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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -5/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


 嘉永五年(
1852年)二月二十七日、小野朝右衛門祐義が七十九歳で没し、小野鐵太郎は家族と共に江戸へ戻りました。
 その後、安政二年(1855年)の夏、小野鐵太郎は飛騨高山で北辰一刀流を教えてくれた井上清虎の推挙によって幕府の講武所へ入ります。
 講武所は、二百年を越す泰平の世に武士達の武芸も衰え、そこへペリーが黒船を率いて現れ、武士の戦闘力を再び高めんとして設立され、旗本や御家人とその子弟が入所しました。
 講武所は安政三年(1856年)に今の築地魚市場の在る場所で開所しますが、この場所は翌年の安政四年(1857年)に軍艦操錬所も同居し、やがて講武所は神田小川町へ移ります。


 小野鐵太郎は人目を惹くほどに大柄でした。講武所へ入った頃、鐵太郎は二十歳になっていましたが、身長六尺二寸(
≑ 186cm)、体重二十八貫(≑ 105kg)で、この体格で振る剣は威力がありました。
 その大柄な小野鐵太郎が辞を低くして稽古を付けてもらった師範が千葉周作です。
 千葉周作は陸前高田の出身とする説が有力ですが、北辰一刀流を創治して、神田於玉ヶ池に剣術道場「玄武館」を開きました。当時の江戸には三大剣術道場があり、斎藤弥九郎の神道無念流「錬兵館」が「力の斎藤」、桃井直由の鏡新明智流「士学館」が「位の桃井」と言われ、これに対して、千葉周作の「玄武館」は「技の千葉」と言われました。


 小野鐵太郎は剣術だけではなく、山岡静山に師事して忍心流の槍術も学びますが、安政二年(1855年)六月三十日、その山岡静山が二十七歳の若さで急死してしまいました。山岡静山は幕臣でありましたが、関西槍術の最高峰を謳われた九州柳川出身の南里紀介と槍の試合を行い、四時間の死闘の末に引き分けたと伝えられます。
 鐵太郎は、山岡静山の実弟で、やはり槍の名手であった高橋泥舟に懇請されて、皆が他家へ養子に出た後の山岡家に養子として入り、静山と泥舟の妹の英子(フサコ)と結婚して山岡性となります。


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