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創作短編(48):緒方洪庵 -7/9 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-07 WME36 梅邑貫



 緒方洪庵の略歴を長々と書きましたが、冒頭へ戻ります。
「諭吉が、わしを如何に褒めておったのだ」
「はい。それはそれは大変な褒めようで」
「うん。それは判った。先を聞かせてくれんか」
「はい。先生はその緻密なること、その放胆なること、実に蘭学界の一大家。名実共に違わぬ大人物と感心すること毎度の事で、講義終り、塾に帰って朋友互いに、〈今日の先生のあの卓説はどうだ。何だか吾等は頓(トン)に無学無識になったようだ〉と話し合っている。とまあ、このような具合ですよ」
「そうか。まあよかろう」


 現在の私達が遣う日本語には福沢諭吉が造語したものが多数あります。でも、これは緒方洪庵の教えに拠るところ大です。
 緒方洪庵は自分の息子達には先ず漢学を学ばせたそうですが、福沢諭吉をはじめとする弟子達に蘭学を教えながらも、オランダ語の単語一つ一つについて緻密に考究して、その意味するところを正確な日本語に置き換えました。先ずは、日本語が確実に身に着いていなくは外国語を習得することができないと考えたからです。


 文久二年(
1862年)、緒方洪庵は幕府からの度重なる要請に応えて「奥医師兼西洋医学所頭取」に就任して江戸へ赴きます。奥医師とは十四代将軍家茂の侍医であり、「法眼(ホウゲン)」の位を授けられました。
 「法眼」とは、元来は僧侶の位階であり、法印、法眼、法橋と続き、たとえば最高位の法印は大僧正、僧正、権僧正の三段階となります。この僧位が江戸時代に至って、絵師とか医師等にも拡張されて授与されるようになりました。
  この頃、適塾の塾頭は柏原孝章ですが、洪庵は語っています。
「適塾をよろしく頼みますぞ」
「はい。先生の早いお帰りをお待ち申し上げます」
「江戸勤め、望むところではないが、将軍侍医とあっては断ることも出来ぬ。除痘館もお願い致しますぞ」


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