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創作短編(53):女武者 巴御前 –5/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                     WME36 梅邑貫


 木曽義仲はこの後で急坂を下るように失敗続きとなります。源平の戦の間、京を逃れていた後白河法皇を無事に京へ、,迎え入れたまではよかったのですが、義仲は京の街々の治安回復に失敗し、加えて天皇の後嗣選びに介入し、後白河法皇との関係を悪化させ、さらに、鎌倉に在る源頼朝の傘下に入ることを嫌い、頼朝に追われ逃げて来た父の弟である源義廣を迎え入れて庇護し、源氏の棟梁たる頼朝との関係も悪化させてしまいました。

 寿永三年(1184年)一月六日、頼朝が発した義仲追討軍が墨俣、現在の岐阜県大垣市の辺りを通過したとの報を受けて、義仲は決意を新たにし、十五日には「征東大将軍」に就きました。

 義仲を攻めて来たのは、源義朝の六男の頼範と九男の義経、即ち、頼朝の二人の弟です。
 一方の義仲は、既に人望を失っていたための、兵の数は六千と少なく、七万の敵軍を相手に宇治川や瀬田の戦で敗れ、二十日、遂に討ち死にしました。
 その少し前、敗走する義仲の軍勢が次第に減り、義仲を囲んで併走する騎馬武者の内に巴御前の姿があり、五騎に減っても巴御前は義仲を護り続け、襲い掛かる敵将御田八郎師重の首を捻って千切り捨てました。その義仲が馬を止めて巴御前に語ります。

「鞆よ、もうここまでよい。そなたは女、落ち延びよ。信濃に残した妻には会えぬ。鞆は東へ向かい、我等が最期を皆に語り伝え、弔ってくれ」

 巴御前は兜を脱ぎ、鎧を脱ぎ捨て、いつの間にか戦列を離れました。


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