SSブログ

【中国人】なぜ日本が好きになっちゃった?【理由5選】 - … [中国]

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

【中国】世界遺産「安徽南部の古村落-西逓・宏村」の観光 ... [中国]


同済大学張教授の奥さんと息子に案内され黄山中のホテルに一泊、翌日清代の部落西逓を訪ねた。

部落の入口には科挙(官吏登用試験)合格者が建てた石門が幾つもありました。


私は早稲田大学機械工学科の4年間を(学術に秀でるべし。)の母の教えを守る為、科挙と同じ

論文形式の試験に教科書及び教授の授業内容を丸暗記して解答用紙を埋め尽くす答案を作成し

た。富士電機入社後2ヶ月間の工場実習後のA常務(後の社長)面接を受けた。勤労部長から

執拗に私の成績の順位を聞かれた。常務から原子力設計部配属と英国への企業留学を告げられ

た。1週間後に発表されたのは私の希望した火力設計熱計算係でした。私以外は全員京大・東

大機械科卒の大変居心地の良い超エリート職場でした。お陰で大変大切にされた会社生活でし

た。係長は私にはASME Paper を回覧してくれた。私の教育係に立校・東大卒のSさんを付け

てくれたり、当時試験中のSiemens東電川崎5号機現場に派遣して頂いた、此処では後に役立

った貴重な経験が出来ました。大変感謝しています。




nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

ダージリンヒマラヤ鉄道 - YouTube [東南アジア・インド]

ダージリンヒマラヤ鉄道(1) - YouTube                                       ダージリンヒマラヤ鉄道(2)                                                           ダージリンヒマラヤ鉄道(3)                                                            ダージリンヒマラヤ鉄道(4)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

ベトナムにもワクチン提供を調整 自民外交部会長、台湾に続き [コロナ禍]

ベトナムにもワクチン提供を調整 自民外交部会長、台湾に続き


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

1950年代にインドのネルー(Jawaharlal Nehru)首相が日本を ... [早稲田大学]



私が母が決めた早稲田大学に入学した1957年大隈講堂前で訪日されたネールインド首相をま近

な処でお迎えした。ご令嬢の名前を付けたインド象を手土産にされた。

仕事で訪ねたインド、カルカッタ経由列車で仏跡のある地方都市の刑務所化と見まごう高い塀

に囲まれた肥料工場へ。洒落た迎賓客2階の部屋で数日過ごした。技術宅に招かれ、ダージリン

の工場建設予定地に是非来られたしと云われた。

ガンジス河口にあるカルカッタは滝四の加藤先生が訪ねた街と聞いていたが、私が訪ねた時は

パキスタン難民が溢れた怖ろしい印象しか残っていない。

帰国の搭乗機がシンガポールに寄港時錫製のコースターを土産に購入。

右手でご飯を食べるのは慣れたが、すべての料理が辛い。構内にある中華店に出掛けたが辛い

味付けは変わらず。二度とインド出張はご免こうむりたいと思った。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

吉田司家 - Wikipedia [スポーツ]

1972年4月香港経由で初めて国交正常化前の中国北京へ。同行は中国専門商社東光物産の残

留孤児の通訳と荏原製作所の西島技師長でした。何と90日間の長期滞在でした。中国側は荏

原のブロワーと富士電機の駆動用蒸気タービン技術習得が目的でした。

西島技師長の実家は熊本で大相撲の横砂認証を司るお宅と聞かされた。

母の実印が甲府産の水晶製であることを想い出し、私は市中にあ老舗の印鑑専門店でメノウ

の印鑑を買い求めた。これが私の実印です。富士電機向けに提出する書類にはで買い求めた

象牙いんを使用している。その他に四角い柘植製の西島蔵書いんがある。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

横浜メリーさんは、戦後ヨコハマを伝える、昭和最後の風景でした。 [戦争の記憶]

横浜メリーさんは、戦後ヨコハマを伝える、昭和最後の風景でした。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

天安門32年、香港で初めて集会開かれず 市民はライトで追悼 [中国]


私が50最になった年の2月、私は天安門近くの暖房が止まった北京飯店のべっトの中で革製の

コートに包まって寒さに震えながら一夜を過ごし、前日の夕食は食べるものが無い酷い状態で

した、周口店にある中国石油交司への出張は私一人のみ入国許可される異常事態でした。

4ヶ月後の6月に天安門事件の予兆でした。日中国交回復前の1972年4月、柳の花粉がホテル

室内を漂うころから90日間の滞在、中国は富士電機の蒸気タービン技術習得を重要課題の一

つに挙げていたのだと思えた。日本からの封書は開封の跡を残さず中身を読まれていたm恐

ろしい国でした。2度目の訪中は上海賓館泊の富士電機義日交流団員として、日本が建てた

旧上海高楼が会場でした。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。