創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -2/22 [稲門機械屋倶楽部]
2012-08 WME36 梅邑貫
「井上殿、ここまでは貴殿は勅使として拙者に話された。これより後、如何であろうか、井上馨と山岡鐵舟、互いに元武士、裸で話を続けたいが、如何でござろう」
「望むところでござる」
山岡鐵舟も井上馨も共に天保七年(1836年)生まれの同年齢ですが、鐵舟は徳川十四代将軍家茂と十五代慶喜に仕えた直参旗本であり、馨は、旧名の聞多で知られる長州の武士です。
本来は敵対していた間柄であり、鐵舟がその一員であった徳川幕府は今は消え去り、井上馨が要職を務める明治政府が明治天皇を仰いで日本の権力構造の頂点にあります。
しかし、山岡鐵舟には井上馨を前にして臆するところは微塵もなく、その話し方も磊落になりました。
「井上さん、あんたも勲章をもらってたな」
「左様。勲一等を授けられておるが」
「お前さんが勲一等で、俺に勲三等を持って来るのは、間違っていないかい」
「いや、勲一等と俸給分の働きはしておる」
「そりゃあ、当たり前のことよ。もらった分だけ働かなければ、それは泥棒よ。もらう分以上に働いてこそ政府の高官よ。井上さん、知ってるのかい。維新の締めくくりは、西郷さんと俺の二人でやったんだ。俺から見れば、お前さんなんか褌担ぎと同じだ。勲三等、そんなもの要らねへよ。持って帰るんだな」
山岡鐵舟は井上馨をよく思っていません。それどころか、貪官汚吏の一人と決め付けていました。
明治政府が発足してから、幕府時代の資産、今で言う国有財産ですが、これが民間へ払い下げられますが、井上馨は「三井の番頭」と噂され、秋田県鹿角(カズノ)の尾去沢(オリサワ)銅山を私物化しようと試みたとも伝えられ、貪官汚吏(タンカンオリ)とも呼ばれました。
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