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創作短編(48):緒方洪庵 -8/9 [稲門機械屋倶楽部]

              2012-07 WMER36 梅邑貫



 緒方洪庵は幕府お抱えの身となり、特に将軍侍医の立場は名誉と経済事情を好転させました。
 しかし一方では、江戸城の中で堅苦しい習慣に従い、高級武士団によって構成される官僚制の下で、大坂の適塾の如く振舞えない息苦しさを感じていました。
 この時代、後に幕末と呼ばれることになる時代ですが、幕府も大きな変革の波に揉まれていました。
 緒方洪庵はその変革の余波も受けており、親しい者には「大坂へ戻りたい」と漏らしていたと伝えられます。
 文久三年(1863年)、幕府は田安門外に歩兵屯所を設けますが、西洋医学所頭取の緒方洪庵は屯所専属の医師を選ぶよう命ぜられ、脚気治療に巧みな遠田昌庵をはじめとする西洋医師団七名を推薦しております。


 文久三年(
1863年)六月四日、江戸の麻布で起きた火災が延焼して、江戸城の西の丸も焼け落ちました。その七日後の六月十一日、緒方洪庵は医学所頭取の役宅で喀血し、五十四歳の生涯を閉じました。
 後年になって伝えられるところでは、緒方洪庵の早過ぎる死は、西の丸の火災から避難する将軍家茂の正室である和宮親子(チカコ)内親王に付き添い、炎天下の屋外で長く立ち続けた極度の緊張と疲労が原因になったとされます。


 緒方洪庵が著した書に「病学通論」があります。出版年が不詳なのですが、嘉永元年(
1848年)か二年(1849年)と推測されており、我が国で初の西洋医学に基づく病理学の書です。
 緒方洪庵はその人柄が温厚であったことでも知られており、洪庵の怒る声を聞いた者がおりません。勿論、弟子達に教えるときは厳しいのですが、教鞭を持たぬときの姿を福沢諭吉が次のように書き残しています。
「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀なる高徳の君子なり」


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