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八田與一と飯田豊二 -2/2 [和田の泊りより]

                                                    .by 月川善雄

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s-061223 P1010777.jpgその中に前回の台湾旅行の際(あれからもう4年も経ってしまいましたね)時間が足りなくなって見ることが出来なかった、高雄とその東にある屏東との間にある高屏渓と言う大きな川に掛けられた下淡水渓鉄橋と呼ばれる鉄道橋があります。(台湾では国家第二級古蹟に選ばれています。)全長1526m24連のトラス橋で当時は東洋一の長大橋でした。この橋の設計をしたのが飯田豊二と言う技師で寝食を忘れて仕事に没頭したためついに病を得て40歳の若さで台南の病院で亡くなって仕舞います。

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s-061223 P1010783.jpg八田氏程は有名ではありませんが、彼の業績を讃える記念碑が現在もく手入れされて残っています。この鉄橋は現在2005年に台風で中央部の3スパンが落下してそのままになっており鉄道橋の方はその横にコンクリート製のものが掛けられています。

写真がありますので添付します。クリックで拡大します。

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追記

李登輝前総統が台湾で最も愛される日本人の一人とおっしゃる八田與一。今でも、氏の命日にあたる58日には、嘉南農田水利会の人々によって墓前で慰霊祭が執り行われています。そんなことからも、八田與一がいかに地元の人々に敬愛されているのか、ということがわかるかと思います。

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八田與一は、何故それほどまでに敬愛を集めているのでしょうか。

いまでは台湾最大の穀倉地帯として潤う台湾南部の嘉南平野一帯も、日本の台湾統治が始まった頃は一面不毛の大地だった。長い雨季には大地が水に浸り、乾季には水不足に悩まされ、穀物栽培にはまったく不向きな土地だった。

では、どうしてこの不毛地帯がそのような変貌を遂げたのであろうか。日本人技師・八田與一の活躍である。

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八田與一と飯田豊二 /2

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-07-27-1


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ぼくあずさ

欧米列強の植民地政策を真似ず、何故これほどまでに台湾経営に
資金を投下したのでしょうか?この鉄橋もその規模の大きさは驚き
です。
by ぼくあずさ (2011-07-28 20:58) 

村尾鐵男

昭和30年代初め、マニラで東南アジア外相会議が開かれ、韓国の外相が日本による統治を激しく責め立てました。それをじっと聴いていたインドネシアの外相が、当時のインドネシア政府は中国共産党の分派のようなものでしたが、「そうは言うが、日本は韓国に帝国大学や多数の学校を作って朝鮮人に教育の機会を与え、日本から教官を派遣したではないか。その教育が戦後の韓国の発展に役立っている。このことを考えたことはないのか。インドネシアはオランダに300年間も統治されたが、オランダは小学校一つ作らなかった。バンドン工科大学は日本が作ってくれた」と発言して韓国外相を黙らせました。
台湾でも台湾大学(旧帝大)をはじめ、多数の学校を日本は作り、台湾人にも、優秀な生徒に限られたようですが、教育の機会を与えました。
by 村尾鐵男 (2011-07-29 11:06) 

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