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創作短編(48):緒方洪庵 -3/9 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-07 WMER36 梅邑貫

 
「何なりとお話し下されませ」
「実は、娘の八重のことだが」
「御息女の八重殿が如何したと申されるのですか」
「いや、どうにもなってはおらんのだが、洪庵殿の嫁にしてくれんかと願っておる」


 億川百記は名塩の出身です。名塩(ナジオ)は現在の兵庫県西宮市名塩ですが、この当時は名塩和紙の産地として有名でした。鉱物質を含んだ和紙で、難燃性に優れた和紙です。億川家はその名塩和紙を漉くことを家業としておりましたが、億川百記は後に医師も開業して近隣の者から頼りにされました。


 億川百記の娘八重は文政五年(
1822年)生まれで、洪庵より十二歳も年下ですが、洪庵にも八重を拒む理由は何もなく、二人はこの天保九年の内に祝言を挙げました。
 八重の胸像が今でも名塩の町に残されていますが、八重は立派な女性でした。
 洪庵と八重は、周辺の者達が「また生まれた」と驚くほどに、六男七女をもうけました。
 その内の二人か三人は夭逝しておりますが、父親緒方洪庵の跡を継いで医学の道へ進む者が多く、日本の近代医学への貢献は測り知れません。
 八重は、当然ですが、子育てに追われますが、それでも家業の名塩和紙の商いに精を出し、一方で、夫洪庵の内助の功を欠かしたこともありません。緒方洪庵が日本に於ける医学の黎明期に果たした功績の数々は妻の八重に負うところ大であります。


 余談で恐縮ですが、私は決して想像力が乏しいとは思っていません。しかし、子供が十三人もいる家庭の有様を想像することができず、又、その大勢の子供達を育て上げた八重のような母親の姿を描き出すこともできません。緒方洪庵の妻八重は偉大な女性であり、だからこそ、後年になって、母親代わりに育てられた適塾の門弟達によって胸像が建立されたと信じます。


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