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大震災6か月・専門家の反省 -2/5 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                                    .by N.Hori

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原子力技術 分かる人が消えている

(元原子力安全委・委員長代理(平成10~12年)、住田健二氏)

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 福島第一原発での最初の全電源喪失の報を聞いた瞬間、何とかなると思った。1基くらいの大きなトラブルはあり得るという覚悟はあったが、それをはるかに超える事故になった。安全装置が働くと思っていた。原子力に関わってきた者として、申し訳ないとしか言いようがない。

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事故は津波による停電が回復できなかったことが原因とされているが、全電源喪失は前例のない事態ではない。東電の守備範囲で何とか出来ると思っていた。電力会社の技術力を信頼して任せていたが甘かった。

 透明性と公開性という本質的な問題も見過ごされている。事故から半年たち、本来ならば「あの時、何が起きたのか」という真相が出てくる時期のはずだが、「最初の1週間の混乱状態の中で、誰が何を判断して、何が起きたのか」という事実関係がまだ出てこない。

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私の過去の失敗例だが、平成11年のJCO事故(東海村)での事故調査委員を務めた際、JCOが隠そうとしたものは出てこなかった。だが、警察の家宅捜索で、隠し事がいっぱい判明した。会社のメモや記録は見事に警察が押えた。事実を物語る記録、証言は時間の経過と共に、どんどん失われてゆく。事故対応の音声の記録も残すべき重要な記録だ。

私は、過去に、事故時に制御室の音声を自動記録することを提案したことがあるが、電力会社の猛烈な反対にあって潰されてしまった。背景には、監督する規制当局の建言が弱かったことがある。JCO事故の教訓や反省が生かされず、失敗が繰り返された。

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いま、原子力安全・保安院を再編し、安全委の委員長を大臣が務める案まで出ている。規制機関の独立性や権限が本当に確保されるのか、注視する必要がある。

 原子力の技術的なレベルダウンも深刻な問題だ。原発の新設が減り、保守点検しながら既存の原発を長年稼働させることが中心となってしまった。(さらに、民主党政権のもとで、脱原発の動きが進んでいる)。

 原子力開発初期の緊張感や積み上げたものが失われ、メーカー、電力会社、規制機関に原子力の技術が分かる人がいなくなっていっている。今回の事故で、原発に携わるひとは白い目で見られるようになり、有能な人が残る雰囲気でなくなってしまう。現状より悲惨な事態になってしまわないか、が心配だ。


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大震災6か月・専門家の反省 -1/5 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                    .by N.Hori

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 産経新聞・9月13日に、5人の専門家が、今回の大震災について、6か月後の反省を述べています。「専門家といっても、こんなこともやって無かったのか、、、」と思うこともありますが、内容が率直ですので、紹介します。

その中で、「釜石市で小中学生の津波犠牲者、ほとんどゼロの奇跡」を実現した専門家らしい先見性、事前指導が光る、群馬大・片田教授は、指導に素直に従った子供では成果を上げましたが、知識と経験のあるはずの大人は自己流の判断、行動をして、成果を上げられなかったことを嘆いています。

 同じことは、東北大の今村教授にも言えます。

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福島第一原発事故・欠けていた生活防護の発想(元原子力安全委・委員長(平成12~18年)、松浦祥二郎氏)

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事故に関しては、原子力の安全を担う立場の人間として自然の脅威に対する考え方や対応が不十分だったと認めざるを得ない。責任を感じており,社会に対して非常に申し訳なく思っている。

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 最も反省しなければいけない点の一つは、委員会が作成した指針の中で、長時間の交流電源喪失は考慮しなくともよいとしていた点だ。工学的には電源喪失を防ぐことは可能だった。デイーゼルエンジンなどの電源設備を水の入らない構造の建物に入れておき、配電盤に防水処理をしておけば、今回のように電源を失い、原子炉が冷却できなくなる事態は防げただろう。

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 なぜ、こうした対策が取られてこなかったというと、世界的にも優れた日本の電力網の存在が背景にある。日本で停電が発生する確率は世界でも有数の低さで、停電時間の平均は十数分。1号機でも燃料が溶融するまでは設計上8時間の余裕があり、停電については考えなくともいいとなっていた。私も、違和感を覚えず見過ごしていた。

これまで、原子力安全は科学技術的側面から考えられてきた。科学とは過去の経験や記録から導き出され、多くの研究者が妥当とするものだ。長時間の電源喪失や津波の危険性を指摘する専門家がいたという指摘もあるが、それは一部の考えで、多くの専門家が妥当とするレベルの話ではなかった。

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しかし、実際に想定を超える事態に襲われた。これは科学の限界の部分で、結果を真摯に反省しなくてはいけない。今後は、科学を越えた現象まで想像力を膨らまし、柔軟性をもって対応する必要があるだろう。原子炉の安全は一定レベルの地震や津波に耐えられるものを造るという発想で基準が作られてきた。だが、事故が起きたとしても、放射能物質を外に出さないという考え方で原子炉を設計していく必要がある。さらに決定的に欠けていたのが事故発生時の生活防護の発想だ。

 今回は迅速な非難が行われ、放射線障害のリスクは避けられたが、コミュニテイは崩壊してしまった。こうなることはチェルノブイリ事故の経験でも分かっていたことだが、日本ではほとんど考えられてこなかった。検証の際に忘れていけない重要なポイントだろう。


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私の散歩コース -2/2   [明治維新胎動の地、萩]

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そこから、左に陸上競技場のフェンス沿いに約300m歩くと、「東南口」に戻り、2周目を始めます。3周回ると、約5000歩歩くことになりますが、2周回って、歩き足りないと思う時は、3周目に野球場に突き当たった時に、右折して、野球場を外回りしますと、約7000歩歩けます。

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それ以外は、2週間毎に行く約3km離れた市立図書館、時々、約2km離れた市立植物園「グリーンセンター」、たまに夫婦で行く「シネマ・コンプレックス」、園芸用品を買いに行く「ホームセンター」、約1・5km離れた「SKIP・CITY」(埼玉・川口・インテリジェント・パーク)にある「NHKアーカイブス」、「埼玉県産業技術総合センター」、「プラネタリウムのある市立科学館」、歯科医への通院に歩いて行く、東京近郊の散歩や美術館、博物館、などへ行きます。

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我が家は短命の家系で、34年前に68歳で亡くなった親父が、当時の男の最長命記録でした。その後、80歳で亡くなった叔父が現在の記録保持者です。人間の寿命は、家系などの遺伝子が1/22/3、食事、医療などの環境が1/31/2と言う説がありますが、私も今年、6回目の年男を迎えましたので、7回目まで生きて、最年長記録を更新するのが当面の目標です。

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今年の誕生日にやって来た長男が「7回と言わず、10回を目指したらどうか」と珍しく煽てましたので、目標だけでも大きく持とうと、大隈老侯の目標(125歳)に近い、それを目標にと、分不相応にも思っています。

仕事を辞めてから、運動と栄養バランスの食事を意識して、毎日5000歩以上歩くことと体重管理(BMI:22.5前後)をしています。


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私の散歩コース -1/2 [明治維新胎動の地、萩]

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青木後援五輪聖火台複製.JPG 我が家は、川口市で、各種運動施設を完備し、一番大きな運動公園である「青木町公園」に近く、散歩は、青木町公園の1周1kmの「ジョッギングコース」を3周歩くのが恒例です。

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青木公園ジョッギングコース2.JPG公園前の交差点の右前に「武道体育センター(柔道場、剣道場)」を見て、左側の公園の東南の角にある入口から入り、中央に向かって歩くと、約20mの位置に「ジョッギング・ウオーキングコース」(幅約2mの赤色のアンツーカー舗装)があり、いつも多く青木公園陸上競技場3.JPGの人々がジョッギングしていますが、そこを右折して、左側の陸上競技場の金網フェンス越しに400mコースと観覧席を眺めながら、コースを図書館で借りた「大きな活字の本」を読みながら、歩き始めます。全ての写真はクリックで拡大します。

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陸上競技場の端を過ぎると、立派な屋根を備えた「相撲の土俵」があり、それに隣接して更衣室・シャワー室の建物があり、コースはその建物と公道との塀の間を左折しますが、直ぐに、左側に「弓道場」があります。それを過ぎると、右側に「北口」があり、その先に50mプール、25mプール、飛込プールを備えた「水泳場」があり、その先に「4面のテニスコート」があります。

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青木公園英霊慰霊碑.JPGコースは、左側に英霊慰霊碑の広場の後ろを通ります。そこには、「鋳物の街・川口」製の東京オリンピックの大きな聖火台(鋳物製)の複製品が展示されています。やがて、別の「8面のテニスコート」に突き当たり、それに沿って左に進み、右折して、コ青木公園野球場裏1.JPGートの中央位を左折し、「西口」への通路を横断すると、川口球場(野球場)の「レフト側外野」付近に突き当たり、それに沿って左折します。この辺りの藤棚の下や木陰にはシートを敷いたり、椅子とテーブルを用意して将棋をしている高齢者が平日でも沢山います。

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青木公園展示物.JPG陸上競技場の前の駐車場の広場を左に見ながら、「南口(正門)」を右に見て、通路を横断すると、かっての児童文化センターの建物があります。青木町公園の大きな樹木には、番号が付けられ、約1000本以上ありそうですが、正門の左から1番が始まります。

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平時の論理で有事に対処、日本の破綻 -3/3 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                                   .by N.Hori

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実は、民主主義の根本機能の一つは法律に則って、非常時の体制がとれるということである。換言すれば、有事においては絶対的な強制権ではなく、あくまで非常法制の体系に則って国家が強権発動することで民主主義を保証するのだ。それこそが、民主国家が「国民の命を守る」ことを使命とする政府に与えている役割なのであるのだ。その意識が無い元凶は現憲法にあるのだ。

こうした民主主義国家の原則が日本で根付かず、民主主義が未成熟のまま放置されてきたのは、結局は「歴史認識」によるところが大きい。

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有事における国家の強制権が持ち出されると、「戦前のような軍国主義、全体主義につながる。民主主義が崩壊する」との歪んだ歴史観が常に立ちはだかってきたのだ。これが「グローバル化」の時代の到来と共に、奇妙なねじれを生じ、日本の国家機能をさらに大きく削ぎ落す方向に働いた。

欧米には、「夜警国家」の理念がある。「夜警国家」は自由経済主義者のアダム・スミスの言葉だが、スミスは、「経済や社会の動きについて、政府が極力自由を与えた方が国民の豊かさは増す」と論じたが、同時に「国防は豊かさよりも優先されるべきである」と夜警国家の理念を言っている。   

 上記のアタリは「国民の生命を守ろうとしない国に国家主権は無い」とも言っているが、戦後の日本では、「他国の侵攻を想定してはいけない」という憲法のもとに、夜警国家の理念が受け入れられない。

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そもそも自民党が党の政綱に掲げた憲法改正を長年にわたり放置してきたことが、今日の「日本の窮状」の根因なのである。憲法が変わらねば、何も動かない。今、憲法改正の動きが出ているが、民主主義とは何かを突き詰めることが重要だが、この動きに期待したい。

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「民意絶対」という戦後教育を受けた世代が主力になっている日本では、何でも要求する国民の「剥ぎ取り民主主義」がエスカレートしているが、本来、代議制民主主義とは、「民意は間違えることがある」から、「国民が思いつかないこと」、「国民の思いに反するが、長い目で見れば国益に資することを考えてくれる」代表者を選ぶ仕組みである。

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しかし、現在の日本では「民意は万能で、政治家はそれに黙々と従えば良い」という雰囲気が国民、マスコミにも蔓延している。今の誤った理解のままの未熟な民主主義が暴走すると、議会制を無視した直接民主主義という名のファシズムを招来することが危惧される。また、合理的な国益の思考が出来ない勢力が国政を牛耳れば、日本は経済的にも先細り、財政も破綻し、外国からの脅威に迎合することになる。

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良識ある国民が、今こそ声をあげる時が来ている。そのためにも、国家観、価値観の問題をマスコミや教育の場で正面から取りあげる必要がある。また、政治家やマスコミに対して、国民が声を上げる時代が来ている。これこそ国民主権の発露なのである。


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平時の論理で有事に対処、日本の破綻 -2/3 [明治維新胎動の地、萩]

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 東日本大震災は日本人に対し、国家の役割について、かってない深い問いかけを迫った。

「国家は何のためにあるのか」。その究極の目的は言うまでもなく、「国民の命を守ること」である。そのためにこそ国家は存続しなければならず、それに必要な領土や主権、政府機能の維持が不可欠になる。さらにそれらを支える国民生活の豊かさや伝統・文化も重要となってくる。これらは当たり前のことなのだが、この問いかけに答えることが出来ない現代日本の「国家としての惨状」を、今回の震災はまざまざと見せつけることになった。

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 ここには、「戦後日本」という特殊の空間の中でも国家が成立しうる、と考えてきた国家構想の破綻が明らかになっているのではないか。国家としての戦後日本は、どうやら「最終的な破綻の回路」に入ったのではないか。この大震災が我々に突きつけているのは、これだと私には思える。

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 3月17日午前、ロシア空軍の情報収集機「IL20」が東北地方の日本海側を南下した。領空侵犯のおそれあり、と航空自衛隊機がスクランブル発進し、同機は昼過ぎにロシア方面に飛び去った。震災の真っ只中、日本が対応能力を欠いていることが誰の目にも明らかなタイミングでの挑発行為だった。当時、太平洋側では、原子力空母をはじめとする米軍が本格的な救援活動を展開していた。ロシア機は日米共同対応を偵察する目的をもって飛来したとみるのが自然だ。

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危機対応時は言わば「敵のいない戦時」であり、国際情報戦では「絶好のかきいれ時」である。無線の暗号を切り換える頻度、報告のタイミングなどを収集することで、米軍の戦時マニュアルを再現することが出来る。これが国際社会の常識であることを我国の政府だけが知らなかったことだ。政府の姿勢は外相の記者会見の発言に象徴される。

「各国からお見舞いの言葉や支援の申し出を頂いているという気持ちを信じて、お付き合いしていくのが今の私どもの立場だ」とロシアに抗議しない考えを示した。これには私(中西)も言葉を失った。「日本が弱っている時に何をするんだ」と強い抗議でアピールすれば、国際世論の理解と同情を集め、少なくとも震災の最中は、他国からの挑発を受けずに済んだであろう。

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案の定、翌週にロシア機は再び日本の防空識別圏に侵入した。また、3月26日と4月1日には、中国機が東シナ海の公海上で海上自衛隊の護衛艦に繰り返し異常接近する事態も招いた。

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 震災後に露呈した、想像を超えた菅政権の対応の甘さや国家としての機能の低さが、世界にも衝撃を与えている。その最大の犠牲者は言うまでもなく日本の国民、とりわけ被災者たちだ。

原発対応、被災者への救援、被災地の復旧支援など次々と失態を重ね、日本の国家中枢が炉心溶融していたわけである。そもそも、これだけ大規模で激甚な災害に遭遇した以上、本来ならば、「国家非常事態」を宣言し、平時の法体系とは別の体系に移行して対応しなければならなかったのだ。

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 しかし、戦後日本の憲法には、そんな条項は存在せず、従って、非常法体系も備わっていなかった。ただ、現行法にもある災害対策基本法に基づいて、首相が「災害緊急事態」を布告すれば、同じようなことは出来たが、それも一切とらなかった。


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平時の論理で有事に対処、日本の破綻 -1/3 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                                   .by N.Hori

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民主党政権の問題を分かりやすく解説した、中西輝政・京大教授著、WEDGE誌・2011/7 の紹介です。紹介者の責任で、文章の順序や表現などを分かりやすく変えています。

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 市場に基づく民間の経済活動、住む権利や所有権などの私権。いづれも平時でこそ機能し、優先されるものであり、有事においては国民の保護のために国家の主導権が求められる。それが「当たり前の国家」なのである。危機に際しても全く平時の感覚しか持ち合わせていない民主党政権の問題が見えるが、その背景には「非常事態」という法空間を一切捨象した自民党が続けた戦後国家の根本的問題が横たわっている。

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その結果、脅かされるのは、国民の生命だ。フランスの元閣僚で、学者でもあるジャック・アタリは、3月末、大震災、原発事故をめぐる日本政府の対応は、本質的に国民の生命を一顧だにしないリビアのカダフィー政権と同じであり、それゆえ、日本の国家主権を超越して国際社会の直接介入によって収束させることが求められている、とまで論じている。菅政権は、サミットに出向く前から、もはや政府としての存在価値がない、という烙印を押されてしまっていたのである。

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そうして、5月末、仏ドービルで開かれた主要国首脳会議の場で、菅首相は、原発事故に関する情報の公開を繰り返し厳しく求められた。この一連のことを見ても、自己主張も国際貢献もしない日本に対して震災前から国際社会が鬱積させていた不信とフラストレーションが一斉に吐き出されたのである。今後、国際社会はその冷徹な論理に従って、日本が変わらねば、置き去りにしたまま、私たちが考える以上の早いテンポで動いてゆくだろう。

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「戦後国家」の根本的欠陥という問題もさることながら、菅政権が病的なまでに平時の発想しかできない理由の一つは、政権指導者たちの意識構造という問題があると考えられる。菅、枝野、仙谷らには、左翼の反体制運動の経歴がある。ある学者は「唯物史観と非武装平和主義、どちらかの思想に一度でも染まった人間は決して政治家にしてはならない」と喝破していた。唯物史観は、人間の行動はすべて物質的な条件によって決まる、とするために権力闘争においては徹底したマキャヴェリズムに走り、同時に道徳や精神的な価値の軽視に陥りやすく、反戦平和主義は力の否定と反国家的な情緒に繋がるからだという。

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つまり、マルクス・レーニン主義に染まった経験のある政治家は、一方で権力への異常な執着を見せ、他方で権力行使への罪悪感からくる意識的な責任放棄に走るからだ。この説で、グランドデザインを示すことなく、内政で大衆受けだけを狙う無責任と、外交でロシア、中国、北朝鮮などの挑発に対して、国益を損なう対応しかできない菅政権の動きをすべて説明できる。

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この大震災の国家危機の中、平時の権力ゲームの発想だけで国家が動いていることは、何という「日本の悲劇」であろうか。菅政権に色濃い傾向だが、公平に言えば、歴代の自民党政権も内輪の権力闘争に明け暮れていたことは事実である。最大の問題は、平時もあれば、有事もあるのがこの世の掟であるにも拘わらず、あえて「そのとき」の備えを欠いたままにしてきたことだ。


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8月15日、靖国神社に参拝してきました [明治維新胎動の地、萩]

                                                                          .by N.Hori

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 毎年、戦死者に敬意と感謝を表して、年に1,2度は靖国神社に参拝するのですが、今朝のTVニュースで「菅内閣は、靖国神社を参拝しないことに決めた」を聞いて、義憤を感じて、急遽、参拝することにしました。

靖国神社815/3.JPG 10時前後に着いたのですが、暑い中、参拝客の長い列ができており、菅内閣は国益を損なうことばかりやって、私益を貪る売国奴集団で情けない限りですが、多くの国民は、この日に戦死者に敬意と感謝を表して参拝する姿に感激し、安心しました、

 私も、戦死者の安らかな眠りと東日本震災の被災者の安らかな眠りと早い復興、日本産業の復活、新たな発展を祈りました。

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 境内では、戦没者追悼中央国民集会が開かれており、国歌斉唱の後、66年前の終戦の玉音放送を聞き、改めて、昭和天皇のご決断で終戦を早めた有難さを感じました。

 終戦の日にちなんで、境内では、各種資料が配布されていましたが、その中で、多くの国民が知らないと思われることを、紹介しようと思います。

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 まず、「史実を世界に発信する会」の茂木弘道氏の、

「アメリカのルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃の5か月前に、日米和解交渉中に、“日本の本土爆撃命令を出していた。(対日攻撃計画書JB355)」という資料では下記を主張する。

 1941年7月23日、ルーズベルト大統領は陸海軍の対日攻撃計画書(JB355)にOKのサインをした。戦闘機と長距離爆撃機と偽装ボランテイアの米軍飛行士を中国に供与して、中国基地から、関西、東京の産業地域を爆撃する計画である。

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この時点で、日本側は、戦争回避の必死の日米交渉をしていた。一般には、日本が7月28日、日本軍が南部仏印進駐を行ったために、アメリカは8月1日に石油などの戦略物資の全面禁輸と日本資産凍結を行った、ということになっているが、実際は、その前に対日攻撃の命令を出していたと言うことである。この計画は、10月には実行されることになっていたが、欧州戦線が急迫し、大型爆撃機をそちらに回さざるをえなくなり、遅れた。

 12月8日の真珠湾攻撃を、ほとんどのアメリカ人は、日本の不意打ち攻撃だと信じているが、上記の経過から見ると、真珠湾攻撃は、日本の自衛権に基づいた反撃戦であったと言うことになる。

 このJB355計画は、1941年初めから、大統領の指示により、補佐官カリーが進めていた。カリーは後に、ソ連の工作員だったことが判明した男であるが、この経過から言うと、ルーズベルトは日米和解を考えていなかったと思われ、日米戦の戦争責任者の筆頭だった。

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また、「無条件降伏という国際的な詐欺とそれに騙され続ける日本」という資料では、

下記のことを主張する。ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのは日本軍であって、日本国家は無条件降伏をしていない。それをマッカーサーも気づき、アメリカ政府が指示する占領政策に疑問を感じて、確認しているが、トルーマン大統領は、ポツダム宣言以前の無条件降伏を基礎とするという国際的な背信詐欺行為を堂々と行った。

例えば、「言論、宗教及思想の自由は尊重さるべし」という宣言の規定を踏みにじって、徹底的な検閲、焚書まで行った。さらに、憲法まで、検閲下で変えさせられたにもかかわらず、「無条件降伏論」にやられた日本人は、これにまともに反論をことが出来ずに、ここまで来てしまった。

 負けたのだから仕方がないといつまでも思っていたのでは駄目だ。無条件降伏などは詐欺であり、不当なことである、という認識なしには敗戦克服、日本再生は無いと言うことである。


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イギリスのツアーに行ってきました -4/4 [明治維新胎動の地、萩]

                                   .by N.Hori 

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21、カーデイフ・ラグビー場.JPG6/22(8日目)

8:30から、まず、ホテルの近くの「ミレニアム・スタジアム」

(7.5万人収容のラグビー場)の前を通り、市内を散策しましたが、田舎を巡ってきた後、久しぶりの22、カーデイフ城.JPG都会地だったので、人通りも多く、道路などが汚れていたのは否めません。カーデイフ城やセントジョン教会を入場・見学した後、郊外のレストランで「コテッジパイと紅茶」の昼食をとり、来た道と同じ橋を渡り、イングランドに戻り、世界遺産の5000年前23、ストーンヘンジ.JPGの巨石遺跡「ストーンヘンジ」の見学へ向かいました。(約150km、2時間20分)。石の隙間から夏至や冬至に日の出、日没の太陽が見えるとのことで、エジプトのピラミッドと同じく、石の配置が天文学の経験に基づいているようです。

 その後、ロンドンのホテルに向かいました。ロンドンのホテルは、市内の手前のヒースロウ空港の近くだったので、早く着きました。

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/23(9日目)

8:00にホテルを出発し、ロンドン市内に向かい、まず「クイーン・メアリー・ローズガーデン」でバラの花を観光しましたが、花期の盛りを過ぎても手入れをしないので、日本の各地のバラ園の方が綺麗だったのが期待外れでした。日本人は、花の咲く前だけでなく、花を楽しんだ後は早く片付けるのが「武士の情け」だと思う人が私も含めて多いと思いますが、英国人は個人的には分かりませんが、公園などでは、そのような気持ちで花の後の手間を掛けないようです。

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24、ウインザー城.JPG次に、大英博物館のさわり(ロゼッタストン、エジプトミイラ、ギリシャ彫刻など)の見学、バッキンガム宮殿の衛兵交代の見物、車窓からウエストミンスター寺院、ビッグベン、ロンドン塔、トラファルガー広場、ピカデリー広場などの観光、三越デパートでの買い物などを済ませ、市内レストランで「ローストビーフ」の昼食、午後からはウインザー城の見学を済ませて、市内に戻り、チャイナタウンで、中国料理の夕食を済ませて、空港近くのホテルに戻りました。

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各地で、広い貴族の城を見て、一部の人々は「やはり、広い城で育った貴族でないと、ノーブレスオブリ―ジ、国家意識は育たないのではないか。市民活動出身の日本の民主党幹部の国家意識の乏しさ、国益よりも私益を優先する言動、無責任さは情けない、云々」と言っていました。

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/24(10日目)

10:30にホテルを出て、空港に行き、最近できたブリテイシュ・エアウエイ専用の第5ターミナルでチュックイン、13時半の出発まで、自由行動、食事(唯一の自己負担でしたが、話のタネに、寿司とジンジャ・ジュースを試食しました)、買い物などで過ごしました。

 私は、乗り物に乗ったら、地図(国内ではポータブルナビ)を見る習慣があり、飛行機に乗ったら、最近はエコノミークラスでも個人画面を見られますので、映画などを見ずに、航空情報データ、路線地図を見ながら、退屈せずに過ごします。

成田に25日朝9時前に着き、入国、通関を済ませ、無事、ツアーを終わりました。

                                                                         (完)


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イギリスのツアーに行ってきました -3/4 [明治維新胎動の地、萩]

                                                .by N.Hori

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14、H長城5.JPG/19(5目)

8:00に出発し、まず、ローマ帝国が2世紀初めに造った「ハドリアヌスの長城」(約156km、140分)の観光でしたが、「万里の長城」と比較すると余りにも貧弱で、馬術の障害壁程度の石垣が続く(所々に、砦を設けて、全長は約118kmだったが、現在は断続的に途切れている)だけで期待外れでした。建造当時は、高さ4.5m、厚さ3mの壁の前に深い溝も掘られたそうですが、現在は石が盗まれたり、土に埋まったりして貧弱な状態になっています。

15、ライダルマウント16.JPG往時、イングランドの駆け落ち結婚希望者がその手続きをしたと言うスコットランド国境の町「グレトナグリーン」を越えて南下し、「イングランド」に入り、湖水地方のイギリスで最大のウインダミア湖(約70km、1時間)へ行き、詩人のワーズワースが晩年を16、湖水地方 *.JPG過ごした「ライダルマウント」の庭園を見学しました。その後、「ボーネス」から南端の「レイクサイド」まで観光船に乗り、「ハーヴァースウエイト」まで観光蒸気列車に乗った後「ウインダミア」に戻り、湖の眺望の良い山の中腹の「ビーチヒルホテル」に泊まりました。

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26、南イングランド・ウエールスa.jpg/20(6日目)

6:00モーニングコール、8:00出発で、一番走行時間、距離が長い日でした。まず、小説家ブロンテ姉妹の故郷「ハワース」に向かいました。(約143km、2時間)。妹のエミリイ・ブロンテが書いた「嵐が丘」は、時折、家内が話題にしていましたので、その舞台に一度は連れて行きたいと思っていたので、45年来の思いがやっと果たせた気持ちでした。

17、ハワーズ・ヒースの丘 *.JPG 家内は、イメージしていた舞台と少し雰囲気が違っていて(家が増えているのは当たり前ですが、季節も違い)戸惑っていましたが、「ヒースの荒野」を眺めるイメージを求めて、生家の裏山の頂上まで登って行きました(同行した人から健脚を褒められて喜んでいました)が、私は関心が乏しいので、途中で戻ってしまいました。

18、ストラトフォード *.JPGその後、シェイクスピアの故郷「ストラトフォード・アポン・エイボン」(約267km、4時間)まで突っ走りました。そこで、シェイクスピアの生家、妻の生家を見学し、ホーリー・トリニテイ教会の建物内に埋葬されているシェイクスピア夫妻の墓に参拝後、シェイクスピア劇場、銅像のある公園を散策してホテルに着きました。家内は、劇場の中を見れなかったのを残念がっていました。

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19、バイブリー.JPG/21(7日目)

コッツウオルズ地方を観光し、ウエールズのカーデイフまで走行しました。

まず、現在デザインの祖・ウイリアム・モリスが英国で「一番美しい村」と称賛したバイブリー(約60km、50分)へ行き、木々に覆われた狭い歩道の「アーリントン・ロウ」を散策し、近くの小川や庭園、ニジマスの養殖場を眺めました。人口600人の小さい村ですが、当日は、日本人のツアーが多く、観光バス5,6台で約200人が訪問したのではないかと言われました。

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20、ブレナム宮殿.JPGその後、貴族だったチャーチル元首相が生まれた、広大な庭園の「ブレナム宮殿」(約40km、40分)を見学しました。その中の「インデアンルーム」で、アフタヌーンテイーの昼食(ソフトブレッド他と紅茶)をとりました。その後、セバーン河に掛かる斜張橋の第二セバーン橋を渡り、「ウエールズ」に入り、首都「カーデイフ」に着きました。(約180km、2時間半)

カーデイフに近づくと、平らな草原にはラグビーのゴールポストのある広場が見られるようになり、ラグビーが国民の人気スポーツらしいウエールズらしさが見られました。


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イギリスのツアーに行ってきました -2/4 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                       .by N.Hori

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7、ネス湖・アーカイト城 *.JPGここからも同じような風景の中を、恐竜伝説で有名になった「ネス湖」に向かいます。(81km、80分) ネス湖のほとりに立つアーカート城に入場し、見学しました。スコットランドらしく、バグパイプを演奏する軍楽隊が歓迎してくれました。城壁に上り、8、ネス湖2 *.JPGやは9、ネス湖3.JPGり氷河で作られたという細長い「ネス湖」(長さ約40km、平均幅約1.6km、近くの水深約300mで周辺の山の高さよりも深い)の風景を眺めました。近くには、恐竜のリアルな模型(長さ5~8m)を浮かべる池もあり、写真のスポットになっています。

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 ネス川に沿って、谷を下り、インバネス(ネス川の河口の意)の町に入り、午後5時半ごろに駅の隣のホテル「ロイアル・ハイランド」に着いたら、部屋から駅のホーム(欧米の都会地の駅に多い「通過型」でない「突っ込み型」)を眺めることが出来ました。

 今回のツアーで最北端だったインバネスは北緯約57・5度で、樺太(サハリン)の北端よりも北に当たります。白夜で日没は午後10時過ぎ頃でした。

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 緯度の割にイギリスの気候が温暖で、天候が変わりやすいのは、メキシコ湾からの暖流が大西洋を越えて、西岸に沿って流れ、上昇気流で雲を発生させるが、山が低い(最も高い山でも1300m少し)ので、妨げられずに東に速く流れることにありそうです。

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/17(3日目)

10、ハイランド *.JPG8:30にインバネスをバスで出発、低い山の中をピトロホリー(約139km、約2時間)に向かいました。ここは、英国留学中にうつ病に悩まされた夏目漱石が静養した山間の静かな村です。そこで、13世紀に創建されたという田舎の小さな「白亜のブレア11、ブレア城5 *.JPG城」を見学しました。その後、スコットランドで一番小さいと称するウィスキー醸造所「EDORADOUR」を見学し、シングルモルトを試飲しましたが、私が愛飲している「山崎」よりもいまいちだったので、購入は見合わせました。好みもあると思いますが、日本のウイスキーの良さを再認識しました。

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12、セントアンドリュース6.JPGその後、ゴルフ発祥の地「セントアンドリュース」へ向かいました(約95km、約90分)。私はゴルフに関心が無いのですが、早稲田カラー(エンジ)のゴルフ帽(中国製とベトナム製があったので後者)を記念に買い、早速、被ってオールドコースを散歩して、記念撮影をしました。

これから散歩の時に被ろうと思います。

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その後、セントアンドリュース大聖堂を見学し、セントアンドリュース大学(最近結婚された英ウイリアム王子御夫妻の母校)の話を聞きながら市内を出て、フォース湾に掛かる、1890年に完成した片持ち梁構造で有名な「フォース鉄道橋」に並行する「道路橋」(1964年完成の吊り橋)を渡り、エデインバラのホテルへ向かいました。(約88km、80分)

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13、エジンバラ3 *.JPG/18(4日目)

9:00に出発し、まず、麓にバスを止め「カールトン・ヒル」に登り、ネルソン記念碑(ナショナルモニュメント)を見て、エデインバラ城、セントジャイルス大聖堂や英国王室がスコットランド訪問時に滞在するホリールード宮殿を見学し、市内を散策しました。午後からは国立美術館で印象派の絵画やスコットランド絵画を鑑賞しました。市内のレストランで昼食、夕食を食べて、エデインバラの動物園の隣にある「ホリデイ・イン」で連泊でした。その後も、ホテルはアメリカ系で、機能的な「ホリデイ・イン」が多く、気楽で良かったです。


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イギリスのツアーに行ってきました -1/4 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                          .by N.Hori

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25、スコットランド・北イングランドa.jpg 6/15~25日まで、10日間でスコットランド、ウエールズ、イングランドを回る、盛り沢山のツアー(中高年者ばかり21名参加、夫婦6組、男性7名、女性14名)に、家内と一緒に参加しました。慌ただしかったですが、イギリスは初めての家内は、仲間にも恵まれて、結構楽しんでいました。私は、何度か、イギリスに行ったことがありますが、仕事がらみで業界の見本市の見学、工場見学、機械システムを納入した日系企業の顧客の工場訪問など、大都会、工業都市の周辺ばかりで、今回のように田舎を全コース、バスで巡ることは初めてで、楽しかったです。以下、取留めのない客観的な報告をします。写真および地図はクリックで拡大します。

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/15(1日目)

成田を午前11時に発ち、約12時間でロンドンに着き、国内線に乗り換え、現地の午後7時ごろにグラスゴーのホテル「シスル・グラスゴウ」へ着きましたが、日本時間ではほとんど20時間以上起きていたことになります。「シスル」とは、スコットランドの国花「あざみ」のことで、スコットランド系のホテルチェーンのようです。

私は、時差の影響もあり、連日、朝早く目が覚めたので、各地で朝食前に散歩をしていました。当たり前ですが、都会地よりも田舎の方が雰囲気は良く、気分も良かったです。

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3、ローモンド湖2 *.JPG1、グラスゴー郊外 *.JPG./16(2日目)

8:30にグラスゴウをバスで出発、まず、ローモンド湖まで(約46km、約45分)行きました。郊外は低い丘陵と草原が2、ローモンド湖1 *.JPG続く風景です。ローモンド湖に限らず、イギリスの湖は、氷河の跡がほとんどで、細長く、深いのが特徴とのことです。標高差が少ない英国では珍しい水力発電所がありました。

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4、グレンコー1 *.JPGここから渓谷に入ると聞いたので、谷が狭くなると思いましたが、私の経験では、阿蘇の外輪山の内側の「草千里」のように広大な谷で、氷河で形成されたようです。グレンコーの集落まで(85km、90分)、バスは谷の底を走るのですが、周囲は標高差5、グレンコー2 *.JPG3、400mぐらいの頂上近くには木の生えていない岩山が続き、麓は草原で羊や牛、馬などが放牧されています。その情景を見て、家内は、「眠れない時に、“羊の数を数える”習慣をやっと納得した」と言っていました。

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6、グレンコー3 *.JPG この風景は、イングランドでも同じですが、山がより低く、頂上までがほとんど草原になるのが違いです。ブリテン島はこのような平地の可住面積が広く、人口密度が低く、田舎ではハイキングや旅行者以外にほとんど人を見かけない、のが日本(人のほとんど住まない山地・森林の比率が約70%で、平地の人口密度が高い)との違いであることを改めて実感しました。

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 そこを抜けて、フォート・ウイリアムスの町に入り(27km、30分)、レストランで「サバの油煮の昼食」を食べました。旅行中、連日、昼食と夕食前に、ハーフパイント(約280cc)グラスに泡無しで一杯(がイギリスの習慣)の地ビールを飲み、バス内では500ccのペットボトルの水を飲んでいました。気温は15~20度Cで、夏の上着を着て丁度良い気温でした。天気は、晴れたり、曇ったり、急に雨が降り出したりのイギリス固有の激しい変化で、バスを降りる時は、いつでも雨具を用意するように注意されました。女性陣は「これでは、洗濯物を干して、外出は出来ないはね」と言っていました。


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高杉晋作言行録(12/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                 By N.Hori

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藩政府は、晋作に新しい職「応接方・越荷方・対馬物産取組」を命じた。いわば、外務省の重職と通産省の重職を兼ねた役目であり、きたるべき対幕戦のための臨戦的な仕事である。

父の小忠太が世子に会った時、元徳は上機嫌で、「晋作が戻ってきて幸いしたな」と言った。父は皮肉を言われたと思い、恐縮したが、後で、政務役首座の山田宇右衛門に会った時、「長州藩に人材が払底している。そこへ幕軍が来る。この幕軍を相手に長州藩をひっさげて戦えるだけの政戦両面の胆略ある総帥は幾人いるか」と問われ、(それが晋作だというのか、藩は何か間違っていないか)と父は解せなかった。

当時、下関に出張している晋作のところに、母の「お道」と妻の「お雅」がやってきて、一緒に住むことになり、晋作は「おうの」のことで困って、詩を作った。

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 細君まさにわが閑居にいたらんとす 妾女の胸間 うれいあまり有り

 是より両花 艶美を争う  主人 手をこまぬいて 意如何

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結局、今まで住んでいた紅屋木助宅に「おうの」を住まわせ、白石正一郎宅に、母と妻と居候することになった。この時期、晋作は下関と長崎を往来して、幕軍襲来に備えるための軍艦買い入れなどに奔走していたが、かれの生涯で唯一の家庭的な日々であった。しかし、白石家の家産も傾き始めていた。

幕軍は、広島に老中の小笠原長行を派遣し、長州藩主、世子などを呼び出す命令を出したが、長州藩は時間稼ぎなどの返事をしたので、晋作は「いよいよ戦争だ」と判断した。談判は決裂し、幕軍も「もはや開戦のみ」と決意した。長州藩の(幕府に先に手を出させることで天下の同情を買おうとした)策に幕府がはまったのである。

この時、新しい駐日英公使バークスが長崎に来て、グラバーから日本の近況(長州が幕府と開戦寸前にあること、薩摩と長州は秘密同盟を結んだこと、長州は英国と友好関係をもとうとしていることなど)を聞き、鹿児島、下関に寄港することになった。晋作は下関に寄港した英艦上でバークスと会った。その時、バークスから「長州は英国を信用するやいなや」と聞かれ、晋作は「信用せず」と答えた。その理由は「過去の四か国艦隊が来襲の時、英国は幕府に、長州をつぶしてしまえ」と献言せしにあらずや」これは晋作の誤解であり、献言したのは仏国だった。

バークスは、晋作の誤解を解くべく、約1時間かけて弁明した。これこそ、晋作が狙ったことであり、英国の姿勢を低くさせるためであった。さらに晋作は「それほど英国が我が長州に同情と誠意をお持ちならば長英会盟の機会を持つべきです」と問うた。バークスは下関に再寄航する時に、藩主が会うことを約束した。結局、第二次征長戦が始まり、再寄航は実現しなかった。

幕府軍が長州に向かって開戦したのは1866年6月7日であった。幕府軍艦1艦が柳井沖の大島を砲撃し、8日にさらに5艦が来て陸兵を上陸させて、大島を占領した。晋作はそれを聞き、直ぐに海陸で共同作戦で占領軍を軍艦で夜襲した。この時代、軍艦の夜襲の考え方はヨーロッパでもなかった。幕府5軍艦は、油断して錨をおろし、火を落とし、眠り込んでいた。晋作が乗った長州の軍艦1隻(丙寅丸)がその中に突入し、各艦の間を機敏に動き回り、至近弾がことごとく命中した。甲板から小銃でも撃ちまくった。晋作は、幕艦の煙突から煙が出始めたのを見て、「もうよかろう」と声をかけ、闇にまぎれて逃げてしまった。幕府艦隊は大島を捨てて、長州海域から東へ去った。陸軍部隊も大島の各地で幕軍を襲い、6月12日に一人残らず駆逐してしまった。

晋作は下関に戻ると、「次は小倉城だ」と宣言した。この頃から、晋作は肩で息をし、呼吸がせわしくなっていた。小倉攻撃は、まず、6月17日、門司沿岸の幕軍砲台を軍艦で砲撃し、それから陸軍部隊を渡海させ、幕軍が渡海のために準備していた和船100艘を焼いた。

7月3日、7月27日の第二次、第三次の九州攻撃にも、晋作は陣頭指揮した。29日になると、小倉にいた小笠原長行が城を抜け出し、軍艦で逃げてしまったので、九州諸藩の藩兵は解散同然になってしまった。晋作は小倉城に上り、「一字三星」の毛利家の旗を掲げた。後始末を前原や山県にまかせ、下関の白石屋敷に戻った。海峡を何度も渡って、幕軍を攻め、攻めるごとに勝ち、勝っては下関に戻り、芸妓をあげて大騒ぎして飲んだが、既に、健康は尋常ではなかった。

7月22日、下関の医者が診察して、「これは労咳(肺結核)ですな」と当時、死の宣告と言っていい診断を下した。この診断は直ぐに伝わり、奇兵隊から大きな鯉が運ばれた。この病気には鯉の生き血を飲む以外に療法が無いと言われていた。

藩では、晋作の病状がおもわしくないことに驚き、その医療については十二分なことをした。

萩の高杉家にも知らされ、まず、父の小忠太が来た。1日遅れて母のお道と妻のお雅も来た。お雅は幼い一人息子の東一も連れてきた。

病床には看病人や見舞客が多く、にぎやかだった。いよいよ死期が迫った時、筆と紙を所望して、そばにいた野村望東尼(福岡の勤王歌人)が筆に墨をふくませて与えると、仰臥したまま、辞世の歌を書いた。「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句が出来たが、下の句が続かない。

晋作の生涯にとって、下の句は不要に違いない。たとえどのように巧みな下の句を付けても蛇足になるに相違なかった。が、歌人の望東尼は、晋作の寿命が尽きようとしているのを見、せっかくの辞世が尻切れとんぼになることをおそれ、「すみなすものは心なりけり」と付けた。

晋作はそれに満足したらしく、「おもしろいのう」と言って目をつぶり、ほどなく息を引き取ったが、ただ、一度唇が動き、「吉田へ」と聞こえた。結局、下関郊外の吉田という場所に葬られた。

晋作の一生は、好きなことを好きなように生きて、燃え尽きた。

                                                                                


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高杉晋作言行録(11/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                        By N.Hori

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その当時、京では、長州の有頂天になった専横に反発して、薩摩と会津が連携して、朝廷を取り込み、「八月十八日の政変」(1863・8)のクーデターを起こし、長州を追い落とした。長州は尊王から一転、朝敵になった。長州派だった七卿が長州に逃げた。

長州藩は挽回を図るべく、世子が豪勇の士・来島又兵衛を連れて上京することになったが、例によって、藩庁の意見が変わり、延期になった。来島は憤慨し「わしは脱藩して浪人になり、遊撃軍を率いて出発する」と言い出した。これに藩庁はうろたえ、「誰か説得にやろう」となり、晋作に、世子の親書を持たせ大任を負わせたのである。晋作は3日間、三田尻に泊まり込んで、来島を説得したが、無駄に終わり、遂に、晋作は「それなら、わしのほうが暴発する」と言って、三田尻から船に乗り、上方へ奔って、脱藩してしまった。晋作は大坂に上陸し、京の長州藩邸に行ったが、人っ気がなくて、桂小五郎、久坂玄瑞などの外交担当者が残留するだけだった。かれらは朝廷や諸藩に対して、長州藩の不人気を解消すべく努力をしていた。

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晋作は直ぐに帰って、来島を説得すべきであったが、動かなかった。その間、島津久光の暗殺計画に関与し、死を覚悟していた時、「直ぐ帰国するように」との藩主から直筆の手紙を受け取ったが、「生きて帰らず、死んで幽鬼になって帰国し、藩公に新お詫び申し上げる」と言って遂に帰らなかった。暗殺の機会がなく、かれは帰藩したが、「脱藩の罪により入牢を申しつける」という意外な藩命が待っており、師の松陰が入っていた野山獄に投ぜられた。獄中「先生を慕うてやうやく野山獄」という句を作って、読書に没頭した。獄中の晋作のところに周布政之輔がやってきた。 

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来島の上洛軍は、京の郊外に着くと、「長州人は行動を起こす前後に理屈付けをする」と言われた通り、朝廷に対して文書で、上洛の理由説明、長州藩の真意についての宣伝の陳情活動を20日間もしている。やがて、洛中の幕府軍(薩摩・会津など)と、蛤御門の戦(1864・7)を演じ、少数で善戦したが壊滅した。彼らを制止しようと最後まで努力した久坂玄瑞も乱戦の中で死ぬ。晋作は獄中にいた時に、友人のほとんどが死んだ。

この戦い以降、幕末を通じて長州と幕府、会津などは思想戦争だと思っていたので、硬直的だったが、薩摩だけは政略だと割り切っていたので、身動きが柔軟で、機敏であった。

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この時、幕府は第一次征長令(1864・7)を出した。26藩からなる征長軍が組織された。これを機に、長州藩は俗論派が勢力を取り戻し、周布も「正義のために藩に迷惑をかけた」と切腹してしまった。長州藩は三家老を切腹させて、恭順の意を示して落着した。

やがて、藩は晋作を獄中から引き出して、外国との和睦交渉は晋作しかできないと、「臨時家老」に仕立てて下関戦争の講和交渉をさせた。この時、イギリスに留学した伊藤と井上の2人は、長州藩の攘夷を聞き、止めさせようと急遽帰国して講話交渉に参加した。

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晋作の機転で、講話は成立し、「我が藩が行った攘夷は朝廷と幕府の命令で行ったのだ」と賠償金の支払いは幕府に振り替えた。

講和を終わると、俗論党、佐幕派がはびこる長州藩では、姦徒と見なされ、命の危険があり、井上聞多が襲われた。晋作は九州へ逃げ、同志を募り、義軍を編成し、それを率いて長州へ上陸し、俗論・佐幕派政府を転覆しようと思っていた。長州藩は長州人によって建て直す以外にない、思った。晋作の亡命は3週間だったが、平尾山荘の野村望東尼に10日間かくまわれた。

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1865年、第二次征長令が発せられた。幕府軍の二大政治勢力は会津藩と薩摩藩であったが、会津藩が強硬で、蛤御門の変で捕虜になった長州藩士を虐殺してしまった。薩摩藩は西郷の「いずれ長州と手を結ばねばならぬ時がくるかもしれない」という政略のもとに長州人捕虜を優遇した。

晋作は下関に戻り、色里に流連け、後に一緒になった「おうの」のところに潜伏していた。

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この時、晋作の味方は白石正一郎だけだったが、白石宅へ西郷が来て、晋作に会わないかと進めたが、「西郷はわしの殿の敵である」と言って、会わなかった。

なかなか、奇兵隊を説得できず、率いて挙兵できなかった。俊輔の力士隊(30人)だけが決起の同志になった。次いで、他藩の脱藩浪士の遊撃隊(50人)が加わり、晋作は「死士80人を得た。一人死を決すれば千人に当たりうるのだ」とクーデター部隊の編制を喜んだ。

元冶元年(1864年)12月15日、長州藩の国境には幕軍がひしめいていた中、クーデター軍は長府の功山寺で、五卿に挨拶して挙兵して、下関に向かったが、挙兵に反対する長府藩に領地を通ることを禁じられた。すると、晋作は、漁船を徴発して海路を使った。16日早朝、真っ直ぐに奉行所に向かい、藩庫から食料と軍資金を奪った。次に向かったのは、三田尻港で藩の3軍艦を奪うことであった。軍艦を使って、海から萩を攻撃しようとした。軍艦は直ぐに下関に回航した。

しかし、対岸の小倉にいる幕軍の動きが気になり、下関を動けなくなった。

下関と三田尻での成功を見て、奇兵隊の諸隊も合流する機運になり、諸隊は、九州に向かう五卿の代表が藩侯へ挨拶するため萩へ向かう護衛として行軍を開始した。萩では、諸隊を撃滅するために、上士を主力とする選峰隊から討伐軍が編成されたが、進発する前に、藩侯の敬親は「人を殺すな」という奇妙な命令を出した。おそらく自分自身の意思で出した唯一の命令だったと思われる。

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諸隊の軍監の山県狂介の計略で藩軍を油断させ、「絵堂」を夜襲し、敗走させ、俗論党政府を藩主に反する謀反人に仕立てて、諸隊を鼓舞した。諸隊は、道が集まり、逆襲に弱い「絵堂」を撤退して「大田」に本営を置き、籠城しようとした。

絵堂の敗戦で萩城下は大騒ぎになった。その最中に、「高杉晋作が軍艦をもって、海から攻めて来るらしい」という風聞が広まった。各地に農民一揆発生の風評も広がり、藩軍は戦力を分散せざるを得なくなり、戦意も喪失し、敗走を続けた。遂に、晋作も下関を離れて、諸隊に加わった。

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山県は、天性慎重すぎる性格で、進撃に自重論を述べたが、晋作は、「兵は勢いである」と一笑に付したが、(皆、疲れていて本心では山県の説になびきたいのだ)と察して、自説を撤回して、「山口へ退こう」と決断を下した。

一方、諸隊の軍艦「癸亥丸」が沖合で空砲を鳴らして威嚇する萩城下では、諸隊に同調する「鎮静会議員」が結成され、200人まで増え、密かに藩主を説く工作が始まり、藩主を説得する役割を松陰の兄の杉民治に決めて、兵乱の終息を言上した。

やがて、藩政府から佐幕派は一掃され、革命は成功した。革命軍の首領である晋作が政府首班となるべきだったが、かれはそれを避け、軍事総奉行も山県に譲り、その後、長州人に伝えられた名言を吐いている。「人間というのは、艱難は共にできる。しかし富貴は共にできない」

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その背景には、成功後の諸隊の兵士の暴状があった。かれは、伊藤を誘って洋行をしたかった。世界を駆け回ってみるべきを見て、それを持ち帰って長州に移植し、長州を列強の仲間に入れることを考えた。それに必要な金を新政権に入った前原一誠と井上聞多に頼んだ。両人は、「外夷事情研究のため横浜(実はヨーロッパ)に差遣する」という辞令を出し、3000両を出すことを承知せざるをえなかった。二人は下関を経由して長崎へ行き、竜馬が造った「亀山社中」に渡航手続きを頼んだが、かれらは「今、洋行はなさらないほうがいい。下関を開港する」ことを説得した。

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2人は下関に戻った時、井上も出張してきて、同意したが、開港への転換を攘夷論が多い藩内に説得することは命がけであった。この情報が藩庁から漏れて、3人は暗殺団に追われることになった。晋作は、「3人、別々の方へ逃げた方がいい」と言って、晋作は、(おうの)を連れて、九州辺りの放蕩息子が芸者と駆け落ちの態を装って、大阪から四国へ、井上は九州へ、伊藤は朝鮮へ逃げることになった。

晋作は、この旅行を「大偵察」だと思っており、「長州は世間に人気があるか、ないか」を感じ取ろうとしていた。幕府を敵とし、朝廷からも朝敵とされ、幕府軍が長州の藩境に迫る時期でも「もし、世間が長州に同情的なら、幕府も怖れるに足らず」と思っていた。

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四国では多度津に上陸し、丸亀の醤油製造業の村岡宗四郎を訪ねて、三日泊まり、学問談義をした。村岡は、幕府が開国した影響で、物価が高騰し、庶民の生活が苦しくなり、大名の財政も苦しくなり、富商からの献金に頼っている。「長州様が出ねば世の中は変わるまい」という者が多うございます」と言った。晋作は、窮地に立つ長州藩の風景がにわかに地平線の向こうまで広がる思いがした。

その後、晋作と(おうの)は、道後温泉で7泊した後、多度津に戻ったが、2人の博徒に出迎えられた。礼儀正しい2人は侠客の日柳燕石の乾分だった。乾分千人と言われる讃岐一帯の博徒を抑える大親分の燕石は、堂々たる学者、詩人でもあり、村岡が紹介してくれた。

燕石は、かれが高杉晋作であることを知っており、「もし高杉先生に万一のことがあれば、長州は滅亡し、この世は闇になります」と言った。

しかし、幕吏が晋作を突き止めて、宴席に踏み込まれたが、燕石の支援で逃げ、下関に戻った。


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高杉晋作言行録(10/12)  [明治維新胎動の地、萩]

                                                                             By N.Hori

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晋作の予想通り、山口の藩庁から、藩主の使いが騎馬で萩に来て、「晋作に対して、かっての脱藩の罪を許し、急ぎ、山口へ来るように」との言葉があった。晋作は、その日、山を降り、山口に向かって出発した。24歳であった。政庁の御前会議で、万策が尽きて、老臣が「晋作を起用いたしましょう」と申し上げた時、藩主父子は「そうせい、そうせい」と声をあげたのである。

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晋作の父の小忠太は、「まったく筋の通らぬことをなさる」と藩のいい加減さに首をかしげた。藩みずからが司法の尊厳を軽んずるものであり、司法を軽んずれば藩主の威信が失われる、が毛利家は元来そういう家なのである。

山口で藩主父子に拝謁した時、元徳が「馬関(下関)が手薄だ。そのほう行ってくれるか」と言った。晋作は「十年の間内外の政治に関係しない、と公言したので、武士として素志をひるがえすようで、それは困ります」とひとまず断った。元徳は「そこを断って」という。このあたりが晋作の呼吸であった。「すでに非常の事態でございます。非常のことを行わねばなりませぬが、私にお任せ願えましょうか」と言った。元徳は「構わぬ」と言った。

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そのあと、山口を馬で出ると、鞭をあげて街道を騎走し、その日のうちに下関に入った。

晋作は、騎走中に(あらたに一軍を起こすしか活路はない)と考えていた。日本中、誰もが考えなかった革命的な案であった。二百数十年、家禄を相続するだけの武士階級は、いざ戦争の時、いかに臆病で弱いものであるかが、馬関戦争で露呈してしまった。勇敢に戦ったのは、他国から来た志士、長州でも足軽以下の者で、上士になるほど命を惜しみ、直ぐに逃げたがった。この状態を沿岸の百姓たちまであざけり、笑った。

とあれば、ここで奇兵を興す以外にない。奇とは正に対する言葉である。藩の正規部隊である八組の存在を認めたうえで、(あらゆる階級から募った)「奇」である。足軽よし、陪臣よし、門番・中間よし、町人よし、百姓よし、という途方もない階級無差別の軍隊で、晋作に言わせれば「みな志を持つ者」になる。封建社会では百姓や町人には大小をさせないし、姓も名乗れない。奇兵構想では、それを一挙に許してしまおうという。この瞬間から封建身分社会が崩れ、明治維新が出発したといってよい。

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(が、金がない)ことに、晋作は頭を悩ました。藩費で賄えば、藩組織に組み込まれてしまい、藩秩序との間に矛盾、摩擦が起こり、上士団が潰してしまうかもしれない。藩の認可は得るが、あくまで私設でなければならない。(誰か富商に一手に金を出させる)ということだった。晋作は、思案は既に決まっており、「小倉屋」という下関の内国貿易商、白石正一郎を考えた。この人物とさほど親しくないが、(親しくないが、いきなり当たれば)と晋作流でやってのけることにした。

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白石家は海峡を通る船に食料や雑貨を売っていたのだろう。いつからか、商船を所有して商いをするようになり、羽振りが良くなった。領主から新田開発を請け負い、大地主になり、交易、醸造などでその富の大きさは大阪辺りの豪商に次ぐばかりになった。正一郎は町人ながら学問好きで、特に平田国学に傾倒した。平田国学は神道信仰と王朝憧憬がその背骨になっている。もし王政が復興されるならば、白石家の家産を傾けても良い」と覚悟していた。幕末、正一郎は、400人ほどの志士たちの面倒を見た。坂本竜馬、西郷隆盛、中岡慎太郎、僧月照、平野國臣などがいる。

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24歳の晋作は、深夜(未明)に白石家を訪れ、51歳の正一郎に面会した。一目見て(この人物は、容易ならぬ)と、百年の知己のようであったという。正一郎の、幕末の英雄豪傑をほとんど知っていた眼識をもっても、晋作をよほどの人物に映ったらしい。この瞬間から正一郎は晋作と心中する勢いになり、現に家産を蕩尽させ、白石家を倒産させてしまい、その後は赤間神宮の宮司として過ごした。が、晋作との行動に関しては、少しも悔いていなかったらしい。元来、奇男子なのであろう。

奇兵隊の人数は毎月増えた。藩主父子も喜び、3か月後に、晋作を「政務役」と「番頭」いう文武の重職につけた。ところが、その4か月後に、この重職を惜しげもなく蹴り、ひとりで脱藩してしまった。


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高杉晋作言行録(9/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                           By N.Hori

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江戸を去った晋作は、道中、折り畳み式の三味線を抱えていた。道中は、旅籠に泊まる度に酒を飲み、酌婦をはべらせ、この三味線をひいて唄をうたった。彼の日常は放蕩に沈面して、一見絶望的な詩人の日常に似ている。なぜか、と晋作自身は知っていて、自分を慰めていた。(歴史が彼の出る舞台の幕をまだ開けていないからである)師の松陰もそのことを指摘していた。「十年ほどは何もするな。十年すれば時勢が君を必要とする。それまでは、両親に孝行をし、藩に対しては忠実な良吏となり、妻子を愛して暮らせ」と言ったが、晋作は、この師の言葉をどうしても守れない。

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京に着いたときは、長州藩の計画で、将軍・家茂が天皇の行幸にお供して上賀茂、下賀茂神社、石清水八幡宮へ参拝する時期にあたっていた。行幸の当日、晋作は山県狂介ら長州の仲間たちと賀茂河原に膝まずいていた。

天皇が通られた時、松陰の教えに従い、ながながと拝礼したが、将軍が来た時、皆が土下座している中で、晋作だけは顔を上げて、「いよう!征夷大将軍」と大声で声をかけた。連れの連中は顔色を失った。徳川300年間、このような無礼の挙動をとった男はなかった。戦略眼のある晋作は、今日は天皇の行幸が主で、将軍すら天皇のお供である以上、それをとがめる機能がないことを知っていた。

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 それやこれやで、幕府は長州藩を目の敵にし始め、この後、宮廷工作をして、長州藩の戦略を封じてしまおうとした。それに薩摩藩が同調した。政局は複雑になった。

京で、長州藩が没落(禁門の政変)まで数か月前の羽振りの良い時に、「いっそ、将軍

暗殺してしまおう」と不意に発案したのは晋作である。長州藩を幕府との戦争に巻き込もうと思ってのことである。この計画はわずかなしくじりのために中止せざるを得なくなり、晋作は当分やることがなくなった。無断で、剃髪し、法名を「東行」と名乗った。西行をもじってつけたものらしい。

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当時、武士は藩士としての権利も義務も放棄することになり、藩の許しが無ければ僧になることは出来なかったが、晋作は、たまたま、京にいた周布に会って、「十年の賜暇をもらいたい」と頼んだ。「10年、藩からも、革命からも離れたい。世を捨て、ほうぼうをほっつき歩きたい」と言った。

 周布は、これを制止すべきだったが、もう頭を丸めた男を制止しても無駄であった。「分かった。十年の賜暇、ちゃんとお許しが出るよう、おれがやっておく」と言わざるを得なかった。

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 晋作は萩に帰り、父の小忠太に帰国の挨拶をし、「10年、鳴かず飛ばずで身を慎もうと思います。山に籠りたいと思います」と言った。一人息子に十年も山に籠られてはたまらない。

 「在家僧もいるぞ。第一、お雅が可哀そうだとは思わぬか」といろいろ訓戒したが、晋作は時々、うなずき、おとなしく聞いている。やがて、小忠太の方がくたびれた。

 お雅にも会って、「世間には、美しいおんながいる。しかし、いよいよわが故山(故郷の山・お雅のこと)の美しさを想うた」」と言った。(この人は私をほめているのだ)とお雅は気付いた。

 「ところが、むごいことだ。今からわしは出かけねばならぬ。出家したので、松本村の団子岩の辺りに庵を用意している。そこへ行く」と言ったので、家中は大騒ぎになった。 晋作が従僕に言いつけた本を、小忠太はお雅に届けさせたが、俄坊主は「毒だなあ」と18歳の美しい妻に言った。小忠太は、「三日に一度は訪ねてやりなさい」と言ったが、やがて、お雅は、毒の意味を了解し、これほど恥ずかしいことはなく、行くのを止めてしまった。そうなると、晋作のほうが、気になってきたが、自分に対して滑稽なほど古典的な出家の戒律を強いようとした。

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 ところが、晋作が山に籠って二か月後に、お雅が山の庵に行かねばならぬことが起こった。長州藩が下関で、外国商船を沿岸砲で砲撃したのである。

京で、長州藩が熱狂的な攘夷世論をかきたて、朝廷は、幕府に攘夷を実行する日限を迫る勅命を出した。幕府が、これに応えねば勅命に反する朝敵に追い込んだのである。薩摩藩などは、本気にしなかったが、長州藩だけは、本気で攘夷を決行した。(1863・5)

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長州藩は攘夷戦を行う一方で、後に「長州5(ファイブ)」と呼ばれた若い藩士を極秘裏にイギリスに留学させた(1863・5)、計画したのは周布だった。伊藤博文(初代首相)、井上聞多(大蔵大臣など)、山尾庸三(工学寮・後の東大工学部の創設、日本の工学の父)、遠藤謹介(造幣局長)、野村弥吉(後の井上勝・日本の鉄道の父)の5人である。

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 アメリカ商船は、すぐに横浜の米国公使を通じて、幕府に抗議し、高額の損害賠償を要求した。  幕府は驚き、「冗談ではない。長州が勝手にやったことをなぜ公儀(幕府)が尻拭いせねばならぬ」と言ったが、そうもいかないのが、この幕藩体制というものの奇妙さがあった。

 長州藩は藩ぐるみで発狂して、砲台を作った恩人で、砲撃の無謀を指摘した中島名左衛門を殺してしまった。攘夷屋であるはずの晋作も、攘夷戦争に出てゆく気にもしなかった。晋作は、中島と同じく、夷人どもが反撃してきたら、長州武士が刀槍を振るっても敵うものでなく、藩は必ず亡びる確信があった。すべてを失った時、藩主以下の人々は、狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それにすがろうとするに違いない。(事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)と思っていた。

 報復は英・仏・米・蘭の四国連合艦隊で行われた。(1864・6)まず、米艦が長州の軍艦を3艦沈めた。次いで、仏軍は、陸戦隊を上陸させ、砲台を占領し、砲16門を沈め、のち引き上げた。これらの砲は、現在、パリーの公園に展示されている。


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高杉晋作言行録(8/12)    By N.Hori [明治維新胎動の地、萩]

                                                                                 .by N.Hori 

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同じ志士的活動家でも、薩摩や土佐は、僻遠の風土によるものか、戦国武士の古格なにおいを持った者が多いが、長州は、書生のにおいが濃く、書生が藩を動かそうとしていた。

晋作は、上海から帰って早々、日本革命の大戦略を立てた。その基本には、「長州藩は滅んでも良い」という覚悟が横たわっており、むしろ、長州一藩を滅ぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが、ひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作が思った通りに進行し、やがて覚悟の自滅寸前の現象が起こり、ほどなく維新が成立した。この進行を長州嫌いの薩摩人は「あれは御一新を拾ったようなものだ。」と言った。

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しかし、晋作の側から言えば、戦略通りだった。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは高杉晋作以外にない。晋作が常人と大違いなところは、上海で西洋文明の壮観を見て、型通りに開国主義者にならなかったところであった。かれは元来技術や機械に魅力を感じるタイプの人間で、その意味から言っても西洋好きにならざるをえない。が、かれはそういう自分をわざと捻じ曲げ、痛酷なばかりの偽装をし、「常識論はならぬ。一にも攘夷、二にも攘夷でゆかなくちゃならん。攘夷は叡慮(天皇の考え)である、勤王とは叡慮に殉ずることだ」と上海行き以前よりももっと激しい攘夷家になり、同志たちに説いた。かれは上海を見た時、西洋に攘夷をやれば、(ああ、日本は百戦百敗する。日本を不敗の国たらしめるには大いに開国し、貿易し、西洋技術を導入し、それらによって日本の体質を一変させなければならないが、それを幕府の手でやれば、私権にすぎない徳川家が肥大するばかりで何もならない)と思った。

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上海での晋作は(日本に、抽象的権威としている天皇家を中心とした公的政府、統一国家をつくり、その上で開国だ)と考えた。この思想はもともと松陰から出ており、晋作はその理論の正しさを実感し、改めて師のえらさが分かった。そうして、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」の行動家になった。江戸に戻ると、誰にも言わず、藩邸を逐電、脱藩してしまって、横浜のアメリカ公使を襲う計画を立てたが、他藩人から事前に漏れて、失敗した。以後、日本革命における長州ナショナリズムを高唱し、他藩人との連携を嫌うようになる。

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次の攘夷計画は、品川御殿山のイギリス公使館の焼き打ちであった。晋作が大将、久坂が副将で実行し、これは成功した。晋作は、いつの戦の時も、まず味方の活路をつくり、さらに敵の逃げ道も開いておくのが常であって、「高杉の戦略家としての偉さはそこだ」と土佐の田中光顕は褒めた。

この事件を探索した幕府は「どうやら長州者にしわざらしい」という推測はついたが、断固たる態度にでて、長州を敵に回すことは得策でない、という政治的判断で手控えた。断固とした処置をしていたら、長州藩は危なかったにちがいない。

「維新成業の源は、実にこの時から始まる」と後に、山田顕義(日本大学創設者)は語っている。

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この時、事件の実行者は、江戸から逃れたが、晋作は残り、翌年正月に、「松陰先生の御遺骨を改葬し、あわせて年忌を執り行う。それも白昼、江戸のど真ん中を練って執り行いたい。ひょっとすると一命を落とすかもしれんが、覚悟してもらいたい」と宣言し、伊藤俊輔、山尾庸三、堀真五郎、白井小助を仲間にした。

文久3年正月5日の朝、晋作は騎馬姿で桜田藩邸を出門した。定紋入りの陣笠をかぶり、白緒であごを引き締め、しかも陣羽織を着用する戦装束をし、」大身の皆朱槍を藩邸の中間に持たせている。晋作にすれば、松陰の改葬をもし幕吏がさえぎれば、一議もなく、これで突き伏せるつもりであった。従う4人は笠、裃をつけての喪服姿である。それに人夫6人をしたがえていた。人夫は大甕3つ、それに鍬などを担いでいる。小塚原に着いたが、正月のために番人がいない。

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晋作は「今日は掘り放題だ」とはしゃぎ、この際、師匠の松陰の遺骨だけでなく、頼三樹三郎、小林民部など松陰とともに処刑された人々の遺骨も掘り出し、松陰とともどもに改葬するつもりだった。やがて、遺骨を3つの大甕に収めると、この異風の行列は伊藤俊輔を先頭に、埋葬地の世田谷若林の毛利家の別荘地(現松陰神社)を目指して出発した。途中、上野・山下の盛り場にさしかかった時、正月で雑踏していた人々は、皆どよめいて、道をあけた。その見物人の頭上を、晋作はたかだかと馬上で進んだ。前方は徳川家代々の廟所のある寛永寺である。その手前に俗に三枚橋と言われる3つの橋が架かっており、中央が、御成橋という神聖橋で、将軍が寛永寺に参拝する時に限り使用される。これを望み、晋作は、馬上、葬列に向かって「真ん中を渡れ」と叱咤したので、6人の甕担ぎの人夫が仰天したが、晋作は聞かず、馬を進めて先頭に行き、「渡れと言ったら渡れ」と言いつつ、橋板を馬蹄にかけた。番士は正月のため一人しかいない。それが躍り出て来て馬上の晋作に向かって、「御留橋を知らぬか」とわめいた。晋作が、槍を受け取り、小脇に抱えながら「どけ!」と一喝したので、番士がひるんだが、「勤王の志士松陰吉田寅次郎の殉国の霊がまかり通るのだ」と言った。見物衆が群がってきた。それが数百人になった頃をみはからい、晋作は「橋番、下がれ勅命である」と言った。番士は職務に忠実な男で、追いすがってきて、名を名乗れ、とわめいた。晋作は馬上振り返りざま「長州浪人高杉晋作」と言った。

この御成橋騒ぎも、直ぐに幕閣に届いた。老中は「また長州か」と言ったが、この件も幕府は不問に付し、長州藩に苦情すら言ってこなかった。もっとも、幕府は、後に晋作が葬った墓も建物を砕く復讐をした。

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晋作が、「長州」を公然と発したのは、長州藩を幕府の敵の立場に追い込み、藩論を統一し、対幕戦争を起こす運命に追いやるためであった。晋作の戦略的計算では、対幕戦争が起これば長州が勝つという確信があった。

この事件の報せが国許に届いた。藩主父子は驚き、これ以上晋作を江戸に捨て置けばなにを仕出かすか分からないと思って連れ戻すことにした。藩主の直命なら、晋作はおとなしく従うことを若殿は知っていた。

江戸を離れ、箱根の関所を通るとき、晋作はまた、宿駕籠で乗打ちをするという未曾有の事件を起こした。関所役人が騒ぎ、わめきつつ取り押さえようとしたが、晋作は走る駕籠の中で太刀の鯉口を切り、大声で「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法を構えて人の往来を制する無法があってよいか」と雲助を励まし、遂に関所破りをしてしまった。江戸300年の間、白昼公然と関所を破ったのは初めてだった。これらの事件は事実ではなかった、という説もある。


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高杉晋作言行録(7/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                            By N.Hori

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ところが晋作が江戸に来て、久坂らに教えられたことは、時勢の雲行きが長井ひとりのわずか数か月の活躍だけで、何もかも一変してしまっていることであった。

久坂玄瑞を理論的指導者とした、伊藤俊輔など7,8人の松陰社中の書生たちが藩邸で集まって、「斬る以外にない」と激昂していた。晋作も加わっていたが、いかにも良家の子らしく、シャンと背骨を立てて座っているが、あまりものを言わない。かれは久坂のように物事をちゃんと論理に仕上げてそれを整然としゃべることは苦手であった。

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「高杉君、きみはどうだ」と久坂は晋作の発言を求めた。晋作は、無表情のまま、「斬ればいいのじゃないか」とあっさりと言った。この瞬間、晋作は死を覚悟した。藩の重役である長井を斬れば、そのあと死罪はまぬかれない。父の小忠太は泣くだろう。しかし、師の松陰が「どんな小さな行動を起こすにしても、死を決意して始めねばならない」と言った言葉が晋作の青春のありかたを決定づけていた。「すると、やはり斬るべきか」と久坂が、自分の議論の正しさの承認を求めたので、晋作はそれがおかしく、声を立てて笑った後、「君の議論によると斬るべきだから、わしは斬る、と言ったのだ。あす、斬るか」と言った。「いや、待て。物には準備がいる。準備に数日かかる」と久坂は急に慎重になった。斬る行為を内外に大宣伝をしてからやるのが長州人の癖であり、松陰もそうだったが、久坂もその癖が強い。晋作にはそういうところが全くない。

「周布さん(政務役のひとりで、若い者の理解者だった)が江戸に来ている。あらかじめ、周布さんに対面し、議論を尽くしてから、しかる後に長井を斬る」と久坂は言って、翌日、久坂と晋作は周布政之助に会いに行った。「長州は自重々々とおっしゃっているあいだに、水戸と薩摩が時勢に先じて参りましたぞ。長州武士が他藩に遅れをとってよいものでしょうか」とやり始めた。

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周布は大いにうなづき、「同感じゃ。しかし、わしを責めてもどうにもならん。藩というこの重い車は、1人や二人が目覚めたところで軽々とはうごかぬ。久坂よ。わしは志はお前たちと同じだが、しかし、わしには幾つもの顔があって、藩政の担当者としての顔もあれば、殿様にお会いする時の顔もある。それに幕府お大事を考えている藩内の守旧派というものを抑えねばならぬ時の顔もある。物事はそう短兵急にはゆかんのじゃ」

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 「しかし、それにしても、長井殿の航海遠略策、ありゃなんでございます」。周布としては、政務役の一人としてこの策を弁護しなければならない。

 「久坂、攘夷々々というが、攘夷はあくまで日本人の正気(国民的元氣)として尊んでゆかねばならんが、日本国の大計はそれだけでは立たんことはお前も知っちょろうが」

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 「されば、周布先生も長井殿と同じく開国貿易論でございますか。開国して貿易するなど、結果は亡国の道でございますぞ」と久坂は声を励ましていうが、この貿易亡国論は、久坂だけでなく、幕末まで過激攘夷派が信じ続けた経済論であった。

         日本には売る物産が無いために、買う一方になる結果、日本の金が流出し、物価は上がり、遂に貿易によって日本は滅亡に至るという論理。したがって、まず、売る物産をつくり、その貿易を防衛するだけの武力を作るまでは鎖国をするべき、と主張した。この論理は経済の通念から言えば、空論にすぎず、久坂はそれに気づいていたが、攘夷論を唱えなければ、根底が崩れてしまう。

周布は、久坂の論理を論破し、黙らせた。晋作は、横で聞いていて、(負けやがった)と少し可笑しくなった。しかし、その後、久坂の反撃が始まった。

久坂は、「国家の大計はその通りです。しかし、「航海遠略策」の国家の大計は徳川幕府のもとではできません」と言った。「貿易々々と申されるが、その貿易利潤はすべて幕府が扱う。諸藩にはいっさい参加させない。この経済論は、倒幕、革命論と組み合わせれば、合理的な政策論となる。

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この時期、倒幕運動は、まだ表面に出ていないが、既に、久坂、晋作などは、すでに合理的な政策論を成長させていた。「幕府に攘夷を迫り、幕府を窮地に陥れ、やがて、それをテコにして幕府を倒します」。

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毛利家は、大内、尼子という天下の名家とされる大名を倒して中国を制覇したが、戦国大名には珍しく家系が明瞭で、平城天皇の親王より出て、源頼朝を助けた大江弘元の子孫が安芸に下って吉田の地頭職になった大江氏が先祖で、毛利元成は田舎大名ながら,朝臣を称していた。そのため、長州藩士が藩主を気取って言うときは「江家(ごうけ)」と呼んでいた。松陰は「江家は代々勤王のお家」と盛んに言っていたが、儀礼的なものを革命思想にまで大転換させ、「毛利家は幕府の大名でなく、天皇の直臣である」とさえ言い出した。

しかし、この攘夷・革命(倒幕)論は、松陰も言っておらず、久坂ら松下村塾系の書生が初めて考えた。結局、明治維新を起こす独自の方式は、こういうものであった。

周布は、久坂らが、「航海遠略策」に反対する理由がやっと分かったが、周布は藩主から「長井雅楽の対幕閣入説を援助せよ」と命ぜられているから、久坂の意見に同調するわけにもいかず、

「久坂、今の言葉、聞かなかったことにする」と小声で言って、態度をあいまいにした。

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 長井は自分の藩の過激派書生である攘夷派テロリストに追い掛け回されることになった。

坂本竜馬は、「航海遠略策」とほぼ同じ意見の持ち主であったが、時勢の魔術性を天性知っていたらしく、ギリギリまでこの意見を露わにしなかった。

西郷隆盛までが、「航海遠略策」にひそかに賛同しつつも、気分としては単純攘夷家の壮気をこよなく愛し、かれらの狂気とエネルギーをもって時勢回転の原動力にしようと思っていた。

そうして、「長井雅楽と申すは大奸物、討たなければならない。手荒いようだが、これは仕方のないことである。すでに長州の連中にかれを討つべきだと談じ入れている」と言っていることに、後世からみれば目を瞠らざるをえない。

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翌日、晋作たちの密談の場に、桂小五郎が忍び込み、長井暗殺の謀議を聞き、周布に報告し、「なんとか止めることを相談した。結論は「高杉を仲間から外せば、他の連中は止めるだろう」ということで、高杉を上海へ洋行させることにした。晋作は「長井ごときを殺すよりも上海を見て日本百年の計を立てるほうがはるかに大事でしょう」と言って止めることを約束した。

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 文久2年(1862)の4月、22歳の時、高杉晋作は上海へ洋行した。7世紀初期の遣隋使以来、日本ほど洋行が重大な意味を持った国、民族は、おそらく地球上で他にない

日本は自然環境として閉鎖社会をかたちづくっており、単一民族で言語や生活様式を異にして、強烈な好奇心を民族的特徴としているために、海外になにか珍奇なものや自国にはない巨大な真理があると思い続けて、何かの機会に洋行し、現実に自国とは違った文明に接した時に衝撃を受け、自己嫌悪か、自己肯定か、さらには相手文明に礼賛か、恐怖をもって接し、自分流に取り込んだ。

 晋作は長崎へ行き、出港を待つ間、公費で若い芸妓を落籍し、女中代わりをさせ、出発時にもとの抱え主に売り戻したので、遊興代は要らず、女中を雇うことも要らず、ただで遊んでいた。          

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幕府は、時代認識、目的意識が乏しく、派遣者は無能者ばかりだったが、諸藩は佐賀の中牟田倉之助、薩摩の五代才助(友厚)など秀才ぞろいで、晋作と一緒に歩き回り、調べ、語り合い、成果を維新後にも活かしている。

 晋作らは2か月上海にいた。晋作は、上海滞在中の観察を文章にしているが、科学性に富み、冷静に西洋文明を理解しようとしている。さらに、西洋に接したかれの感情的反応は、日本人の伝統的な類型である自己嫌悪でも、礼賛でも、恐怖でもなく、憤激であった。

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(シナは滅んだも同然だ)ということを、晋作は上海に来て初めて知った。シナ人と知り合うたびに、筆談で「なぜお前達は白人と戦わぬのか」と怒りをこめて書いた。

 そのくせ、晋作にとって、西洋文明は不愉快ではなかったらしい。かれは、黄浦江の船上から上海の都市景観を見た時、肝をつぶしたが、その驚きはすぐに消え、正体はなんだろうと考えた。

かれは軍艦教授所時代に蒸気汽缶や蒸気機関の原理を理解していたので、その頭で上海を見た時、西洋文明の正体というのは道具である、と思った。道具をふんだんに作り出して、それをいろいろ組み合わせて巨力を生み出すというだけのことだと見抜いた。さらに、「数学こそ、西洋文明のタネの一つにちがいない」と思い、漢訳の「数学書」、科学技術についての幾冊かの英書も買い入れた。英書は、中牟田が読めて、翻訳してもらった。五代の関心は経済で、貿易実務などを調べた。不思議なことに、中牟田よりもヨーロッパ情勢に通じていた。

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 3人は、外国領事館や商館を訪ね、彼らの談話を精力的に聞いて回った。どこでも3人は歓待された。どの外国人も大名と直に通商して大いに儲けたいという様子だった。そのような外国人の対日観で上海から眺めると、晋作は(幕府などは,屁のようなものかもしれん)という実感が強くなった。幕府などは単に最大の大名にすぎず、その兵は弱兵ぞろいで、2つ3つの大名が集まって押し倒せば、朽木のように倒せることを実感でおもった。晋作の洋行は、そういう意味で奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。

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 中牟田が「どうだ。やはり攘夷でゆくかね」と言った時、晋作は「攘夷、あくまで攘夷だ」と答えたのは、攘夷という狂気をもって、国民的元氣を盛り上げ、沸騰させ、それおもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。上海を見れば開国は常識である。しかし、常識からは革命の異常エネルギーは起こってこないのである。

 晋作がおもうに、日本を西洋化しなければならない。とくに軍事と産業はそいつに限る。

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 帰国後、晋作は、当時の日本でもっとも過激な直接攘夷活動(外国人を斬ったり、領事館を焼き打ちして戦争になるか、幕府の財布が空っぽになるほどの賠償金を支払わされるか)に入るのである。


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高杉晋作言行録(6/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                       By N.Hori

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当時の長州藩の藩主・毛利敬親(たかちか)は、改革派(正義党)からも守旧派(俗論党)からのどちらの意見に対しても「ああ、そうせい」と許可を与え、「そうせい候」と陰口をたたかれ、世の志士たちからは賢候とは評価されなかった。しかし、司馬遼太郎は「敬親に世界観がなかった、といえば酷だろう。かれは独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それに生まれつきおそろしく寛大であった。ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と評したが、そのため、藩庁の幹部が正義党、俗論党と交替する度に方針が変わり、藩士は戸惑い、迷惑したと思う。しかし、「そうせねば、敬親候は明治までとても生きながらえることが出来ず、どちらかの派から毒殺されていただろう」と維新後に言われた。

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無定見な「そうせい」は彼自身の生命を救っただけでなく、長州藩の政治活動が、藩主という抑制装置が無いため大いに活発になり、結果として、瀬戸内の干拓によるコメの増産、塩、紙、,蝋、石炭の生産に力を入れ、さらに下関港を北前(日本海)貿易の基地としての収入で、藩の経済的実力を「実力百万石」と言われるまで拡充し、明治維新を成功させたのは功績です。

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ちなみに、世子の元徳も、若いながらほぼ養父と同じ行き方をとった。

江戸中期以降、どの藩でも、予想以上に人材登用が進み、藩の内閣の実務は、下から抜擢した複数の仕置(しおき)家老が担当し、家代々の門閥家老は実務についていないことが多い。仕置家老の呼びかたは藩によって変わり、長州では「政務役」といったが、薩摩では「側役(そばやく)」土佐では「執政」、「参政」と呼んだ。

当時、日本の国際法上の皇帝は徳川将軍であったが、徳川家は天皇から政治外交を委託されているのであり、日本国の元首はあくまで天皇である、という新しい解釈と思想が流行した。これを考え、唱えたのは水戸学の学者であり、吉田松陰であった。

そうして、天皇と公卿団(朝廷)が時勢の中に登場し、「攘夷鎖国」を掲げた。世論と志士たちもそれに共鳴した。それに対して、幕府の方針は「開国・貿易」であった。当時、長州の藩主・敬親は、時勢を収拾し、朝廷と幕府を一つに包み込んで国家の針路を決定する大政策を長州藩から出したいと思って意見を求めた。

政務役・長井雅楽(うた)ならば妙案があろうと誰もが持った期待だった。彼はひとつだけこの難局を打開する方法があるが、今は言う時期ではない、と思っていた。

「今は、長州藩のみならず、天下に滔々として攘夷論がうずまいております。かれらは、攘夷さえ決行すれば国は救われるという妄想をもち、かつ己の議論を正義となし、おのれの議論とことなる議論を俗論となし、異論の士を斬るかしりぞけることをもって快となし、右のような気分が潮のように高まってきております。一犬虚に吠えて万犬実に鳴くと申しまするが、万犬が虚吠している時期には正しきことを申しても世人は耳をかたむけず、血気奔走の徒をいたずらに刺激するのみで、何の効果もございませぬ。のちのち、時運をよく見、この案を打ち出すときを選んで打ち出す方が良いかと存じまする」と一旦断ったが、敬親は、それを文書にして差し出せ、と命じた。

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それが「航海遠略策」と題された論文だった。その中で、「だいたい鎖国というのは、古来の方針ではなく、三代将軍家光のとき幕府が島原の乱に懲りて国を閉じてしまったものである。孝明帝でさえ、鎖国は天照大神以来の祖法であると信じ、開国しては皇祖皇宗に申し訳ない」とのみ言われ続けていたし、まして志士たちは、鎖国は僅々2世紀前の法で、しかも幕府体制を維持するためにやったことを知らない。天下の大錯覚を指摘したのは、長井雅楽が最初である。

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要するに、長井の結論は、「日本はこの機会に開国し、積極的勇気をもって攻勢に出、艦船をふやし、五大州に航海し、貿易し、それによって五大州を日本の威に服さしめ、括夷(かつい・西洋人)をして貢物を日本にもって来ねば相赦さぬというところまでの大方針を日本としては只今きめるべきである」というものである。

これを一読した敬親は、感嘆し、この案を諸重役に下付して練らしたところ、口々にこれ以外に日本の針路はないと賛同したため、敬親は、長井を呼び、「これをもって長州藩の藩論とする。そちはさっそく京に上り、江戸に下り、発砲奔走して朝廷と公儀(幕府)の紛糾を一つにまとめよ」と命じた。

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長井は断ったが、許されず、結局、長井は京に上り、江戸にも下った。幕府も大いにこれを喜び、朝廷も感じ入り、孝明帝もこれを読み、「はじめて迷雲が晴れた思いがする」と言われた。

この時期、長州藩の公式代表である長井雅楽の意見ほど、正論はなかったであろう。開国か鎖国攘夷かの両論で混乱しきっている時勢に対してこれほど卓越した鎮静剤はなかった。さらにこの策は、日本の将来を展望して、それをバラ色に予想して見せた。しかし、志士たちは不満であった。


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高杉晋作言行録(5/12)  [明治維新胎動の地、萩]

                                   By N.Hori

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「高杉のお坊っちゃまが旅からお帰りなされた。まるで桃太郎のように肩を怒らせて」と、高杉家の近所の人たちは、まるで、子供をことのように話した。晋作は横丁などで他家の奉公人に出逢っても必ず「やあ」と声をかけた。優しくて、あどけなくて、であるのに何をしでかすのかわからないという危なかっしさが、人々に不思議な愛情を感じさせた。

かれは、藩許による諸国漫遊から戻ると、船乗りのしごとを免ぜられて「明倫館舎長」という職務を命ぜられた。藩命によって学生どもの面倒をみる、書生大将のようなものであり、この藩の青年にとって、これほどうらやましい地位はない。そのひと月後に都議に進んだ。藩庁は、かれをまるで寵児のようにあつかい、人事はつねに寛容と好意にあふれていた。晋作の生い立ちには苦労というものがまったくなく、逆に甘やかされて育ち、その甘やかされたままの環境と資質を藩が受け入れ、ゆくゆくは藩の職制の中に組み入れようとしているのである。

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「高杉の坊ちゃんが、世子(次代の藩主)のお小姓役に抜きんでられた」という驚くべき消息が城下に広まったのは、旅から帰って4か月後であった。かれはこの藩の執政(内閣)になるかもしれない運命を上り始めたといってよい。

かれが仕えなければならない世子・毛利元徳(もとのり)は藩主の実子でなく、支藩の徳山毛利家から養子として入った人で、年齢は晋作と同年である。いかにも大大名の若殿らしい青年で、晋作が御殿のぬれ縁に平伏してお目見得した時、「ああ、小忠太の倅か」とのどかに応えてくれた。

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また、予定外のご下問があり、「そちはこの世の中でなにが一番好きだ」と聞かれた。介添え役の小姓頭から督促され、ついに、「おんなが好きでございます」と答えてしまい、小姓頭を慌てさせた。これに対して意外にも「おなごとは、宿の妻のことか、それとも晋作には妾があるのか」といかにも大名らしい鷹揚な質問をした。晋作は、好きな女とは、妻や妾のことではなく、色里の女性だと思っていたので、それを言うと、世子は、ホウ、ホウとつづけさまに声を上げ、「しかし、余はそれらの婦人を見たこともない」と言った。

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これが、初のお目見得の極めて異例で率直な問答だった。このことはその日のうちに、父の小忠太の耳に入ったが、帰宅した時に何も言わなかった。

お見得の時、晋作は胴がふるえるという体験をはじめて持った。かれは上士高杉家の子であり、藩主父子に対する個人的な忠誠心が異常に強く、藩主父子を守るのは自分以外にない、という意識が強かったからだろう。

その点で、同じ松下村塾派である、山県や伊藤といった足軽以下の出身の者にとって、藩主は雲の上の人であり、個人的忠誠心などは全くなく、長州藩も藩と言う法人にすぎなかった。

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かれは世子の小姓を命ぜられてからわずか4か月にしかならないのに、また人事が変わり「お番手して江戸に発つように」という藩命が下ったのである。江戸にやることは父の小忠太にとって鬼門であったが、江戸詰めのお番手とは、ペリー来航幕府は諸藩に命じて江戸湾の警備を分担させる警備要員である。武士が軍事で駆り出される以上、小忠太にもどうすることもできない。

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当時、江戸桜田門の長州屋敷は攘夷論の過激書生の巣窟であった。その兄貴株が桂小五郎、久坂玄瑞であり、使い走りの連中が井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、入江九一、楢橋弥八郎などであった。ほかに尾寺新之丞、作間忠三郎、中谷正亮といった旧松下村塾系の連中がひしめいており、口を開けば攘夷々々と叫び、「夷荻(外国人)斬るべし」といういわば政治的非合理主義を高唱し、長州藩はそれまでの水戸藩に代って攘夷論の(おろし問屋)となっていた。その書生連中の弱みは総大将がいないことであった。

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「高杉がいたら」という願望と期待をこの連中が等しく思うて、晋作を御番手として江戸へ呼ぶ人事を藩庁に画策した。晋作はそういういきさつは知らなかったが、江戸の政状は同志からの手紙で知っており、この江戸行きの人事が発令された時、(これでおれの一生はきまった)と思った。高杉晋作という人物が歴史に登場するのはこの時期からである。


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高杉晋作言行録(4/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                          By N.Hori

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結婚して1か月後に、晋作は、突然「お雅、わしは船乗りになる」と言い出した。お雅は驚いたが、しかし、この亭主は実家の兄とはひどく違う男であることに気付いていた。なにか巨大な不満か願望があるらしく、絶えずいらだっている。

 そのくせ、晋作はまぎれもない天才なのである。それは自身もうすうす気づいている。しかし、なんの天才なのか、となると見当もつかない。長州藩は、丙辰丸という西洋式の3本マストの小さい木造帆船をつくり、軍艦教授所という教育施設までつくった。晋作は軍艦教授所に入ることを父に相談したが、父は「それは近頃面白い思案ではあるまいか」と賛同してくれたのである。

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 父は「過激な反幕活動に入るよりも西洋式の航海術でも学んでくれる方がよほど良い」と思った。

そのように、晋作は軍艦教授所へ通い始めたが、器具を使った技術習得とかオランダ語の号令を覚えることには退屈した。江戸に向けて、出港したが、江戸まで2か月を要した。この時の船酔いで晋作は数日廃人のようになり、もう船乗りを止めることに決めて、品川で下りると、色里へ向かい、3日流連けた。

江戸の藩邸では、久坂が待っていた。藩邸で西洋式帆船に乗った者はいなかったので、口々に「どうじゃったかいのう」という同じ質問が出たが、(船乗りにすらなれないのか)と自尊心を傷いた晋作はわざと木で鼻をくくったような調子で、見おろしてやった。

晋作は藩邸の当役に「しばらく江戸に滞留して撃剣と詩文をやらせていただきたい」と言った。

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晋作は高級職の家なので、気ままを聞いてくれた。ところが、父から急使が来て、帰国の命令だった。せめて、回り道の帰国を頼み、東北、信州、北陸を回ることが許可された。晋作は自分のこの旅行を「試撃行」と名付けている。行く先々で剣術の武者修行をして歩いたのである。信州の松代藩では松陰の師・佐久間象山を訪ねた。当時、象山は幕命で閉門の刑に服しており、門には青竹が組まれていたが、くぐり戸から入り、堂々と玄関に立ち、「毛利家家来高杉晋作、象山先生に面ごを得たく、はるばる江戸よりまかり越しました。吉田寅次郎門人と申せばおわかりのはずであります」とたかだかと名乗りをあげた。むろん、断られた。この時、松陰の紹介状を差し出したが、すでに松陰は亡く、死者の紹介状であった。

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しかし、宿に戻り、亭主の長崎屋新三郎に相談したら、新三郎は、晋作に好意を持ったらしく、一つの方法を教えてくれた。それは、御城下の武具屋・山口屋甚左衛門に相談して、病人になり、蘭方医である象山に診察を依頼することであり、深夜であればという黙許がおりた。

深夜、対面すると、剛腹な象山が、松陰がしのばれたらしく、両眼にキラキラと涙を光らせ、夜半から明け方まで5時間ばかり、晋作のために、国事を論じてくれた。象山は「救国の一事は開国よ」としばしば言ったので、この頃、攘夷鎖国主義にこりかたまっていた晋作にとって不満で、いちいち抗弁した。「無知もええかげんにせい」と象山もしまいに腹を立て、傲然と言った。「そこもとばかに若いが、おいくつに相成る」。晋作は22歳の旨をいうと、象山は顔だけで笑い「わしは15歳にして一藩に鳴り、20歳にして一国はむろんのこと、隣国にまでその名を知られ、今は全国にこの佐久間という名がとどろいている。ところがそこもとたるや、22歳にもなってまだ名の知れることにない一書生ではないか」と言った。

これには晋作もむかむかしたが、何も抗弁せず、黙っていた。やがて辞し、星空の下に出た時、路上でこうもりのように飛び上がり「象山先生の大ぼら吹き」と声の限りに叫んで駆けだした。象山の耳に、むろん届いただろう。


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高杉晋作言行録(3/12)  [明治維新胎動の地、萩]

                                                                         By N.Hori

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「あの子だけが不安である」という気持ちが萩の高杉家の人々の日常を支配している。「いっそ、江戸から呼び返そう」と父の小忠太が言い出した。小忠太は松陰と晋作が深い師弟関係になっているとまでは知らなかったが、松陰が、晋作と言う可燃性の高い性格に火をつけるのではあるまいかと、匂いだけは嗅いでいる。小忠太は藩庁の高官であり、晋作を国許に招喚する藩命を出すぐらいはたやすいことであった。

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晋作はこの招喚命令をうけたとき、(きっとお父のさしがねにちがいない)と思い、自分のことをおろおろしながら心配している父母や祖母の顔がうかんだが、しかし、この稀代の革命児になる男の奇妙さは、そういうかれの肉親に対してひどく従順で、なんの反感も持たなかったことであった。さらにかれの不思議さは藩命に対しても同様に従順であることだった。さらに彼の面白さは、藩主への忠誠心のつよさである。「自分の家は、他の連中とは違う。戦国の昔から毛利家をたすけて興亡をともにしてきた。いかなることがあっても藩主はまもらねばならない」としばしば言ったが、この忠誠心というのは倫理というよりも性格で、生まれながらにして激情的ロマンテイシズムというものがあった。松陰もこの点では同じでこの両人の理論では、忠義と革命は矛盾せず、むしろ忠義をつくすために革命を起こすというべきものであった。後年、幕府から藩が武力圧迫された時、「もし藩が焦土になれば、おれは藩主父子をひっかついで朝鮮へ亡命する」と言ったことがある。

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他の多くの藩の志士たちが藩主と藩を捨てることによってはじめて革命家でありえたのとはひどく違っている。この両道を同時に満足させようという点、この男のすさまじさであろう。

この時、松陰はまだ生きていた。結局、松陰と晋作は4か月間だけ、同じ江戸の空の下にいた。

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松陰に、萩に戻る藩命を伝えるべく、手紙を書き、返事がきたが、「この度の災厄(下獄)、老兄が江戸にいてくれただけでも大いに幸せでありました。ご厚情、幾久しく感銘つかまつります」と感謝したが、「老兄に帰国についてはべつに言うことはない」と一言書いただけであった。

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松陰は、1人息子の無事だけを祈っている高杉家の人々のことを忘れたことがない。そうして、先の垂訓の通り、自分は「無事」を憎む男であったが、晋作を「無事」の中におこうとしていた。

(まさか、重刑ということはあるまい)と師の運命を楽観していたが、晋作が江戸を発って、わずか10日後に松陰は死刑になった。しかし、晋作は旅の空にあって知らない。この時代、情報は人の歩く速度でしか伝わらない。晋作は、萩に帰った時、父母には内緒で、早速松本村の杉家へ行き、松陰が獄舎で元気に過ごしていることを伝えた。松陰の母のお滝は「しかし、死は覚悟しております」と言った。

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 晋作は松陰の刑死を知り、なんとも名状しがたい衝撃をうけ、杉家へ走り、母のお滝が挨拶に来てもろくに答礼もせずに、半日呆然として暮らした。

そうして、(この人の志を継ぐ者は自分しかいない)と思った。久坂がいるが、久坂は乱世の雄ではなく、治世にあって廟堂の主になる男だと思っていた。今の世に必要なのは、廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそそれであると思っている。

帰った翌々日に、父の小忠太が晋作を座敷に呼んで、「晋作、縁談が起こっている」と微笑しながら言った。「まだ早いのではないでしょうか」と案じていた通り、晋作は難色を示したが、父は「いいや、それが忠孝の道だ。そちは一人息子だ」とこの倅を説得するツボを心得ていた。

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 常軌を歩きたがらないくせに、忠孝を絶対道徳であると晋作は思っている。戦国以来、毛利家に仕えてきてこんにちまで家系が続いている。家系を続かせることが最大の孝養である時代、嫁を娶って子をつくることが孝であった。同時に家臣として家を絶やさないことは、殿様への忠でもある。

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 父は「相手は、井上のお雅どのだ」とやや得意げに言った。井上家はお堀うちの一角に屋敷があり、高杉家よりもやや上位の家で、代々、秀才や能吏を出して家中でも聞こえた家であることは高杉家と似ている。しかも、「井上様のお嬢様がお城下第一(の美人)でございましょう」と評判であった。

 井上家では、お雅の評判が高く、5件の縁談が来ていた。当主は山口の町奉行を務めており、その選択を弟に任せた。叔父は3件に絞り、お雅を庭の屋敷神の祠の前に連れ出し、柏手を打たせて「くじ」を引かせた。お雅は「引けばなにか下さるのですか」、「おれじゃない。神様が下さるのだ」と言って、お雅が引いて、ほぐすと「高杉晋作」とあった。

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 その後、歴史に残ったこの名前に、叔父もお雅も特別の感慨を持つことが無かった。叔父はこれで肩の荷が下りたと思い、「それがお前の婿殿の名だ」と言ったが、お雅は、会ったこともないので、想像できない。

 あとで、兄の初之進は、高杉晋作が明倫館の秀才であることを知っていて、「そいつは三国一のむこだぜ」と、晋作の人間まで知らずに、学業だけで、お雅にそう言った。 叔父も兄ものちの晋作を予見できたら、いかに神意でもお雅を他の者にやったに違いない。

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 しかし、このように縁談は決まった。

 結婚後、お雅は「近頃、大公儀(幕府)をどうのこうのとおっしゃる方があると伺いますが、まさか、旦那様はそのような」とおそろしげに質問したが、返事は無かった。

この時期、長州でさえ「討幕」の考えを持った者はおらず、松陰さえそうであったが、その松陰が死んで、その後継を任ずる晋作は、無造作に飛躍して、(幕府など倒してしまうべきだ)と感情として思い、論理によらずして決意している。

むろん、晋作の倒幕の秘志にはなんの理論も現状分析もない。当座は歴史主義で間に合わせなければならない。「長州は本来、徳川に屈従しているべき藩ではない。徳川に代わって天下を統括し、大いに日本の正義を伸べるべき藩である」ということであった。


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擂鉢茶碗で、水出しで冷茶を美味しく頂けます  [明治維新胎動の地、萩]

                                 .by N.Hori

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皆さん、暑い日が続きますが、お元気のことと思います。

既に試されているかもしれませんが、擂鉢茶碗で、お茶を摺って、水を

注ぎ、5分以上抽出させると、当然ながら甘いお茶が出来て、氷を入れて

冷茶にすると美味しくなり、汗をかいた後の水分補給に最適です。

まだ、試していない方は是非、試してみてください。

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擂鉢茶碗がやっと東京で発売開始です [明治維新胎動の地、萩]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-05-22-2


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高杉晋作言行録(2/12)  [明治維新胎動の地、萩]

                                                                             By N.Hori

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晋作が松下村塾にいた期間は一年間ほどであった。安政57月、藩命で幕府唯一の官学である「昌平黌」に入学することになった。その時、松陰は晋作と村塾における最後の座談をして、久坂と晋作を比較する文章を見せた。「自分はかって同志の中で、若くて多才な者を人選したことがある。久坂玄瑞をもって第一流とした。その次に高杉がやってきた。高杉は知識の豊富な士である。しかし、学問は十分でなく、その議論も主観的にすぎ、我意がつよすぎた。だから、自分はことさらに久坂を褒めちぎることによって高杉の競争心をあおり、学問をさせようとした。この自分の方針や態度に高杉ははなはだ気に入らなかったらしい。しかし、高杉の学問はにわかに長じた。議論もいよいよ卓れてきた。塾の同志たちも高杉に心服するようになった。自分もなにか議論を言うときに、暢夫(ちょうふ・高杉のこと)に問い、「あんたはどう思うか」と彼の意見を聞いてみて、それから結論を出した」

久坂も友人として高杉を尊ぶようになった。ある時、松陰に「高杉の学殖にはとうていおよびません」と言った。高杉も久坂には一歩ゆずり、「久坂の才にはおよびません」と言った。

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「二人に共通しているのは、気が充溢していることである。それでもって高杉の識と久坂の才とが組み合って一つの仕事をすれば天下におそるものは無い」

さらに、松陰は、「暢夫々々、天下もとより才多し。然れども唯一玄瑞を失うべからざるなり。暢夫往け」と励ました。

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松陰は江戸の佐久間象山にも紹介状を書いたが、門人とは書かず、「僕を視ること師の如し」、「而して僕もまたこれを重んじて兄となす」と不思議な紹介をしている。

晋作は、安政5718日、初めて故郷を離れて江戸に発った。晋作にとって、江戸留学の時期は、彼の華やかすぎる生涯の中では、もっとも地味である。

ところが、師匠の松陰が江戸に送られてきて、伝馬町の獄に入ったので、その差し入れやらなにやらでめっぽう忙しくなった。なにぶん獄での待遇は金次第なのである。その金の工面のため、晋作は江戸にいる松陰門人とともに毎日のようにあちこちへ奔走していた。

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松陰は書生にしては多額すぎる金を頼み、「まことにすまない」と晋作に何度も言っている。獄と外界との手紙の往復は、この金のおかげでまずまず自由であった。松陰は伝馬町の獄には2度目の下獄であるため、囚人たちは松陰を立てて「上座の隠居」のような身分にしてくれたため、かれらに金でもって酬いてやらねばならない。それは囚人仲間の慣例であり、義理であった。松陰は浮世の汚濁に対して勇敢であるくせに、浮世のりくつが通らぬ囚人仲間の義理や慣習に対してはおかしいほど従順であった。

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この当時、晋作が「いったい、私は今後どうすればよいのですか」と問うたのに対して、松陰は(高杉はその身分柄とその秀才である点から、ゆくゆく藩の高級役人になってゆくしかあるまい)と思い、高杉には革命を期待しなかった。「いま老兄は江戸遊学をしている。この遊学がすんだら妻をめとること、あるいは藩庁の役に付くこと、それらいっさいはご両親の心まかせになされ」と言った。

 晋作のその後の生涯が、「動ケバ雷電ノゴトク、発スレバ風雨ノゴトシ」(伊藤博文の碑文)と言われた革命の大親玉になろうとは、さすがの松陰も予想できなかったのである。

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 さらに「藩の役人になって、もし藩公のおそば近くに仕えるようでもなれば、よく精励してその御心を得よ。ご信頼を得てから、正論正義を主張せよ。それでも禍敗がやってきて、しりぞけられる。しりぞけられれば淡々として隠退せよ。隠退中は人に感謝する心を持ち、学問をおさめよ。そのように十年経てば必ず時が来る。大忠を立つべき日が来る。もし不幸ににしてそういう時期が

到来しなくとも老兄は歴史上の不朽の人になりうる。くれぐれも私をまねて軽はずみをするな」と言った。

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 松陰は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたるであろう。

革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。

高杉晋作、坂本竜馬がそれに相当し、この危険な行動家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちの仕事である。伊藤博文がそれにあたる。

松下村塾は世界史的な例から見ても極めてまれなことに、その3種類の人間像を備えることができた。松陰が晋作に「十年待て」とすすめたのは、晋作をして第2期の人たらしめようとしているようであり、その点では、彼の晋作への垂訓はきわめて予言性が高い。


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高杉晋作言行録(1/12)  [明治維新胎動の地、萩]

                                                                             By N.Hori

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 司馬遼太郎の「世に棲む日日」文芸春秋刊は、小説と言うよりも吉田松陰と高杉晋作の生涯を描いた伝記的なものですが、それらの小説に書かれた、幕末の長州「明治維新胎動の地」の革命児、高杉晋作の言行録を紹介します。

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 晋作は、長州藩の石高150石の中級武士の家に生まれ、生家は萩の城下町の菊屋横丁に現存している。150石の家は、家老に準じる役職を務める潜在的な資格がある。

代々、藩の中級官僚を出してきて、大功は無かったにせよ、ほとんど小過すらなかった家として家中でも珍しがられていた。いわば能吏の家系であった。このような家格の者が革命家になるのは長州だけでなく、他藩でも絶無に近く、晋作の存在は珍奇であった。

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性格が奇妙で、温厚な人柄ぞろいの高杉家の大人たちに将来を不安がらせた。晋作は、子供時代学問は好きでなく、文学(詩)と剣術に熱中していた。剣術は好きなほどには強くはなかった。家の近くの寺の軒に掲げられた天狗の面を、他の子供たちは怖がったが、晋作は平気だった。

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一人息子であるうえ、幼少の頃から呼吸器が弱く、直ぐに風邪を引いたり、熱を出した。万一の場合は相続者を失ってしまうので、祖父も祖母も健在で、ひ弱い孫を甘やかすことが多く、松陰の場合の叔父の玉木文之進のような手厳しい教育を受けていない。そのため、晋作は子供の頃から大人というものの威厳やら恐ろしさやらを知らずに済むという幸か不幸をもった。

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年始に来たお客の武士に、凧を踏まれて、土下座して謝らせたこともあり、父親が訪問して謝罪して収まったが、高杉家では晋作を折檻することもなかった。

15歳の頃、戦国から江戸初期の大名やその家来の言行を書いた「常山記談」を読み、自分が織田信長に似ていると思った。また、足軽上がりの木下藤吉郎よりも譜代出身の柴田勝家の骨太さと気位の高さが好きだった。

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18歳の時、藩校の明倫館に入学した。しかし、その教授内容が気質に合わず、最初はあまり勉強せず、剣術ばかりやっていた。成績は平凡であったので、成績によって決まる階級が低かったのが腹立たしかった。その頃、松下村塾の評判を聞いたが、祖父から、行くことを禁じられた。

ただ、ある時期からにわかに明倫館の課業に熱中し始め、存外学問が出来る自分を発見し、「入舎生」という優等生の階級に選ばれた。この頃、後に松下村塾で、晋作と双璧と言われた秀才の久坂玄瑞は明倫館を退館し、家業の医学を引き継ぐべく、医学所に入ったが、相互に相手を意識しあい、遠目ながら互いの様子を窺いあっていたようなところがある。

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晋作は、入舎生に選ばれたとたん、明倫館という学校そのものがつまらなくなり、晋作よりも上級クラスの「居寮生」の者にも「まったく、くだらない」と放言するようになった。

晋作が玄瑞に誘われて、松下村塾に行ったのは、それを反対し続けた祖父が亡くなってからである。 その時、晋作が松陰に期待したのは学者として新しい学問を学ぼうとしたわけではなく、「なにやら面白そうな男」というとりとめのない気持ちだった。このとりとめのなさが18歳の物事に能動的な性格を持った晋作の気持ちを身もだえするほどにやるせなくするものらしい。何事か、身を焼くほどのおもしろさの方向はないかと求めており、それが松陰に会うことによってわかるに違いないという期待であった。たとえ松陰が教えてくれなくとも、松陰が旅行中にこまめに記録した見聞録の「飛耳張目録」を読めば、分かるに違いない、と思った。松下村塾に行けば、「日本と世界はどうなっているか、わかるという評判すらあり、安芸(広島)辺りからもそれを見に来る人までいたと言う。

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晋作は、村塾の粗末さに驚いた。久坂が晋作を紹介し、晋作が、入門を乞うて、自分の詩文集を差し出すと、松陰は時間をかけて熱心に読んだ。やがて、顔を上げ、最初に言った言葉は、晋作が終生忘れられぬものであった。「久坂君のほうがすぐれています」。晋作は、露骨に不服従の色をうかべた。それを見て松陰は(思った通りだ)と思った。人を見る目が以上に優れている松陰は、この若者がここに入ってきた最初から尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身に持っている異常なものを、ところどころ破れていても行儀作法というお仕着せ衣裳で包んでいる。

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松陰は「松下村塾の目的は、奇士の来るのを待って、自分(松陰)の分からずやな面を磨くにある」とかねてから語っていた目的に適った人物が、久坂の他に、今一人ふえたという思いが、松陰をひそかに興奮させた。

晋作は「どこが劣っています。劣っているところを指摘して下さい」の趣旨を言った。松陰は、いよいよ面白いと思い、晋作の文章を分析し、平易な表現でそれをくわしく説明すると、晋作は、自分の欠点を言われているくせに、妙なことに聞くほど興奮をおぼえた。晋作は、自分像と言うものをほとんど芸術的なばかりの見事さで、松陰によって取り出されてしまったのである。

これでは、どうも生涯、松陰についてゆくしか自分のみちはないかもしれない、と晋作は思った。


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山口のおすすめお菓子 [明治維新胎動の地、萩]

                                   By N. Hori

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西島さん、山口観光物産センターへ行かれたら、「季節のういろう」    (約400円)を 試してみてください。 わらび粉で作った本来のもので、  名古屋の小麦粉で作ったものとはコクが違います。

我が家では、家内も山口出身ですので、時々、買いに行きます。

まずは、思い出しましたので、お報せまで。

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擂鉢茶碗がやっと東京で発売開始です [明治維新胎動の地、萩]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2011-05-22-2

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N. Hori さん

郷土名物は人其々の想い出がぎっしり詰まった特別のものです。

忘れずに「季節のういろう」を買求めます。この季節限定品なので     しょうか?

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庭の今年の甘夏みかんの収穫は、例年の1/4 以下ですから、全量ぼくあずさ用のマーマレード作りに使いました。あと数個、採り残した高い処にある実を、教えて頂いた砂糖菓子にする予定です。

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夏の到来とホームメイド・ママレード [フリューレン村だより]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2010-05-18-2


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擂鉢茶碗がやっと東京で発売開始です [明治維新胎動の地、萩]

                                   By N.Hori

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ぼくあずささん

問合せのあった擂鉢茶碗、だいぶ遅れましたが、やっと窯元から発送したとの下記の連絡がありました。

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東京の山口県観光物産センター、日本橋プラザ1F(日本橋高島屋の向かい、丸善の裏側・東京駅八重洲口の前の道を左に行き、本間ゴルフの店の前の道を右折して左側)での発売です。擂鉢茶碗:紙箱入りで@2100

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萩焼や夏蜜柑菓子、農産物、海産物などの名産品も販売しています。

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大屋窯の萩焼(1) [明治維新胎動の地、萩]

http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2010-03-10-2 

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ぼくあずさのComment

N.Hori さんから昨年3月萩焼の窯元に特別注文した彼のアイデアによる擂鉢茶碗を頂きました。彼のアドバイスに従い狭山茶を擂ると、苦味がない大変美味しいお茶になります。なお、Horiさんは萩の経済人としてボランテイアで地域振興に尽力しています。


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5/16 市川・国府台散歩 [明治維新胎動の地、萩]

                                                                       By  N.Hori

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アメリカに在住して、まだ仕事を続けている大嶋さんが帰国する時に、年に2,3回、大学同期生数人で、東京近郊の散歩会を行っています。卒業40年後頃から始めましたから、約10年続いています。

手児名霊堂a.JPG今回は、初めての千葉方面で、市川市の国府台(こうのだい)を歩きました。今回の参加者はいろいろな事情で、4人に減ってしまいましたが、暑からず、寒からずの散歩日和で、まずは楽しく、終わり良かったです。写真はクリックで拡大します。

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市の観光資料によると、市川は、海岸に台地、段丘(国府台・こうのだい)がせまる地形から、2万年以上前から人々が住み始めて、全国有数の貝塚密集地である。また、多くの古墳が残っている。大化の改新(645年)後、「国府台」に下総の国府が置かれ、市川は政治、経済、文化の中心になり、国分寺、国分尼寺も作られた。国府台の麓の真間には、当時、手児奈(てこな)という美人が住んでいたが、数多くの男性から求婚された時に、自分の身のはかなさを自覚して、入水自殺した。真間には、手児奈を祀る「手児奈霊神堂」をはじめ、手児奈ゆかりの場所がいくつかある。   

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山部赤人や高橋虫麻呂などの万葉歌人が国府に赴任し、万葉集(約400年~759年)に、市川のことを歌に詠み、当時の都の人にも知られた。

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「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ」 山部赤人

「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ」 高橋虫麻呂

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江戸時代、現江戸川が利根川の分流になり、関東の交通、運輸上の幹線となった。明治維新の時、江戸が無血開城に反対した大鳥圭介が約2千人を引き連れて市川に集結し、その後日光を目指した。明治以降、国府台に陸軍教導団が移転し、市川は軍隊の町になった。戦後、その跡地には、学校(千葉商大、和洋女子大、付属高中など)と運動施設が造られ、国府台は学園の町、スポーツセンターとなっており、散歩コースでも学生風の若い男女に沢山会い、活気が見られました。

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JR市川駅に10時半に集まり、まず、北口駅前右の観光案内所で地図や資料を入手しました。市川はこのような資料や観光地の説明パネルや散歩道が整備されていると思います。

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市川駅北口を直進し、近くの千葉街道を横断、左折し、直ぐに万葉集の歌のパネルが設置されている大門通り(狭い道の昔風の商店街、弘法寺の参道)を右折し、約1kmを直進します。途中で、京成線踏切、真間川、真間の継橋(昔、海岸の砂州間を渡った橋だと言われますが、それにしては長さが2,3mしかなく、物足りない橋です)を渡り、手児奈霊神堂を参拝して、台地の麓についたら、約120段の階段を上り、仁王門をくぐり、弘法寺(ぐほうじ)の境内に出る。

弘法寺・鐘楼a.JPG弘法寺は手児奈の霊を慰めるために737年に行基により建立されたが、その後、弘法大師も関係し、現在は日蓮宗の寺になっている。境内は紅葉の名所。写真は弘法寺鐘楼。

その境内を通過し、さらに後ろの千葉商大の構内を通過して、国府台スポーツセンターで休憩しました。国府台上は、現在は緑が綺麗でしたが、桜や紅葉の季節にも良さそうです。

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ここで時間があったので、予定外の江戸川側の景色を見ようと、道をやって来た人に道を聞いたのが間違いのもとで、道に迷ってしまいました。結局、来た道を真間川まで戻り、川沿いに予定の「文学の道」(桜土手公園)に戻り、その途中のイタリアンレストラン「ラ・ドルチェ・ヴイータ」で、日替わりランチメニューとビールで遅れた昼食をとりながら、ゆっくりと談笑しました。その後は、市街地を市川駅まで歩き、3時前に解散しました。

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 普段は大阪在住の杉政さんの体調が少し心配だったのですが、道に迷って迷惑をかけたにも拘わらず、最後まで元気だったのが良かったです。翌日、下記のメールを頂きました。

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 皆さん、後半、バテてペースが落ちて迷惑をかけましたが、一夜明けた今朝は通常の体調に戻ったようです。ご心配頂きありがとうございます。

 市川周辺を存分に歩くことが出来ました。自分の体力に自信を与えて貰った一日でした。次回の集まりにも参加出来るよう精進します。有難うございました。

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  「五月晴れ 手児名の美女と ランデブー」  偏頭庵


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松陰先生言行録(10) [明治維新胎動の地、萩]

                                 By N.Hori

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 松陰は幽囚の身で、松下村塾にいる。松陰は当局者も自分と同じように純粋であると信ずるところがあり、「老中間部下総守を殺そう」という手紙を藩庁に送りつけた。

松陰が言うのは、「井伊直弼のつかいである間部は、幕府代表として京に入り、公家を「日米通商条約締結派」たらしめようとしている。間部を阻止するにはこれを殺さねばならない。同志を募って、山陽道を京にのぼり、火ぶたを切るので、武器を貸してください」と大真面目に申し出たのである。藩庁は仰天した。

この計画には久坂や高杉のような若者すら驚き、自重論を説き、松陰を諌止した。

松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり」というのちに有名になった言葉を吐いて、怒った。

 「藩庁も、藩の禄を食んでいる者は、おのれの地位も肩書も投げ捨てて、大事に参加することは出来ぬと分かった」。松陰のために最後までついて来てくれたのは、軽輩出身の者ばかりである。

「草莽崛起」の人を望むほか頼みなし。草莽崛起の力をもって、近くは本藩を維持し、遠くは天長の中興を輔佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれども、神州に大功ある人というべし」と決心した。

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藩庁はやむなく松陰を再び野山獄にいれた。間もなく、幕府から「江戸に送れ」という幕命が下った。関係者はことごとく、この不幸を悲しんだが、松陰は、この江戸送りこそ、絶望的ないまの情勢下での唯一の希望であると喜んだ。「自分はおそらく刑死するだろう。しかし、死ぬ前に救国の方策について所信を述べることが出来る。天下の裁判場で、自分を訊問する幕府役人の思想を変え、それによって幕府の方針をあるいは変えさせることが出来るかもしれない、その希望が持てる唯一の機会が与えられたというのである。

 幕府の容疑は、梅田雲浜との関係など、些細なことだったが、松陰は、老練な役人が言った

「そのほうの憂国の一念にはほとほと感心した」という言葉に、「一念が奉行の心をすら動かした」と思い、相手を信用して、自ら、奉行以下が呆然とするほどの正直さで、間部襲撃計画などやったり、企てた反幕府活動のいっさいを語った。阿呆と言えば、古今を通じてこれほどの阿呆はいないだろう。

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 その頃、同じ獄中には天下の名士がいた。越前の橋本左内、頼山陽の息子の頼三樹三郎、それに水戸の鵜飼吉左衛門などである。彼らの処刑が続いた。

10月16日に4度目の吟味があり、死罪を覚悟し、江戸にいる門人に手紙を出し、「名士と同じく死罪になれば、小生においても本望也」と当時、無名だった松陰は心境を書いた。

 また、門人一同への遺言を書いた。「諸友。けだし我が志を知る。ために我を哀れむことなかれ。我を哀れむよりは我を知るに如かず。我を知るよりは我が志を張ってこれを大にするに如かず」

 10月27日、死罪を宣告され、獄内の刑場で首切り浅右衛門が執行した。この浅右衛門は、

「10月27日に切った武士の最後が、堂々として見事であった」とあとで人に語った。. 彼が身をもって示した思想から行動への軌跡は、門弟に受け継がれて、明治維新革命への起爆力となるのである。冒頭の本の著者・徳永氏が萩で地元の歴史家に、「萩の人は井伊直弼を恨んでいますか」と聞いたところ、「直弼よりも長井雅楽を恨んでいます。長井の当時の政治力から言えば、松陰の江戸送りを幕府と交渉してもみ消しにできたはずです。薩摩藩はそのように西郷を島流しにしています。それをしなかったのは、長井が松陰に悪意を持っていて、幕府へ渡したのです。その点で、門下生はみな長井を恨んでおりました」と語ったという。

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長井が松陰の刑死後、公武合体、航海遠略策を唱えたことから見ても、討幕攘夷を主張する松陰が煙ったい存在であったことは事実だろう。周布政之助も長井と同じ心境であったらしい。要するに、松陰は藩庁から見捨てられたのである。

村田清風がもう4,5年生きていたら、松陰が刑死する悲劇は避けられたかもしれない。

                                      了


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松陰先生言行録(9) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                          By N.Hori

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  松陰たちは、海岸に着くと庄屋らしい家を見つけ、自首した。その家人は、2人を連れて名主に引き渡した。急報で下田奉行所から2人の同心が駆けつけて無抵抗の2人に縄をかけた この後、ペリーはよほどこの2人のことが心配になったらしく、部下を奉行所に派遣し、まず生きていることを確かめさせ、さらになるべく寛大な処置を願っている。

数日後、士官が町を歩いている時、見せしめのため路上から見える獄に入れられている2人を発見した。米国の記録では、「かれらはその不運に平然と耐えていた。士官が近づくと非常に喜び、松陰は板切れに書いた漢文を渡した。これはあたかもローマの軍人であり政治家の硬骨漢であったカトーの禁欲主義を思わせるような哲学的な諦めを表わした素晴らしい見本である」

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 松陰が、自首した時、名主は迷惑がって、それとなく逃がそうとした。ところが松陰は、男児は罪を犯して逃げ隠れするようなことがあってはならない、と迫った。

奉行所の尋問でも、やったことをすべて洗いざらいに白状し、取調官はあまりの正直に哀れをおぼえ、「そのようなことまで言うと死罪はゆるがぬものになるぞ」と小声でたしなめたが、松陰は涼やかにうなずき、「もとより死罪は望むところです」と言ったから、一同は息をのむ思いがした。

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 松陰は言う。「私は志を立てて以来、万死を覚悟することをもって、自分の思念と行動の分としております。いま死をおそれては私の半生は無に等しくなります」

 2人は、国家の大禁を犯した重大犯人として、江戸に送られた。泊まってゆく旅籠では土間に置かれた駕籠の中から、人たる道、国難を「高声称説」した。聞くのは警吏であったが、そのせいか、警吏の態度は泊りをかさねるにつれて鄭重になった。松陰自身がのちに書いている。「宿で寝ずの番をする者どもに、大いなる道を説いてやると、下田の獄にいた時と同様、じつに愉快になる。

自分は生まれてこのかた、これほど愉快であったことがない」

 松陰はすでに生を捨ててしまって、禅で言う豁然たる世界に突き抜けてしまっている。

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江戸では、北町奉行の取調べを受け、伝馬町の獄に投ぜられた。その獄中でも、牢名主にも同様の道を説き、「明日もやれ」と言われた。話の内容よりも囚人を引き入れしめた、この若者の人柄そのものに魅力があったのであろう。

やがて、松陰は藩に身柄を移され、萩に送られ、野山獄に入れられた。百姓身分

金子は岩倉獄へ入れられたが、護送中に衰弱して、ほどなく肺炎を併発して死んでしまった。松陰の嘆きようは尋常でなく、自分の食費を減らして、金子の墓を建てる費用にあてた。

松陰は、入獄後、「福堂論」という、獄制改革論を書いて、「盗賊改方」という公職についていた父・百合の助に送っている。懲罰刑主義でなく、教育刑主義であり、「刑期はみな3年で良い。3年で改悛させることができなかったら、もう3年延ばす。獄中では、読書、習字、諸芸を学ばせる。さらに獄中は、いっさい囚人同士の自治に任せきる」というものだった。

野山獄では、「福堂論」にしたがい、囚人同士が得意な芸を教え合う提案をして、自分は「孟子」を講じることにした。書道、俳句など、ほとんどの囚人が何かの師匠になり、弟子になって、獄風は一変した。松陰は1年3か月の在獄中やその後も、父や兄を通じ、全員を出獄させてもらえるように運動し、遂に8割方が放免されることになった。

松陰が出獄して自宅蟄居中に、叔父の玉木文之進が始めた「松下村塾」を引き継いだが、高杉晋作が久坂玄端と同道して、松下村塾に来て、松陰に会っている。

彼のこの時の期待は、「なにやら面白そうな男」というとりとめのない気持ちだった。松陰が見聞した内外のニュースを書き留めた「飛耳張目録」を読んでみたかったこともあっただろう。

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日本と世界はどうなっているか、は 松下村塾へ行けば分かるという評判すらあり、安芸(広島)あたりからも、これを見に来る人もあったという。

後に長州藩を救った、風雲児・晋作については、別の言行録を紹介する予


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