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松陰先生言行録(10) [明治維新胎動の地、萩]

                                 By N.Hori

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 松陰は幽囚の身で、松下村塾にいる。松陰は当局者も自分と同じように純粋であると信ずるところがあり、「老中間部下総守を殺そう」という手紙を藩庁に送りつけた。

松陰が言うのは、「井伊直弼のつかいである間部は、幕府代表として京に入り、公家を「日米通商条約締結派」たらしめようとしている。間部を阻止するにはこれを殺さねばならない。同志を募って、山陽道を京にのぼり、火ぶたを切るので、武器を貸してください」と大真面目に申し出たのである。藩庁は仰天した。

この計画には久坂や高杉のような若者すら驚き、自重論を説き、松陰を諌止した。

松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり」というのちに有名になった言葉を吐いて、怒った。

 「藩庁も、藩の禄を食んでいる者は、おのれの地位も肩書も投げ捨てて、大事に参加することは出来ぬと分かった」。松陰のために最後までついて来てくれたのは、軽輩出身の者ばかりである。

「草莽崛起」の人を望むほか頼みなし。草莽崛起の力をもって、近くは本藩を維持し、遠くは天長の中興を輔佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれども、神州に大功ある人というべし」と決心した。

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藩庁はやむなく松陰を再び野山獄にいれた。間もなく、幕府から「江戸に送れ」という幕命が下った。関係者はことごとく、この不幸を悲しんだが、松陰は、この江戸送りこそ、絶望的ないまの情勢下での唯一の希望であると喜んだ。「自分はおそらく刑死するだろう。しかし、死ぬ前に救国の方策について所信を述べることが出来る。天下の裁判場で、自分を訊問する幕府役人の思想を変え、それによって幕府の方針をあるいは変えさせることが出来るかもしれない、その希望が持てる唯一の機会が与えられたというのである。

 幕府の容疑は、梅田雲浜との関係など、些細なことだったが、松陰は、老練な役人が言った

「そのほうの憂国の一念にはほとほと感心した」という言葉に、「一念が奉行の心をすら動かした」と思い、相手を信用して、自ら、奉行以下が呆然とするほどの正直さで、間部襲撃計画などやったり、企てた反幕府活動のいっさいを語った。阿呆と言えば、古今を通じてこれほどの阿呆はいないだろう。

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 その頃、同じ獄中には天下の名士がいた。越前の橋本左内、頼山陽の息子の頼三樹三郎、それに水戸の鵜飼吉左衛門などである。彼らの処刑が続いた。

10月16日に4度目の吟味があり、死罪を覚悟し、江戸にいる門人に手紙を出し、「名士と同じく死罪になれば、小生においても本望也」と当時、無名だった松陰は心境を書いた。

 また、門人一同への遺言を書いた。「諸友。けだし我が志を知る。ために我を哀れむことなかれ。我を哀れむよりは我を知るに如かず。我を知るよりは我が志を張ってこれを大にするに如かず」

 10月27日、死罪を宣告され、獄内の刑場で首切り浅右衛門が執行した。この浅右衛門は、

「10月27日に切った武士の最後が、堂々として見事であった」とあとで人に語った。. 彼が身をもって示した思想から行動への軌跡は、門弟に受け継がれて、明治維新革命への起爆力となるのである。冒頭の本の著者・徳永氏が萩で地元の歴史家に、「萩の人は井伊直弼を恨んでいますか」と聞いたところ、「直弼よりも長井雅楽を恨んでいます。長井の当時の政治力から言えば、松陰の江戸送りを幕府と交渉してもみ消しにできたはずです。薩摩藩はそのように西郷を島流しにしています。それをしなかったのは、長井が松陰に悪意を持っていて、幕府へ渡したのです。その点で、門下生はみな長井を恨んでおりました」と語ったという。

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長井が松陰の刑死後、公武合体、航海遠略策を唱えたことから見ても、討幕攘夷を主張する松陰が煙ったい存在であったことは事実だろう。周布政之助も長井と同じ心境であったらしい。要するに、松陰は藩庁から見捨てられたのである。

村田清風がもう4,5年生きていたら、松陰が刑死する悲劇は避けられたかもしれない。

                                      了


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