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高杉晋作言行録(6/12) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                       By N.Hori

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当時の長州藩の藩主・毛利敬親(たかちか)は、改革派(正義党)からも守旧派(俗論党)からのどちらの意見に対しても「ああ、そうせい」と許可を与え、「そうせい候」と陰口をたたかれ、世の志士たちからは賢候とは評価されなかった。しかし、司馬遼太郎は「敬親に世界観がなかった、といえば酷だろう。かれは独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それに生まれつきおそろしく寛大であった。ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と評したが、そのため、藩庁の幹部が正義党、俗論党と交替する度に方針が変わり、藩士は戸惑い、迷惑したと思う。しかし、「そうせねば、敬親候は明治までとても生きながらえることが出来ず、どちらかの派から毒殺されていただろう」と維新後に言われた。

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無定見な「そうせい」は彼自身の生命を救っただけでなく、長州藩の政治活動が、藩主という抑制装置が無いため大いに活発になり、結果として、瀬戸内の干拓によるコメの増産、塩、紙、,蝋、石炭の生産に力を入れ、さらに下関港を北前(日本海)貿易の基地としての収入で、藩の経済的実力を「実力百万石」と言われるまで拡充し、明治維新を成功させたのは功績です。

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ちなみに、世子の元徳も、若いながらほぼ養父と同じ行き方をとった。

江戸中期以降、どの藩でも、予想以上に人材登用が進み、藩の内閣の実務は、下から抜擢した複数の仕置(しおき)家老が担当し、家代々の門閥家老は実務についていないことが多い。仕置家老の呼びかたは藩によって変わり、長州では「政務役」といったが、薩摩では「側役(そばやく)」土佐では「執政」、「参政」と呼んだ。

当時、日本の国際法上の皇帝は徳川将軍であったが、徳川家は天皇から政治外交を委託されているのであり、日本国の元首はあくまで天皇である、という新しい解釈と思想が流行した。これを考え、唱えたのは水戸学の学者であり、吉田松陰であった。

そうして、天皇と公卿団(朝廷)が時勢の中に登場し、「攘夷鎖国」を掲げた。世論と志士たちもそれに共鳴した。それに対して、幕府の方針は「開国・貿易」であった。当時、長州の藩主・敬親は、時勢を収拾し、朝廷と幕府を一つに包み込んで国家の針路を決定する大政策を長州藩から出したいと思って意見を求めた。

政務役・長井雅楽(うた)ならば妙案があろうと誰もが持った期待だった。彼はひとつだけこの難局を打開する方法があるが、今は言う時期ではない、と思っていた。

「今は、長州藩のみならず、天下に滔々として攘夷論がうずまいております。かれらは、攘夷さえ決行すれば国は救われるという妄想をもち、かつ己の議論を正義となし、おのれの議論とことなる議論を俗論となし、異論の士を斬るかしりぞけることをもって快となし、右のような気分が潮のように高まってきております。一犬虚に吠えて万犬実に鳴くと申しまするが、万犬が虚吠している時期には正しきことを申しても世人は耳をかたむけず、血気奔走の徒をいたずらに刺激するのみで、何の効果もございませぬ。のちのち、時運をよく見、この案を打ち出すときを選んで打ち出す方が良いかと存じまする」と一旦断ったが、敬親は、それを文書にして差し出せ、と命じた。

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それが「航海遠略策」と題された論文だった。その中で、「だいたい鎖国というのは、古来の方針ではなく、三代将軍家光のとき幕府が島原の乱に懲りて国を閉じてしまったものである。孝明帝でさえ、鎖国は天照大神以来の祖法であると信じ、開国しては皇祖皇宗に申し訳ない」とのみ言われ続けていたし、まして志士たちは、鎖国は僅々2世紀前の法で、しかも幕府体制を維持するためにやったことを知らない。天下の大錯覚を指摘したのは、長井雅楽が最初である。

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要するに、長井の結論は、「日本はこの機会に開国し、積極的勇気をもって攻勢に出、艦船をふやし、五大州に航海し、貿易し、それによって五大州を日本の威に服さしめ、括夷(かつい・西洋人)をして貢物を日本にもって来ねば相赦さぬというところまでの大方針を日本としては只今きめるべきである」というものである。

これを一読した敬親は、感嘆し、この案を諸重役に下付して練らしたところ、口々にこれ以外に日本の針路はないと賛同したため、敬親は、長井を呼び、「これをもって長州藩の藩論とする。そちはさっそく京に上り、江戸に下り、発砲奔走して朝廷と公儀(幕府)の紛糾を一つにまとめよ」と命じた。

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長井は断ったが、許されず、結局、長井は京に上り、江戸にも下った。幕府も大いにこれを喜び、朝廷も感じ入り、孝明帝もこれを読み、「はじめて迷雲が晴れた思いがする」と言われた。

この時期、長州藩の公式代表である長井雅楽の意見ほど、正論はなかったであろう。開国か鎖国攘夷かの両論で混乱しきっている時勢に対してこれほど卓越した鎮静剤はなかった。さらにこの策は、日本の将来を展望して、それをバラ色に予想して見せた。しかし、志士たちは不満であった。


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