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ビルマ行 -1/9 [和田の泊りより]

                                                                             .by 月川善雄

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  1969年夏、UBRUnion of Burma Railways:ビルマ国鉄、その後Burma Railway Corporation に変わった。現在は何と呼ばれているか知らないが)から当時の汽車會社にディーゼル機関車の引き合いが舞い込み、その事前打合せのためにビルマまで出掛けることになった。当時のビルマ(現ミャンマー)は特殊な社会主義国家でほぼ鎖国状態にあり、商談等もこちらからの売り込みなどというものは全く認められておらず、先方が過去に良い実績を持つメーカーを選び為替などを勘案して指名入札を行うものであった。売り込みなど行えば汚職につながるということでスパイ行為と見做され即刻逮捕・投獄される惧れがあった。従い現地に駐在出来るのはビルマ政府と何らかの契約を持っている会社に限られ、商社では、住商、三菱商事、金商又一、兼松江商、大丸、メーカーでは賠償に係わる松下電器、日野自動車などが居た。

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汽車會社も数年前に入換用ディーゼル機関車10両を納入したことがあるのだがその結果が良好だったのと円がまだ360/ドルの頃だったので候補に上ったものだと思われる。(現在ではミャンマー国鉄は韓国、それに中国の市場となっている)

ということで19696月末、汽車會社の保田海外営業第一課長、住友商事の降旗課長のお供をしてビルマに出掛けることになった。この頃になると海外出張もそう珍しくはなくなっていたが数年前までは海外出張ともなれば会社中大騒ぎだった。当時国際線は羽田から出るので大阪から東京までは東海道線の夜行列車で出掛けていたのだが、大阪駅頭で万歳三唱、振袖姿のお嬢さんによる花束贈呈等があり、大の男が貰った花束の処置に困って大阪を出て直ぐの淀川の鉄橋から捨てたと話していたのを聞いたことがある

私の場合はそんな大袈裟なこともなく伊丹から飛行機で羽田へ向かった。当時は海外に出掛けるには予防接種が必要で種痘、コレラ、チフスの予防注射をするのに一週間を要した。そしてイェローカードと呼ばれる予防接種証明書を携行し、パスポートも今のように数次旅券ではなく革表紙の一次旅券だった。

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ビルマへのルートは今でも余り変わらないと思うが、羽田―香港―バンコク()-ラングーン(現ヤンゴン)で羽田バンコク間はJL471便だったが途中香港で機材がDC-8-61からもっと小さな機体に変わったような記憶がある。まだBoarding Bridgeなど無い時代だったから香港啓徳空港で機内からタラップに出た途端にむっとする熱気に中てられたのが印象的だった。さらに飛行機を乗り継いでタイまで飛んで、丁度雨季だったので周りの田圃が水で一杯になっているバンコク・ドンムアン空港に着水するような感じで着陸した。 初めて入国するタイ国の税関でCurrency は幾ら持っているかと問われCurrencyという言葉が判らずにキョトンとしていたら苛苛した職員に日本語で「お金」といわれて納得した。当時はタイ国から1000ドル以上の持ち出しは禁止されていたので所持する通貨の申告が必要だった。降旗課長は現地駐在員の土産用に即席ラーメンを1パック段ボール箱で預けていたのだが受け取ってみると段ボールが手鉤で破られ中身が減っていた。


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村尾鐵男

少々記憶が曖昧ですが、当時のJALは南廻り航路で香港から先の乗客減に苦労していました。そこで、香港かバンコックに一回り小さいDC8-50型を用意して、DC8-61から乗り換えてもらいました。
by 村尾鐵男 (2011-07-13 07:40) 

ぼくあずさ

駐米ミャンマー大使が今月亡命した。その記事の中で、1962年までは国は豊かであったと書かれています。
http://www.afpbb.com/article/politics/2813244/7502019?blog=sonet
by ぼくあずさ (2011-07-15 18:05) 

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