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東京裁判と民間人(非戦闘員)の殺戮 -2/5 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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この東京大空襲当時鶴見の山の手に住んでいたのだが、真っ暗な夜空に東京の空が真っ赤になっていたのを今でも覚えている。空襲そのものについては以前に毛利登乙さんから生々しい体験記を頂いたのでご本人の了解は頂いていないのですが改めてここに再掲したい。

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①空襲当夜

私は父の勤める東京ガス大島工場の社宅に父母と3人(兄と姉は疎開中)で住んでいました。当時都市ガスは石炭を乾留して製造し、副産物としてコークス、タール、ベンゾール、ナフタリン等ができ、工場の中には貯蔵するヤードやタンクがありました。

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空襲当日、初めはいつものごとく遠く離れたところに焼夷弾が落下するのが見えました(8角形の筒に蓋がついていて蓋の中に空色のリボンがあり落下するときに燃える。したがって遠目には夜空に線香花火がゆっくり落下するように見える)。ところがだんだんと焼夷弾が近くに落下するようになり、ガスタンク、タールなどのタンクに正確に命中するようになりました。このころになるとB-29は1機ずつ超低空で飛来するようになり、目標を正確に捕らえるようになりました。家に火の手が近づくころやっと工場で手配を終えた父が戻ってきて3人で着の身着のままで逃げ始めました。

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火災により発生する風に吹き飛ばされぬよう、3人はロープで縛りあい、防空頭巾にどぶの水をかけながら焼失した家屋の後を選んで近くの運河に向かって逃げました。途中背中に火のついた布団を背負って逃げる人や、焼夷弾の直撃を受けて倒れる人、人で一杯の防空壕等々を見ながら運河にたどり着きました。幸いと言うか幸運というか、岸に1艘の小船が繋いであり、まだ焼け残っていた家の壁に掛かっていたはしご、とび口、ひたき(?棒の先に布の紐がついていて水をつけて火を消す)を取り外し舟(木製、4,5人乗り)に乗り移りました。後は火の付いた漂着物から舟を守るために夜どうし棒で近づかないように防ぎました。


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村尾鐵男

先ず、毛利登乙氏の厳しい体験を茶化すものではありませんので、誤解しないで下さい。
私は戦争も終わりの頃、四国香川県の山奥に疎開していました。昭和20年7月4日未明、高松市が空襲されて、全市がほぼ全壊しました。それから数日後、高松から逃れた方から奇妙な「燃料」をもらいました。これは米軍の焼夷弾で、不発になったものから抜き取ったものです。
焼夷弾は、化学品名は忘れましたが、ガソリンを濃縮してゼリー状にしたもので、着火したゼリー状ガソリンを焼夷弾が落下しながら振り撒いて、火災を起させます。
不発の焼夷弾の蓋を開けて、中のゼリー状ガソリンを丼に一杯ほどもらって、煮炊きに使いました。
今思い出すと、背筋に寒さを覚える危険な行為ですが、当時、山中に住みながら薪にも苦労していたので、大助かりでした。茶さじ一杯で家族四人の米が炊けたので、焼夷弾の威力をつくづく思い知らされました。
by 村尾鐵男 (2011-08-24 15:01) 

ぼくあずさ

毛利さんの東京大空襲の体験、私の想像を超えます。
一人でも多くの人に語り継ぐことが我々の務めだと思いました。
by ぼくあずさ (2011-08-24 19:48) 

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