の泊りより]

                                              .by 月川善雄

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台湾・台南市安南区同安路127号に、「鎮安堂 飛虎将軍廟」が鎮座している。そこに奉られているのは大東亜戦争中、台南上空の空中戦で壮烈な戦死を遂げた日本海軍の杉浦茂峰飛曹長(戦死後に少尉昇進)である。

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大東亜戦争後半の昭和19年10月12日、米軍はフィリピン進攻の下準備として台湾各地に航空決戦を挑んできた。我が陸海軍の航空隊はそれを迎撃、そして午前7時19分、米軍機が台南に来襲した。

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台南基地より発進した日本海軍の零戦隊は果敢に迎撃戦を挑み、勇敢に戦ったが、数を頼む米軍機には勝てず、一機又一機と撃墜されていった。そのうちの一機、杉浦飛曹長の搭乗機は尾翼より発火し、海尾の大集落へ向かって落下していった。

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このまま落下したら、海尾の町は大火事になる。そのとき、零戦は機首を上げて上昇し、海尾の町をはずれ東方の畑の方へ飛び去った。そして杉浦機は民家を避けて無人の農地に墜落し、杉浦飛曹長は落下傘で飛び降りたが、米軍機の機銃掃射を浴びて落下傘は破れ、壮烈な戦死を遂げたのである。

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その後、町の有力者達が集まり、身を挺して海尾の町を戦火から救った杉浦飛曹長の為に、永久にその恩徳を顕彰する事を衆議一致で決議した。そして昭和46年に廟を建設して毎日お参りをした。御本尊として祀られているのは杉浦茂峰少尉の金モール姿の像である。

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すると、稲作は豊作、豚や魚の養殖も順調で、宝くじまで当たる者も出てきた。廟は海尾集落の守り神として集落の人々の尊敬を集めている。毎日遠近からの参拝者が多く、日本からの参拝者も年中絶えない。

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廟の正面には「鎮安堂 飛虎将軍廟」と書いた額が揚げられている。「鎮安」とは鎮邪安民の意で、「飛虎」とは戦闘機又は空を飛ぶの意である。「将軍」は神として奉られる勇士の尊称である。

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廟守は朝夕2回、タバコを7本点火してお供えし、朝は日本の国歌「君が代」、夕は「海ゆかば」を粛々と歌うのである。祭壇の両脇には中華民国の国旗と日本の国旗が立ててある。

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そして、毎年10月には5日間にもわたって例大祭が盛大に催されるというのである。

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このような勇者に対する台湾人の方々の愛情と尊敬溢れる態度には、日本人として深い感謝と敬意を表さずにはいられないと考えるのである。


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アメリカ共産党と大東亜戦争 -7/7 [和田の泊りより]

                                                                              by  月川善雄 

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GHQによる日本洗脳政策

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1945921日 「日本新聞遵則」(プレス・コード)と「日本放送遵則(ラジオ・コード)」

第1条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。

第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載す

            べからず。

第3条 聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。

第4条 聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は

            憤激を招来するが如き 記事は一切之を掲載すべからず。

第5条 聯合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を

           掲載し又は論議すべからず。

第6条 報道記事は事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふ

           べからず。

第7条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。

第8条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に

            強調すべからず。

第9条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべ

            からず。

10条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは

            発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむ

            べからず。

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「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として30項目からなる

検閲指針

1.SCAP-連合国最高司令官総司令部に対する批判

2.極東軍事裁判批判

3.SCAPが憲法を起草したことに対する批判

4.検閲制度への言及

5.合衆国に対する批判

6.ロシアに対する批判

7.英国に対する批判

8.朝鮮人に対する批判

9.中国に対する批判

10.他の連合国に対する批判

11.連合国一般に対する批判

12.満州における日本人取り扱いについての批判

13.連合国の戦前の政策に対する批判

14.第三次世界大戦への言及

15.ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及

16.戦争擁護の宣伝

17.神国日本の宣伝

18.軍国主義の宣伝

19.ナショナリズムの宣伝

20.大東亜共栄圏の宣伝

21.その他の宣伝

22.戦争犯罪人の正当化および擁護

23.占領軍兵士と日本女性との交渉

24.闇市の状況

25.占領軍軍隊に対する批判

26.飢餓の誇張

27.暴力と不穏の行動の扇動

28.虚偽の報道

29.SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及

30.解禁されていない報道の公表

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ウォー・ギルド・インフォメーション

日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう、無力化、弱体化させることを目的とした民間情報教育局(CIE)の計画。

検閲と民間情報教育局による宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観・道徳観を変えた。

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アメリカ共産党と大東亜戦争 -6/7 [和田の泊りより]

                                .by 月川善雄

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また参考までに戦後の米国の占領政策を挙げておきます。

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米国による日本占領政策

米国による日本占領政策は、基本原則である3Rと重点的施策5D、それに補助政策である3Sから成っています。

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3R=基本原則

1.復讐(Revenge

2.改組(Reform

3.復活(Revive

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5D=重点的施策

1.武装解除(Disarmament

2.軍国主義の排除(Demilitarization

3.工業生産力の破壊(Deindustrialization

4.中心勢力の解体(Decentralization

5.民主化(Democratization

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3S=補助政策

1.スポーツの奨励

2.セックスの解放

3.スクリーン

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3S政策には、日本人は見事にはまっています。

この3Sは、大衆を夢中にさせて政治に関心を向けさせないという効果と、日々の労働の辛さを緩和する鎮痛剤の役割を持っています。

実にシンプルかつ効果的で、上手い政策です。


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アメリカ共産党と大東亜戦争 -4/7 -5/7 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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こんな訳で日本は好むと好まざるにかかわらず戦争に引き込まれた。戦争までしないでも打開の道はあったのではないかと言う考えもあったとは思うのですが、それには日本が朝鮮半島に対する清・露の侵略に対し血を以て購ったすべての在外領土を元に戻せと言う受け入れがたい条件を飲まなくてはならなかったのです。当時日本の軍部も対米戦には消極的だったと言われていますが、乗った船が滝の上まで来てしまい引くに引けず滝を落ちるしかなかったと言うのが実情でしょう。

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結果論ですが戦争するには落とし所を決めてからやらなくてはならないのですが、運の悪いことに緒戦で大勝利を挙げてしまった。博打と同じでこれに目がくらんで適当なところで手を引けなくなってしまい後はずるずると負けてゆき結果は御承知の通りです。未だ日露戦争時の大山厳などは「ロシアと戦うと言ってもモスクワまで攻め込む訳にもゆかない。適当なところで上手く手を打ってくれ」と言い残して戦争に行ったと言われていますが、当時は軍人でも目が見えていたのにこの辺りにも敗因がありそうです。

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ここで言いたかったのは、日本がやったことが全て正しかったなどと言うつもりはありませんが、日本だけが全ての悪の根源であったと言う考えも、もう打ち止めにしたいと言う事なのです。先程のインドのパール判事の全員無罪の根拠もここにあります。当時侵略の罪などと言うことを規定した国際法など無く、且列強は皆同じことをやっていた。(他国がやっているから日本もやってもよいと言う理屈は通らないかも知れないが、当時は未だ弱肉強食の世界でやらなければやられると言う状態でもあった。) そこで若し裁くとすれば列強も同罪となる。しかし戦勝国側の批判は一切してはならないと言う裁判の原則があったため全員無罪と言う判断になったのです。こんな良い加減な裁判で戦犯となった人々を合祀した靖国神社の首相参拝を、外国(中韓だけですが)が口を挟んでくると言うのは内政干渉も甚だしいと言いたいのです。(ことの是非については日本国内で議論すれば良い) 元々戦争裁判などと言うものは先頃のサダム・フセインの裁判でも同様、戦勝国による私刑に過ぎない、大義も理屈もないのです。勝てば官軍、負ければ賊軍、この原理だけです。

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アメリカ共産党と大東亜戦争 -3/7 [和田の泊りより]

                                                                            .by 月川善雄

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そもそもこのハル・ノートなるものは日本を戦争に引き込むために準備されたと言ってもよいほどのもので、後の東京裁判で弁護人に「このような物をつきつけられればルクセンブルグ大公国のような小さな国でも武器を取って米国と戦っただろう」と言わせたほどの挑発的なものであり、また同裁判で全員無罪の判決書を書いたインドのパール判事もこれを引用しています。

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さらに数年後(1951-5-3, あのマッカーサーが「東京裁判は誤りだった。日本のように生糸しか作れない国があのように経済制裁を受ければ自衛のために戦争したのは当然だった」と米議会で証言したそうです。

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このハル・ノートは当時の国務長官がコーデル・ハルであったためにこの名前で呼ばれていますが、実際に書いたのは財務次官のハリー・デクスター・ホワイトという男で、実はこの男がコミンテルンのスパイだったのです。

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ハル・ノートの目的は三つの側面を持っています。

1. ルーズベルト大統領(FDR)は、当時対独戦で苦戦していた英国を

     助けたかったが選挙で戦争には介入しないと公約していた手前、

     参戦することが出来なかった。そこでドイツの同盟国である日本に

     戦争を仕掛けさせこれで対ドイツ戦の大義名分を作った。

2. 当時ソ連も対独戦で苦戦しており、背後からドイツと三国同盟を

      結んでいる日本に攻撃されては一たまりもないので上記のスパイ

      の手により日本を対米戦に引き込ませた。

3. 一方、蒋介石もちょっかいを出しては日本陸軍を戦争に引き込み、

      国際的に日本の非を鳴らし米国を対日戦に引き込もうとしていた。


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アメリカ共産党と大東亜戦争 -2/7 [和田の泊りより]

                                                                              .by 月川善雄       

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大嶋さん

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大嶋さんの「アメリカ共産党と戦後日本」と題する、添付のサンアントニオ短信を読ませて頂き、さらにまた815日が巡ってくると改めて考えることがあります。

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戦後の日本はお説の通り米国政府の共産主義者に洗脳されてしまい、未だに日本は悪いことをした、この償いをしなければならないと言う呪縛から逃れられないでいるように思われます。 敗け方を知らなかった日本人が、敗戦と言うショックで放心状態に陥っていた時にGHQによる教育を施され(文末の参考資料をご参照ください)、それが日本人全体の頭の中から歴史も含めて過去を全て断ち切ってしまったのです。この時に、受け継いでゆくべき伝統・道徳も古い因習として片付けられ、封建的(寅さん流に発音すればフーケン的)と言う名のもとに葬り去られてしまいました。

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村山富市がマレーシアのマハティール首相から「日本はいつまで謝り続けるのか、理解できない」と言われたように日本人はこの呪縛を断ち切れずにいる一方、戦後から70年近く経って最早歴史の彼方と言ってもよいほどの昔のことを言い続けているのはこれを利用しようとしている中国と韓国だけで、他の国は何とも思っていないでしょう。逆に東南アジアにおける植民地からの解放を評価し、最近の中国の南シナ海での横暴さに対して日本に期待していることもあったかも知れませんが、先日の尖閣列島事件の処置で味噌をつけてしまい彼らを落胆させたのではないかと思います。

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そこで大嶋さんのお話の時代から時計を更に5年ほど戻してみます。

昭和1611月、日本は米国から所謂ハル・ノートなるものを突き付けられます。これが最後通牒であったのかそうでなかったのかは議論を呼ぶところですが、兎も角日本は最後通牒であると受け止め御承知の通り 128日(現地7日)に大東亜戦争に突入します。

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アメリカ共産党と戦後日本 -1/7 [サンアントニオ短信]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-24-5


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八田與一と飯田豊二 -2/2 [和田の泊りより]

                                                    .by 月川善雄

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s-061223 P1010777.jpgその中に前回の台湾旅行の際(あれからもう4年も経ってしまいましたね)時間が足りなくなって見ることが出来なかった、高雄とその東にある屏東との間にある高屏渓と言う大きな川に掛けられた下淡水渓鉄橋と呼ばれる鉄道橋があります。(台湾では国家第二級古蹟に選ばれています。)全長1526m24連のトラス橋で当時は東洋一の長大橋でした。この橋の設計をしたのが飯田豊二と言う技師で寝食を忘れて仕事に没頭したためついに病を得て40歳の若さで台南の病院で亡くなって仕舞います。

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s-061223 P1010783.jpg八田氏程は有名ではありませんが、彼の業績を讃える記念碑が現在もく手入れされて残っています。この鉄橋は現在2005年に台風で中央部の3スパンが落下してそのままになっており鉄道橋の方はその横にコンクリート製のものが掛けられています。

写真がありますので添付します。クリックで拡大します。

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追記

李登輝前総統が台湾で最も愛される日本人の一人とおっしゃる八田與一。今でも、氏の命日にあたる58日には、嘉南農田水利会の人々によって墓前で慰霊祭が執り行われています。そんなことからも、八田與一がいかに地元の人々に敬愛されているのか、ということがわかるかと思います。

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八田與一は、何故それほどまでに敬愛を集めているのでしょうか。

いまでは台湾最大の穀倉地帯として潤う台湾南部の嘉南平野一帯も、日本の台湾統治が始まった頃は一面不毛の大地だった。長い雨季には大地が水に浸り、乾季には水不足に悩まされ、穀物栽培にはまったく不向きな土地だった。

では、どうしてこの不毛地帯がそのような変貌を遂げたのであろうか。日本人技師・八田與一の活躍である。

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八田與一と飯田豊二 /2

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-27-1


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八田與一と飯田豊二 -1/2  [和田の泊りより]

                                                    .by 月川善雄

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    八田與一氏は日本ではあまり知られていませんが、台湾それも特に南部では台湾農業の大恩人として尊敬・感謝され、今でも氏の命日にあたる58日には、嘉南農田水利会の人々によって墓前で慰霊祭が執り行われています。

(八田夫人も日本が降伏文書に調印した日に八田氏が作り上げたダムに投身してしまいました)

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世界遺産に申請するのは、今の日本人に日本がかって、このような素晴らしいことをやってきたと言うことを知らしめるためには良いことだと思いますが世界遺産となると色々制約も多く日常利用しているものだけに却って不便になることが多いのではないかと思います。

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彼の功績は余りにも偉大で、我々が云々するべきものでもないと思いますので李登輝氏の慶応大学での”幻の講演”の(また外務省の悪口になりますが外務省の馬鹿どもが中国の顔色ばかり窺い、個人の資格で来日しようとした同氏の入国を拒否したため)一部を含む八田氏に関するインターネットの記事を添付します。

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日本でも遺徳を偲ぶ慰霊祭等と言うものは余り行われませんが、思い浮かぶのは4月中旬に茅ケ崎の浄見寺で行われる大岡越前守忠相の慰霊祭で江戸の消防活動の基礎を作ったことを称えて今でも江戸町火消しが参加する事で有名です。

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日本は台湾を含む外地で農業・灌漑、鉄道敷設といったインフラ整備、それに教育、医療にも力を注いできました。

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八田與一と飯田豊二 –2/2

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28-4


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Re. 中国バスツアー [和田の泊りより]

                                      .by 月川善雄

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時々懇)森田さん

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ゴキ!

学習院でも男の子はこう言っていたように思います。

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森田さんの雲南(中国の)でのバスツアーの話を読ませて貰いもう一つ思い出しました。今回のバスツアーは仰る通りあの広大な中国を走るのですから5~6時間は掛かるのですが矢張り旅の楽しみで皆ビールを飲むのですがその結果としてNature  Calls Me.と言うことになって仕舞います。森田さんの場合と違ってこちらは高速道路を100㎞/h近い速度で走るのですがサービスエリア、パーキングエリアが非常に少なく2時間走らないと次の厠所にありつけないと言う別の意味での大変な旅でした。ビールがお好きな森田さんが行かれたらどちらをとるか思案のしどころですね。

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私はビールの方を控えました。そしてもう一つ問題だったのは渋滞で一時間位動けなくなった時でした。トラックの運ちゃんなどは車から降りて車の陰でやっていましたがそれが川のように流れてくるのです。そしてやっと動き出して次のパーキングエリアに入ろうとしたらここが既に満車状態で入る事が出来ず次まで我慢しなければならない有様でした。

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s-110625 P1080879.jpgs-110626 P1090011.jpgどうも穢い話で恐縮ですが高速道路の事情について一言。

また運転のマナーが悪いのはどこでも同じようです。

写真を添付しますが、乗っていたバスが曲がろうとしてそれを避けようとして停車したタクシーを横腹に引っ掛けました。

どういう理由か知りませんがタクシーの方が悪いということになったようです。

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国貿促:森田さんは共産圏とはお取り引きが無かったようですが日中国交回復以前に中国・北鮮との商売の窓口となった組織で正式には日本国際貿易促進協会と言います

現在でも存在しており多分河野洋平が会長の筈です。以前はかなり左掛かっていたようですが現在ではまあ無害でしょう。今回のツアーは関西遼寧協会という

あじあ号の機関車を保存するための会が主催したもので早い話が保存するために募金と言う形で金をむしり取られた様な集まりです。私は被害を受けずに結果だけを頂く積りなのですがこの二年間振られっぱなしで未だにパシナ号に近づきことが出来ないでいます。

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ぼくあずさのComment

WME36には都立戸山高校(旧府立四中)卒が多いのですが時々懇には森田、月川、藤川、甲斐の4方がいます。

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満鉄あじあ号の牽引機パシナ -1/2 [時々懇]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-04-8


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ビルマ行 -9/9 [和田の泊りより]

                                                                                .by 月川善雄

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何処へ行ったのかは忘れてしまったが ただ一つ憶えているのはガイドの説明で泰国は有史以来一度も外国に占領されたことが無い国だと言う事だった。確かに日本も進駐したことはあったが占領はしていない。

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そしてツアーの終わり頃に喉が渇いたから何か飲もうと言ってとある場所で停車した。車が止まって降りると男が居てコークの栓をポンポン抜いて降りてきた客に次々と渡す。そして中へどうぞと案内されると中は土産物屋で結局何かを買わされる仕組みになっている。会社の同僚に渡す安物のタイクリップを幾つか買って終わりにした。

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その晩はまた日本料理屋で晩飯を食べその後でお風呂に行こうということになった。 たしか「チャラバ三助」とか言う名前の店だったと思うが 覗き窓から中にいる女の子を番号で指名して浴室に行きヌルイお風呂に入れられてそれからタイ式マッサージを受ける。ぬるい湯に入った上に冷房がガンガン効いているものだから風邪を引きそうになってマッサージが終わるとほうほうの体で逃げ出した。

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丁度この数日前にバンコクで日本人の駐在員がナイトクラブの女性に射殺される事件があった。なんでも別れ話がもつれ「あの女は性病もちだったから」と言ったのがその女性のプライドを大層傷つけ「そんなことを言われたのではこれから商売を続けることが出来ない」と凶行に及んだとのこと。これなどは情事だが普通の生活に於いても相手のプライドを傷つける言動というのは国によって異なるので外国へ行った場合には十分気を配る必要がある。

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翌日の昼過ぎ無事に泰国を出国してBOACB707でドンムアンを離陸し、香港経由帰国した。香港空港では公定レートは1ドル360円のところを400円で換えていた。今では考えられないほど円の実勢は安かったのだ。そこで手持ちのドルを円に換え小銭を稼ぎ、後はジョニ黒とパーカーの万年筆を一本買ってこの出張は終わった。

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最近では首都もヤンゴンからピンマナに移りいろいろ変化もあるようだが ミャンマーへのツアーなどもあるようなので、あれから40年近くもたってあの国がどのように変わったのか一度訪れて見たいような気もする。

                                                                               (完)


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ビルマ行 –8/9 [和田の泊りより]

                                                                                .by 月川善雄

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ビルマでもう一つ気が付いたことはこの国の紙幣の左側に綴じ代が付いていることだった。そして新札はホッチキスで綴じてあるのである。こんなものは今迄見たことが無かったし いくら綴じても使うときにはバラバラになるのだから余り意味が無い様に思うのだが。また絵葉書を出そうと思ってホテルのフロントで切手を買ったら耳がついておりこれにPrinting Bureau, JAPANと印刷されていた。大蔵省印刷局がこんなところまで出て来ているのは印象的だった。

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この絵葉書は日本まで無事着いたようだが、当時のビルマでは絵だの写真が全く無くカレンダーなど大もてで外国から綺麗な絵葉書などをビルマに送ると何処かで盗られてしまい宛先には先ず着かないと言う話も聞いた。

そんなこんなで一週間ほど滞在して仕事の方は順調に片付き、いよいよ帰国と言うことになった。飛行機に乗り込んでも飛び立つまではスパイ容疑で引き摺り下ろされる可能性があると脅かされており冷や冷やしていたのだが 運輸次官の口添えで Immigration・通関までもバイパスして直接飛行機に乗り込み、勿論捕まる事も無く約2時間ほどの飛行でまたバンコックまで帰って来た。ドンムアン空港に着いてImmigration・通関を終えて出て来ると荷物を運んでチップをねだる子供達が群がってきたのだが何処から来たのかと聞くのでラングーンからと言ったら皆大笑いして何処かへ行ってしまった。ビルマと言う国はこんな連中にまで馬鹿にされるような国だった。

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泰国の滞在ヴィザは往きに使ってしまったので帰りはノーヴィザである。ノーヴィザの滞在期限は24時間なのだが飛行機の都合で翌日の昼過ぎに乗ると26時間ほどバンコクに居る事になる。ビルマでさんざん脅かされてきたものだから神経質になって聞いてもらったらOKとのこと。

午後一寸時間があったのでバンコックの市内見物に行くことにした。ホテルのフロントで3時間ほどのツアーを探してミニバンのような物に乗って出掛けた。コースは幾つかあるが三ヶ所ほどを回るもので目玉になる有名なものは一ヶ所しか含まれて居ない。従って有名な所を沢山見ようと思うと何回も乗るか或いは高いコースを選ばなくてはならない仕組みになっている。そして実際に走っているとコースに含まれて居ない有名な建物の前を通ってもガイドは説明すらしない。現金なものである


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サハリンの除雪車 -2/2 [和田の泊りより]

                                    .   by 月川善雄

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村尾さん

下記リンク先で除雪車の写真を拝見しました。

サハリンの除雪車 /2 []稲門機械屋倶楽部]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-19-6 

写真は左上DSC00101から右下DSC00110までを掲載。

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DSC00101、2は日本で言うラッセル車で旧国鉄のキ100型に酷似しています。このラッセル車と言う言葉ですがこれは日本だけの用語でオリジナル設計の米国ラッセル社の名前をそのまま使っているのですが一般にはSnow Ploughと呼ばれます。

ついでですがオリジナルメーカー名を製品名として呼ぶのは外国へ行くと可笑しなもので Staplerをホッチキスと言って良くアメリカ人に笑われました。

これもアメリカのメーカーですね。逆に南米のどこかの国では乗用車の事をHondaと呼ぶとか、似たようなノリです。

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DSC00103、4は初めて見るもので車体のつくりなどから見て東欧・ソ連製だと思いますが使い方が良く判りません。

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Screwタイプの除雪部はロルバ式と呼ばれるもので通常は最下部の一段だけで使われているのですがこれは4段も重ねられておりまるで雪の壁に向って作業するような感じを受けますがさてどう使うのでしょう。

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DSC00105は詳細が良く見えないのですが日本で広幅雪掻き車(ジョルダン)と呼ばれているものに似ています。油圧で翼を広げ線路周囲の除雪を行うもので駅構内、操車場などで使用される。

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DSC00107、8は所謂ロータリー除雪車で旧国鉄のキ600,620に酷似しています。オリジナルは米国のAlco社です。

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以上ラッセル車とロータリー車は日本のものと良く似ていますが、これが日本製であるかどうかは定かではありません。上述のように日本のものも元は米国製なのでよそでも作ることは可能だからです。

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樺太の鉄道の歴史でも調べれば出てくるかもしれませんがそこまでは手が及んでおりません。悪しからず。

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P.S. 昨日お伝えしたD51ですが D51-27が北海道別海町鉄道公園に里帰りしているそうです。                    

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雪かき車 Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E3%81%8B%E3%81%8D%E8%BB%8A 

サハリンの旧国鉄車輌 [稲門機械屋倶楽部]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-18-6


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ビルマ行 -7/9 [和田の泊りより]

                                                                            .by 月川善雄

 

住友商事の事務所の前の交差点の真ん中にもう一つのパゴタ、スーレパゴタがあった。この周囲がロータリーになっておりその一角にシミーという名の洋菓子屋があった。一週間に一度だけケーキを作って売り出しており当日になると長蛇の列が出来ていた。住商の事務所からその列を見下ろして甘い物が貴重だった日本の戦時中を思い出した。

 

ラングーンの動物園は東洋一だと言われて行ってみたが全体に通路も舗装されておらず田んぼのような泥だらけのところに犀が寝そべっていたのが印象的だったが、他に大して見るようなものは無かったような気がする。客を呼ぼうとか上手く見せようと言う気が全く無くだだっ広いだけでただ動物が居るというだけである。

 

動物と言えばホテルの前に大きな木があり夕方になると烏の大群が泊りにやって来る。それは良いのだが朝になって日が昇ると一斉にカアカア啼き出して煩くてとても寝ていられない。飛んだウェイクアップコールである。

またそこらじゅうにイモリがおり時々天井からポトリと落ちてくる。この他、蠍が靴の中に入っていることがあるので靴を履く前には必ず逆さに振ってから履くようにと注意された。

 

ラングーンには限らないと思うが大方のビルマの女性は女の子も含めて、顔に粘土のようなもの(ダンナッカーというを名前だそうだ)塗っている。折角の顔を汚しているように思えるがこれが美肌料で 白檀の木を丁度硯で墨を摺るような具合に水を付けながら板に擦り付け出来上がったペースト状のものを顔に塗る。丁寧に塗れば良いのだが擦り付けると言うか塗ったくりだが、こうすると日に焼けないで肌が荒れないという。香りも良いそうだが残念ながらどんな香りがするのかそこまで接近する機会が無かった。

 仕事の往き返りは住商の車に乗せて貰ったが、ラングーン市内は元宗主国の影響か交差点がロータリーになっているのが多い。そしてロータリーの中央にカンナの花が植えられており南国の風情があった。また道路で作業している人夫をあちこちで見かけたがこれが日本のニコヨンと同じく失業対策事業だそうだ。金額も忘れてしまったが賃金もニコヨン相当だなと感心した覚えがある。
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ビルマ行 -6/9 [和田の泊りより]

                                                                               .by 月川善雄

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済んでみればこのように笑い話になるのだが 事実は良く判らないがこの裏には陰で動いて呉れた日本人がいたようだ。それは住友商事の顧問格で高橋さんという方がおられたのだが この方が実は元中野学校出の特務機関員でビルマ独立の影の立役者として働かれた方だそうで、当時のネ・ウィン首相などともツーカーの間柄だったとのこと。立場上表に出られることは無かったが 噂ではこの方が首相辺りに「余り酷いことをするなよ」と囁かれたのではないかとのことだった。当時は未だ小野田さんも見つかっておらず中野学校はすごいなと思ったものだが 後でこのような人脈が水面下にあるのだなと感心した。 (高橋中尉については 畠山清行著 陸軍中野学校の中に記述がある)

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当時はコピーマシンもファックスも無く日本とのやり取りの唯一の手段は電報だったし、レポートも薄紙を重ねてカーボン紙を敷いてコピーを作った。因みに、手紙や書類に良く使われる「写し」のc.c.Carbon Copyの略である。客先と打ち合わせた結果を電報で打ってしまうと返電が来るまでは暇なのでラングーン市内を見物した。

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  シュエダゴンパゴダ:ラングーン市内一番大きいパゴダで市内の何処からでも見える。階段の回廊を登って境内に入る。遠くから見るとこの回廊の屋根はえび茶色の美しいものだったが近くへ寄って見ると単なるペンキ塗りのトタン屋根である。境内というかパゴダの周辺は大理石が敷き詰められており見た目には非常に美しいのだが裸足で参拝しなければならない。靴を脱ぎ、靴下も脱いで参拝するのだが雨上がりのこととて大理石は濡れており又ライ病患者が多いとも聞いていたのでなんとも気持ちが悪かった。みな売店で売っている金箔を買ってパゴダに張り付けてお祈りをしている。これがどういうご利益があるのかは判らないがこちらの風習らしい。

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•  夕刻、街中を歩いていると楽隊が派手な音楽を鳴らしており時折合いの手に銅鑼がジャーンと鳴る。何事かと思って近寄って見るとこれが葬式なのだ。余り湿っぽくならないでこれも良いなと思った。

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•  すき焼きを食べさせる店があると言うので行ってみると中華料理店で、出てきた物は真ん中に煙突がある所謂火鍋子でシャブシャブみたいな物が出た。他にも燕を焼いて縦半分に切った物も有ったが燕も断面表示されると余り気持ちの良い物ではない。


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ビルマ行 -5/9 [和田の泊りより]

                                                   .by 月川善雄

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ところで政治情勢はというと現在でもオンサン・スーチー女史の自宅軟禁など民主化されたとは言い難いが 当時は暗黒政治というか恐怖政治の色がもっと濃かったように思う。当時ラングーンに駐在されていた日本人でもスパイだと密告されれば直ぐ投獄される惧れがあり、お世話になった住商の駐在の方もかなり神経を使っておられたようだ。例えば晩飯を一緒に食べているときに仕事の話が出ると、その話は明日事務所でしようとか、またラングーンに3箇所あったゴルフ場も同じところに続けて行くと怪しまれるので毎回場所を変えて行くのだという話だった。そんな訳で皆ビクついていたのだがそれが我々が現地に滞在しているときに遂に本当の話になってしまった。三菱商事の駐在の方が本当に捕まって投獄されてしまったのだ。何でもクビにした元現地社員が腹いせにあることないことを密告したのだという噂を聞いたが 日本人なら一週間ともたないと言われるラングーンの近くのインセン刑務所という酷いところに投獄されてしまい皆青くなった。皆オロオロするばかりで何も出来ないでいたのだが幸いなことに一週間余りで釈放された。

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以下は商事Y氏の獄中談

投獄されたところは模範囚の雑居房で収監されている面々はというと 囚人に脱走された元刑務所長、部下が帳簿の記入の右左を間違えた銀行の頭取等々要するに責任を問われた人達だった。矢張り牢名主格の仁が中央に居て総勢15人程が左右に居流れている。そしてお前は日本人で到底此処の食事を食べられるとは思えないが此処でお前を死なすような事があってはビルマの恥である、絶対に何とかしてやるから心配するなというお言葉があった。そして夜になり寝ることになるのだが与えられた毛布が一枚、それにくるまってのゴロ寝であるがしばらくすると例の南京虫が何処からとも無く現れて来てとても寝るどころの騒ぎではない。悶々として一夜を明かす。

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そして翌日になると奥さんが差入れに来てくれた。彼女はビルマ語が出来るので牢名主以下皆喜んでしまい 明日からも毎日来てくれるようにとのお達しが出る。そして差入れられた缶詰を自分だけ一人で食べるわけにも行かないので缶をあけ例の牢名主に差し出すと彼はひと目見て「ウン美味そうだな」と言って手もつけず隣にまわす。副牢名主も同様に次に回す。結局かなり下位に回るまで誰も手を付けなかった。こんな浪花節的環境の中で何とか数日経ったのだが、ある日中庭で貸与された木桶で洗濯をしていると囚人の一人が寄ってきてお前は明日か明後日には釈放されると囁いてくれた。半信半疑でいると事実翌日放免になった。


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ビルマ行 -4/9 [和田の泊りより]

                                                                                By 月川善雄

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紅茶の方はありがたく頂戴したのだがそうこうしているうちに座っている太腿の裏側が痒くなって来た。後で見ると南京虫に噛まれているのである。経験の有る方はお分かりと思うが南京虫に噛まれるとその部分がしこりになりかゆくて堪らないのだが掻くと非常に痛いというまことに手の焼ける代物なのである。まさか総裁室の椅子にそんなものが巣食っているとは夢にも思わなかったので無防備であったのだが南京虫は木材の割れ目に潜んでおり体温を感じると這い出して来て凶行に及ぶらしい。ビルマは高温多湿なので椅子も木製のものが多い。以前に同鉄道に輸出した二等客車の椅子も木製のベンチで防蟻処理を施した木材を使用していた。映画館などでも同じような木製のベンチが使用されており南京虫対策は新聞紙を敷くことだそうだ。印刷インクの油を嫌って南京虫が近寄らないとのこと。また日野自動車の工員さんなどは油のしみた作業服を着てゆくとこれも南京虫除けになるとの話しをされていた。

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機関車の方の話は順調に進み最終的には契約出来たのだが ある日UBRが夕食をご馳走して呉れるということになり本来ならば我々の方がお客であるUBRを接待すべきところであるが折角の話でもあり またこちらがやると汚職だ、スパイだのと痛くも無い腹を探られることにもなり兼ねないのでUBRの一室で有難く御もてなしに与った。 たしか立食パーティ形式で何が出されたのかは もはや憶えていないが途中でいきなり愛国行進曲のレコードが鳴り出した。「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば・・」のあれである。思い掛けないことなのでビックリしているとビルマ人のほうはみなゲラゲラ笑っている。よくよく聞いてみると替え歌があってなんでも“日本の兵隊さんがやって来て いいことをして子供を作って帰っちゃった”というような意味の一寸卑猥な歌らしい。そして彼らは日本人が忘れてしまったような軍歌を覚えており他の東南アジアの諸国で見られるような日本軍に対する悪意などは全く持っておらず悪いのは英軍でビルマのあちこちを爆撃したなどと言っていた。

そして先ほどの替え歌に出てきたような日本人との間に出来た子供も優秀なのが多く、そしてビルマまでがアジアでこれから西はアジアではないと強調していた。確かに顔つきからしてビルマ人はアジア系だと思うし、これから西のバングラデシュへ行けば所謂外国人顔になる。


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ビルマ行 -3/9 [和田の泊りより]

                                                                               .by 月川善雄

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通貨使用の記録紙は闇ドルの売買を防止するためのもので入国時に申請した金額と国内で使用した金額の差額を出国時に持っていないと処罰されることになっており、ホテルなどの認可された両替商でドルを現地通貨のチャットに交換する際にはこの用紙に記入してもらい署名捺印して貰う仕組みになっていた。

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宿はラングーン市内に二軒しかないホテルの一つインヤレーク湖畔にあるインヤレークホテルに投宿した。このホテルは旧ソ連の手で建設されたと聞いたがいかにもソ連らしい馬鹿でかい造りの建物で チェックインして部屋に入り直ぐにシャワーを浴びようと思ってバスルームに行き赤の蛇口を捻って湯の出るのを待っていたのだが幾ら待っても水しか出ない。仕方がないのでこの国では湯は出ないのかと諦めたが、あとで降旗さんに聞くと「出ますよ、逆の蛇口を捻ったんじゃありませんか」との答え。部屋に帰って今度は試しに青の蛇口を捻ると確かに湯が出て来た。赤は湯、青は水と言う単純な発想では駄目だなと反省したがしかしそれ以後何処の世界に行ってもこのような表示には出くわしたことはない。 

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出発前に現地ではトイレットペーパーも無いから持って行った方がよいとアドバイスされたが何とかなるだろうと思って準備もしなかったのだが結果としてチャンとあったのでこれは問題無かった。

又室内の湿気が酷いので除湿しようと思って冷房を効かすと今度は寒すぎて寝られなかった。ビルマのような国になると外の湿度が高い為冷房すると窓の外側に露が付いてガラスが曇ってしまい外が見えなくなってしまうのだがこればかりはワイパーでも付けない限りどうしようもない。

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翌日、ラングーン駅の傍にあるビルマ国鉄に出掛けた。まず総裁の事務室に挨拶に赴き今回の引き合いに対し謝意を表し まあお座りということで紅茶が出る。ビルマ流の紅茶の供し方は茶碗になみなみと注いで受け皿に溢れるまで入れる。これに対し客はまず受け皿のほうから飲むのが礼儀。つまり溢れるほどのおもてなしに与り有難うございますという感謝の意の表示である。丁度枡酒を注ぐときにオーバーフローさせるのと同じノリ。これに類するマナーはあちこちにあり韓国ではもてなす際の皿数が多くないと客に失礼になる、また中国系では綺麗に食べてしまってはまだ食い足りないの表示となってご馳走をしてくれた人に失礼になるので食べ残しかつまた満腹の意を表するためにゲップをしなければならない等々。どうも根本に貧しさがあるような気がする。


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ビルマ行 -2/9 [和田の泊りより]

                                                                                  By 月川善雄

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バンコクで一泊、免税店で買い込んだジョニ黒を「大黒」だか「菊水」というタイ米の匂いのする日本料理店に持ち込んで晩飯を喰った。今ではどうだか知らないが当時のタイではジョニ黒が珍重され、ジョニ黒が無いと宴会が始まらないのだと言う話を聞いた。

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そして翌日またドンムアン空港からラングーン(現ヤンゴン)目指してUBA (Union of Burma Airways ビルマ航空)B727に乗った。この機体はどこかからリースしたのだと思うが、香港まで足を伸ばして整備などはそこでやっていたようで、真偽の程は判らないがパイロットは空軍上がりの当時のネ・ウィン首相の息子がやっているとの話だった。(ビルマではある程度の年齢・地位になると敬称として頭に「ウ」が付く。例:ウ・タント国連事務総長、又軍人には「ネ」が付けられる。例:オンサン・スーチー女子の父君 ボ・ネ・オンサン将軍等)

操縦は先ずまずだったと思う。機内ではロンジー(巻スカート状のビルマ民族衣装)姿のスチュワーデスが臍を出してバナナと紙箱入りのサンドイッチを機内食として配っていたのがご愛嬌だった。そして国境の山岳地帯を越え二時間足らずでラングーンのミンガラトン空港に着いた。

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この空港はその昔 加藤隼戦闘隊が基地として使っていた空港で、私が出掛けた当時は国際空港として一応ビルマの玄関口になっていたのだが、お世辞にも綺麗な空港とは言えなかった。空港ビルは薄汚れた建物でImmigrationを通り税関に来てカウンターの上で荷物を開けさせられると係官が中身を見て土産用に持っていった扇子に目を付けこれをボスにプレゼントしろと言った。勿論日本を出る前にこういうこともあるからと言われておりその積りもあったのでOK すると通貨使用の記録用紙を渡され、さらに藁半紙にガリ版刷りで作った通関許可証を取り出しそれにそばに置いてあるアルミ鍋の中のメリケン粉で作った糊を刷毛で塗りつけスーツケースにベタッと貼り付けた。汚いなと思ったが取敢えず通関を無事に終わったのでホッとして既に通関を済ませた皆に追い付こうと慌てて走ったらパスポートを置き忘れたのに気がついてまた走って取りに戻った。(この頃はPanAmの世界一周便もまだ飛んでおりラングーン着は真夜中だった。降りる客も一人か二人で税関のタカリの格好の標的になっていたと聞いた。


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ビルマ行 -1/9 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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  1969年夏、UBRUnion of Burma Railways:ビルマ国鉄、その後Burma Railway Corporation に変わった。現在は何と呼ばれているか知らないが)から当時の汽車會社にディーゼル機関車の引き合いが舞い込み、その事前打合せのためにビルマまで出掛けることになった。当時のビルマ(現ミャンマー)は特殊な社会主義国家でほぼ鎖国状態にあり、商談等もこちらからの売り込みなどというものは全く認められておらず、先方が過去に良い実績を持つメーカーを選び為替などを勘案して指名入札を行うものであった。売り込みなど行えば汚職につながるということでスパイ行為と見做され即刻逮捕・投獄される惧れがあった。従い現地に駐在出来るのはビルマ政府と何らかの契約を持っている会社に限られ、商社では、住商、三菱商事、金商又一、兼松江商、大丸、メーカーでは賠償に係わる松下電器、日野自動車などが居た。

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汽車會社も数年前に入換用ディーゼル機関車10両を納入したことがあるのだがその結果が良好だったのと円がまだ360/ドルの頃だったので候補に上ったものだと思われる。(現在ではミャンマー国鉄は韓国、それに中国の市場となっている)

ということで19696月末、汽車會社の保田海外営業第一課長、住友商事の降旗課長のお供をしてビルマに出掛けることになった。この頃になると海外出張もそう珍しくはなくなっていたが数年前までは海外出張ともなれば会社中大騒ぎだった。当時国際線は羽田から出るので大阪から東京までは東海道線の夜行列車で出掛けていたのだが、大阪駅頭で万歳三唱、振袖姿のお嬢さんによる花束贈呈等があり、大の男が貰った花束の処置に困って大阪を出て直ぐの淀川の鉄橋から捨てたと話していたのを聞いたことがある

私の場合はそんな大袈裟なこともなく伊丹から飛行機で羽田へ向かった。当時は海外に出掛けるには予防接種が必要で種痘、コレラ、チフスの予防注射をするのに一週間を要した。そしてイェローカードと呼ばれる予防接種証明書を携行し、パスポートも今のように数次旅券ではなく革表紙の一次旅券だった。

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ビルマへのルートは今でも余り変わらないと思うが、羽田―香港―バンコク()-ラングーン(現ヤンゴン)で羽田バンコク間はJL471便だったが途中香港で機材がDC-8-61からもっと小さな機体に変わったような記憶がある。まだBoarding Bridgeなど無い時代だったから香港啓徳空港で機内からタラップに出た途端にむっとする熱気に中てられたのが印象的だった。さらに飛行機を乗り継いでタイまで飛んで、丁度雨季だったので周りの田圃が水で一杯になっているバンコク・ドンムアン空港に着水するような感じで着陸した。 初めて入国するタイ国の税関でCurrency は幾ら持っているかと問われCurrencyという言葉が判らずにキョトンとしていたら苛苛した職員に日本語で「お金」といわれて納得した。当時はタイ国から1000ドル以上の持ち出しは禁止されていたので所持する通貨の申告が必要だった。降旗課長は現地駐在員の土産用に即席ラーメンを1パック段ボール箱で預けていたのだが受け取ってみると段ボールが手鉤で破られ中身が減っていた。


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日本の外交雑感 -4/4 [和田の泊りより]

                                 .by 月川善雄

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八つ当りになりますが、外国にある公館で滞在する日本人の事を考えてくれている所は余り多くないように思う。昼休みは一時間半、日本の休日は勿論休み そして現地の休日も休み、何か用があって出掛けようと思えば半日仕事になってしまう(外国に行っている人間はそれほど暇ではない)。

田中真紀子(これもチャイナスクール派)は外務省を伏魔殿といったがこれもある意味で図星だと思います。

そういう意味で政治指導と言うのも意味はあると思うのですが、只それだけの知識、見識、指導力を持った外務大臣が果たして居るのかどうか、そこが?です。

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外交術の上手い下手は別として矢張り外交には経済力と軍事力がものを言うのですが、残念ながら日本には経済力は一時あったが今は落ちぶれて仕舞っており、一方軍事力の方は憲法で“国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”となっているので、全てお願いベースの外交しかできない。これでは覇権国家にとってはこんな楽な相手は無い訳で、言いたい放題のことを言い、また武力による威嚇も可能なので、こちらは常に悔しい思いをしなければならない。この場合他国の傘の下に入れて貰うだけが何とか現状を維持するための方策なのですが、脅かされる度に矢張り自分の傘が欲しいなと思う。この件は。

                               (完)


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日本の外交雑感 -3/4 [和田の泊りより]

                                 .by 月川善雄

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最近、「外交敗戦」と言うタイトルに二つ出会いました。一つはNHK前ワシントン支局長手嶋竜一氏の書いた本で湾岸戦争の時に“血を流さないのなら、金を出せ”と言われて金を拠出したはなしです。もう一つはNHKスペシャルで「日本人は何故戦争に向ったのか」で国際連盟を脱退した前後の話です。国際連盟脱退などということは、お上以下誰もがやってはならぬと思っており松岡洋右自身もあってはならぬと思っていたのが結果としては日本が脱退すると言えば世界中が吃驚して日本の言うことを認めるだろうと言う事で切り札として切ったのが誰も相手にしない。ドイツとの枢軸関係もイギリスが反対してくれるだろうと考えていたのがこれも当てが外れる、すべて自分に都合のよい考えを他人も持っているだろうと言う前提に立っているのです。他人は自分とは違う考え方をするものだと言う意識が欠けています。

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アメリカに居て感じた事なのですがアメリカ人は一寸した事をしてあげてもとても喜ぶ、こんなことで喜ぶとは普段お互いに何もして貰えない寂しい国民だなあと思っていたのですが、今思えばお互いに相手の事を慮って等と言う事は一切無しに何もしてやらない事が当たり前の国であれば当然の事で、それだけに小さな親切が嬉しいのだろう思い当りました。逆に日本ではやって呉れて当たり前、やらなければやれ不人情だ、やれ冷たいのと謗られてしまいます。ここ辺りにも日本人の甘えがチラつきます。

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それと外務省にも各国毎の専門家が殆ど居ないのではないか、逆にチャイナスクールなどと中国に洗脳されたグループがある。以前畠山さんに聞いた話で在外公館に勤務する連中の殆どが在勤中には殆ど仕事らしい仕事をせず、小金を溜めて帰国するのが多いとのことで現地の専門家になって情報収集に努めると言うような殊勝な人物は少ないのではないか。先日のロシア首相が北方領土を視察した際に情報が無かったと言う事で大騒ぎをして大使を更迭したが、これは大使の問題ではなく情報収集力の無さを反省すべきです。以前ロシアに関しては国会の鈴木宗男、外務省の佐藤優と言う専門屋がいたが外務省の「碌に仕事をやらない連中」に煙たがられ、詰らないことで起訴され現在は二人とも服役中ですがこういう貴重な情報源を大切にしないとこれも日本を滅ぼす原因になります。少なくとも相手が何を考えているか位は探っておかなければならない。以前は中近東に関する日本の情報は世界的にも認められていたのですが最近ではどうでしょうか。.

情報(インテリジェンス)と言うのは外交上不可欠のものですがこの点でも日本は後れをとっているのではないでしょうか。もっともその性格上公表するものでもないので私が知らないだけかもしれませんが、そうだとしても余り外交に生かされているとは思えない。逆に日本にいると情報は何でも手に入ると言われている。戦時中はスパイに気をつけろと言われたが、マスコミも含めて現在の日本ではマル秘情報でも何でも垂れ流しです。従って外交の相手にはこちらの考えが筒抜けです。


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日本の外交雑感 -2/4 [和田の泊りより]

                                 .by 月川善雄

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日本には戦略的外交が全くない、正にそのとおりですね。行き当たりばったりの外交のように見えますし、また駆け引きといったものも全く見られない。駆け引きだったら大阪商人の方が余っ程上手い。考えて見るにまず国としてのコンセンサスが無い。その底には日本という国に対する意識が薄れているのではないかと思う。幕末の坂本竜馬や高杉晋作の方が藩と言う枠の中に在りながら日本と言う国を意識し、限られた情報の中で日本の置かれた立場を良く理解し、その為に何をなすべきかという基本思想がしっかりしていたと思う。戦後のアメリカによる(というか米政府内にあったリベラル派=コミンテルン)洗脳教育によって日本人は全く去勢されてしまい、その上日教組のような左翼勢力によって可笑しな教育がなされた為に日本と言う国が見えなくなってしまいました。最近大阪府では君が代を歌う際に起立する事が法令化されましたがこんな事を法制化する国など世界中何処にもないと思いますし、本来常識の範囲内であるべきで法令化などとは国辱ものですが今となってはこれもやむを得ない。

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外交政策の為のスクールも確かに必要でしょう。日本にも松下政経塾なるものがあって政治家の卵を育てているようですがどうもこれといった人物が出て来ない。あまり外交には力を入れていないのかもしれない。卒業生も 民主党に多いようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%B5%8C%E5%A1%BE 

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もう一つ日本の外交の下手さの要因として考えられるのは、以前森田さんが言われていた農耕民族である為に考えが纏まりやすいというところにある。つまり自分が考えている事は相手も同じように考えるだろうということで、ある意味では甘えの感覚でもあります。私も米国にいる時によく体験した事ですが、客先やサブコンに対して契約上無理なことを何とか頼み込んで了解を取れと言う指示を何度も日本から受けた事があります。そんなことを言っても通る筈が無いと蹴るのですが、やってもみないでそんなことが言えるか、挙句の果てはやる気が無いとの大和魂的な御叱りです。「かくすれば、かくなるものと知りながら、已むに已まれぬ大和魂」と言うのがありますが、最初から駄目だと判り切っている事をやってやっぱり駄目だったというのが日本の外交のように思います。


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日本の外交雑感 -1/4 [和田の泊りより]

                                 .by 月川善雄

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大嶋さん

特に中国旅行で心の平安を乱されたということもないのですが矢張り建築ラッシュを目の当たりにすると(これは日本於いてでも建築中の建物が多いと景気が良いなと思うのは同じなのですが)経済力と言うものを感じるのは事実です。

次に考えるのがこの金の出所です。勿論、中国は“元安”を背景に高い経済成長率を達成し外貨を獲得したのは事実でしょう。然しこれだけではなく多分所謂機関投資家と称する連中が金を注ぎ込んでいるのも事実だろうと思います。この連中は値を釣り上げ高値で売り抜き最後に資金を引き揚げればバブルの崩壊と言う図式になるのだろうと思いますが、その場合ローンの貸倒れになる銀行が中国にはどのくらいあるのかが見当がつきません。

そこが見物だと思っているのですが、などと本当はふざけている場合ではありません。

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大嶋さんの言われるように日本に波及してくるであろう被害を想定して対策を考えておかなければなりません。

そして現在ダブついている金が日本に向わなければ良いがと思っているのですが、北海道の山林が(水源も含めて)すでに中国に買われていると言う事は聞いています。勿論ダミーを使っての事でしょうが。

こんなことを考えると、外国人に参政権を与える事も怖いのですが土地、不動産、会社に対する外国からの投資にも枠をつくることも必要ではないかと思うのです。こんなことを言えば規制緩和に逆行と内外から叩かれる事は火を見るより明らかですが もともと規制緩和、民営化等と言うものは外圧に負けて日本を半分売り渡すためのものなのですから。まずターゲットになったのは保険会社でしょう。そして次に危ないのが郵便貯金でこれは世界的にも大きな資金なのですがこれが民営化されればこの莫大な金は多分何の値打もない米国債位に化けて流失してしまうでしょう。

民営化と言うのは日本の民間会社になるのではなく、外国の投資家に買われてしまい身ぐるみがされてしまうと言うことを良く理解すべきです。


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汽車会社大阪製作所のディーゼル機関車 [和田の泊りより]

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西島さん

先日は住友金属の見学の帰りに汽車会社のそばを通ったとのメールを頂きましたが、現在では郵便局と佐川急便の大きな倉庫に生まれ変わりまた住金も一部を隣接するユニバーサル・スタジオ・ジャパンに売却するなどあの界隈も昔の面影は全く残っておりません。

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ところでこの汽車会社大阪製作所ではディーゼル機関車を作っていたのですが輸出用にはドイツフォイト社のトランスミッションを使っており それを扱っていたのが富士電機さんで色々御世話になっていました。(水力発電等で同社とは関係が深かったのでしょうね)

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西島さんは直接はタッチされてはおられなかったと思いますがその後東南アジア向けに輸出が拡大するにつれ国産化をお願いし同社と技提でトランスミッションを作って頂いた事があり、試作機が完成した時には一度だけ川崎の工場に御邪魔したこともありました。

これらのトランスミッションを積んだ機関車はマレーシア国鉄、ビルマ国鉄に輸出され、初期にはボルトの脱落等マイナーなトラブルもありましたがその後は順調に運転されておりました。

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もう40年以上も昔の話ですが特にビルマ向けの機関車は受注のネゴ段階から関係していたので特に印象が強く、またビルマは台湾と同じく非常に親日的な国だったので、最近では韓国、中国に安値で市場を奪われているのが非常に残念です。

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時々懇の皆様には以前お見せしたのですが、ビルマへ出掛けた時の旅行記を参考までに御目に掛けます。

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国鉄でも動力近代化(無煙化)ということで我々が社会に出た前後からディーゼル機関車が増産されたのですがこちらのトランスミッションは純国産というかフォイトのコピーのようなものを藤井さんのおられた日立(亀有)、川重(明石南)で作っていました。

                                                     月川善雄

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ぼくあずさのComment

機械科恒例の工場見学旅行は名古屋のトヨタから長崎の三菱造船所まで9泊10日の日本を代表する会社を訪ねるもので、何処でも大歓迎を受け、到る所で戦後復興への産業界の熱気を感じました。1960年3月、大学三年の時です。


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満鉄あじあ号の牽引機パシナ -2/2 [和田の泊りより]

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時々懇)みなさんへ

先日お届けした旅行記に書き漏らしたことを補足しておきます。

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1.出発便の遅れ

地上では北京空港混雑の為と説明されたが機上では航路上天候不良のため便の間隔を開けたので遅れが出たとのアナウンス、しかしそれほど天気が悪かったとは思えない。

一説には中国要人が北京空港を使用したため一時的に閉鎖されたと。これが一番尤もらしい。

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2.万里の長城

を登りながらこう考えたこの長城を世界三大愚行の一つと言うが果たしてそうか。外敵から国土を防衛するということはそれほど労力と時間をかけるに値するものではないか。

実際の戦の役に立ったかどうかは良く判らないが抑止力としては機能していたのではないか。沖縄の基地問題で日米関係に綻びが出来たと見れば忽ち尖閣諸島、北方領土、竹島など国境問題が頭を擡げてくる。脅威は目の前にあるのに平和ボケした日本では防衛問題がまともに論議されない。いくら日本が戦争を放棄しても周辺諸国はどこも戦争を放棄してはいない。万里の長城は日本にとって正に「他山の石」積みである。

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3.内蒙古

に行く前に現地で暴動が起きていると言うニュースがあり戒厳令が布かれているとの噂があった。原因はシリンホト市で石炭の乱開発に抗議したモンゴル族遊牧民のリーダーがデモ隊注視の中で石炭を積んだトラックに轢き殺された事で、故意の殺人であるとして騒ぎが大きくなり、遂に軍隊を出して鎮圧(弾圧?)した模様。

もともと内蒙古は資源が豊富で良質の石炭、それに例のレアアースの産地でもあるがこれらは全て中央に取り上げられ、現地には還元されておらず、さらに共産党幹部が私腹を肥やしている事に対する不満が爆発したもの。勿論少数民族として人権無視の共産政治により圧迫されてきたことへの怒りもある。

只、我々が出掛けたフフホトでは何事も無かったように平穏であり現地のガイドも「あれは収まりました、リーダーは馘になりました」の一言で何処吹く風と言った感じでした。しかし周辺自治区は今のような植民地的政策をとっている限り(これが中国のやり方なのでしょうが)中国共産党にとって時限爆弾でしょう。

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4.もう一つ中国の地図

を見て驚いたのが南シナ海の領海線でベトナム沖、マレーシア(含むボルネオ・サバ州)沖、フィリピン沖それぞれギリギリの処に線が引かれている。流石に尖閣列島の辺りには線が引かれていないが、これでは各国が怒るのは無理もない。釣魚島だって油断すれば同じことに成りかねない。

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5.沈(瀋)陽、大連

に行き、あるいは旧満鉄路線に乗ってこれらのインフラは日本が作ったのになあと思いながらそれを当たり前のように使っている連中にある種の腹立たしさを感じました。

この事に感謝しているのは台湾だけだなと思い日本としては同じ事をした筈なのに何故中国、韓国は日本に恨みだけをぶつけてくるのか不思議なはなしです。絞れば幾らでも金を出す金の卵を産む鶏だとでも思っているのか。

                                       月川@神戸

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満鉄あじあ号の牽引機パシナ -1/2 [時々懇]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-04-8


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