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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -4/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


 江戸時代、郡代は代官と同じ職務内容名ながらも、格は郡代の方が上で、関東、美濃、西国、飛騨の天領、即ち、幕府の直轄地の行政長官として派遣される郡代が四人おり、小野朝右衛門はその四人の一人である飛騨郡代に選ばれました。郡代は十万石以上の領地を治めましたが、代官は五万石以上で、郡代の役高が四百石であったのに対して、代官は百五十石でした。

「鐵太郎、剣術の稽古を続けたいか」と、飛騨高山の陣屋に落ち着いてから、小野朝右衛門高福は飛騨へ共に連れて来た倅の鐵太郎に尋ねました。
「はい。剣の修行だけは続けとうございます。でも、父上、この飛騨では師範がおりませぬ」
「心配するな。江戸より参っていただくのじゃ」

 かくして、江戸より北辰一刀流の井上八郎清虎が招かれ、鐵太郎は飛騨高山の地で剣術の稽古を続けました。
 井上清虎については詳しいことが判りませんが、慶應元年(1865年)に没して、谷中霊園の隣接地に墓地があったと伝えられます。清虎は元は日向延岡藩の浪人でしたが、剣に優れているので幕府に登用され、たまたま京都に滞在しているときに、小野朝右衛門高福に招かれて飛騨の高山へ移り、高山の剣術道場「修武館」で鐵太郎を仕込むことになりました。
「清虎殿、鐵太郎の剣の腕、如何であろうか」と、父の小野高福が清虎に問いましたが、井上清虎は世辞抜きで答えました。
「いやいや、驚きましたぞ。このまま高山に埋もれさせてはなりませぬ。江戸へ出し、さらなる修行をするに十分に足る腕前でござりましょう」

 鐵太郎は剣の修行だけでなく、岩佐一亭に師事して書も学びました。岩佐一亭は飛騨高山の生まれで呉服商でしたが、書に優れ、弘法大師流入木道(ジュボクドウ)五十一世ですが、十五歳の鐵太郎の書を認めて、入木道五十二世を授け、鐵太郎は一楽斉と号します。


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