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高杉晋作言行録(12/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                 By N.Hori

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藩政府は、晋作に新しい職「応接方・越荷方・対馬物産取組」を命じた。いわば、外務省の重職と通産省の重職を兼ねた役目であり、きたるべき対幕戦のための臨戦的な仕事である。

父の小忠太が世子に会った時、元徳は上機嫌で、「晋作が戻ってきて幸いしたな」と言った。父は皮肉を言われたと思い、恐縮したが、後で、政務役首座の山田宇右衛門に会った時、「長州藩に人材が払底している。そこへ幕軍が来る。この幕軍を相手に長州藩をひっさげて戦えるだけの政戦両面の胆略ある総帥は幾人いるか」と問われ、(それが晋作だというのか、藩は何か間違っていないか)と父は解せなかった。

当時、下関に出張している晋作のところに、母の「お道」と妻の「お雅」がやってきて、一緒に住むことになり、晋作は「おうの」のことで困って、詩を作った。

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 細君まさにわが閑居にいたらんとす 妾女の胸間 うれいあまり有り

 是より両花 艶美を争う  主人 手をこまぬいて 意如何

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結局、今まで住んでいた紅屋木助宅に「おうの」を住まわせ、白石正一郎宅に、母と妻と居候することになった。この時期、晋作は下関と長崎を往来して、幕軍襲来に備えるための軍艦買い入れなどに奔走していたが、かれの生涯で唯一の家庭的な日々であった。しかし、白石家の家産も傾き始めていた。

幕軍は、広島に老中の小笠原長行を派遣し、長州藩主、世子などを呼び出す命令を出したが、長州藩は時間稼ぎなどの返事をしたので、晋作は「いよいよ戦争だ」と判断した。談判は決裂し、幕軍も「もはや開戦のみ」と決意した。長州藩の(幕府に先に手を出させることで天下の同情を買おうとした)策に幕府がはまったのである。

この時、新しい駐日英公使バークスが長崎に来て、グラバーから日本の近況(長州が幕府と開戦寸前にあること、薩摩と長州は秘密同盟を結んだこと、長州は英国と友好関係をもとうとしていることなど)を聞き、鹿児島、下関に寄港することになった。晋作は下関に寄港した英艦上でバークスと会った。その時、バークスから「長州は英国を信用するやいなや」と聞かれ、晋作は「信用せず」と答えた。その理由は「過去の四か国艦隊が来襲の時、英国は幕府に、長州をつぶしてしまえ」と献言せしにあらずや」これは晋作の誤解であり、献言したのは仏国だった。

バークスは、晋作の誤解を解くべく、約1時間かけて弁明した。これこそ、晋作が狙ったことであり、英国の姿勢を低くさせるためであった。さらに晋作は「それほど英国が我が長州に同情と誠意をお持ちならば長英会盟の機会を持つべきです」と問うた。バークスは下関に再寄航する時に、藩主が会うことを約束した。結局、第二次征長戦が始まり、再寄航は実現しなかった。

幕府軍が長州に向かって開戦したのは1866年6月7日であった。幕府軍艦1艦が柳井沖の大島を砲撃し、8日にさらに5艦が来て陸兵を上陸させて、大島を占領した。晋作はそれを聞き、直ぐに海陸で共同作戦で占領軍を軍艦で夜襲した。この時代、軍艦の夜襲の考え方はヨーロッパでもなかった。幕府5軍艦は、油断して錨をおろし、火を落とし、眠り込んでいた。晋作が乗った長州の軍艦1隻(丙寅丸)がその中に突入し、各艦の間を機敏に動き回り、至近弾がことごとく命中した。甲板から小銃でも撃ちまくった。晋作は、幕艦の煙突から煙が出始めたのを見て、「もうよかろう」と声をかけ、闇にまぎれて逃げてしまった。幕府艦隊は大島を捨てて、長州海域から東へ去った。陸軍部隊も大島の各地で幕軍を襲い、6月12日に一人残らず駆逐してしまった。

晋作は下関に戻ると、「次は小倉城だ」と宣言した。この頃から、晋作は肩で息をし、呼吸がせわしくなっていた。小倉攻撃は、まず、6月17日、門司沿岸の幕軍砲台を軍艦で砲撃し、それから陸軍部隊を渡海させ、幕軍が渡海のために準備していた和船100艘を焼いた。

7月3日、7月27日の第二次、第三次の九州攻撃にも、晋作は陣頭指揮した。29日になると、小倉にいた小笠原長行が城を抜け出し、軍艦で逃げてしまったので、九州諸藩の藩兵は解散同然になってしまった。晋作は小倉城に上り、「一字三星」の毛利家の旗を掲げた。後始末を前原や山県にまかせ、下関の白石屋敷に戻った。海峡を何度も渡って、幕軍を攻め、攻めるごとに勝ち、勝っては下関に戻り、芸妓をあげて大騒ぎして飲んだが、既に、健康は尋常ではなかった。

7月22日、下関の医者が診察して、「これは労咳(肺結核)ですな」と当時、死の宣告と言っていい診断を下した。この診断は直ぐに伝わり、奇兵隊から大きな鯉が運ばれた。この病気には鯉の生き血を飲む以外に療法が無いと言われていた。

藩では、晋作の病状がおもわしくないことに驚き、その医療については十二分なことをした。

萩の高杉家にも知らされ、まず、父の小忠太が来た。1日遅れて母のお道と妻のお雅も来た。お雅は幼い一人息子の東一も連れてきた。

病床には看病人や見舞客が多く、にぎやかだった。いよいよ死期が迫った時、筆と紙を所望して、そばにいた野村望東尼(福岡の勤王歌人)が筆に墨をふくませて与えると、仰臥したまま、辞世の歌を書いた。「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句が出来たが、下の句が続かない。

晋作の生涯にとって、下の句は不要に違いない。たとえどのように巧みな下の句を付けても蛇足になるに相違なかった。が、歌人の望東尼は、晋作の寿命が尽きようとしているのを見、せっかくの辞世が尻切れとんぼになることをおそれ、「すみなすものは心なりけり」と付けた。

晋作はそれに満足したらしく、「おもしろいのう」と言って目をつぶり、ほどなく息を引き取ったが、ただ、一度唇が動き、「吉田へ」と聞こえた。結局、下関郊外の吉田という場所に葬られた。

晋作の一生は、好きなことを好きなように生きて、燃え尽きた。

                                                                                


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hanamura

晋作の一生は、やるべき事をやって、燃え尽きた。
by hanamura (2011-07-13 20:02) 

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