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創作短編(47):番外編 時代劇を楽しむ基礎知識 -4/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                          2012-07 WME36 梅邑貫


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 与力と同心と拝領屋敷
 

   御家人の生活は楽ではなかったのですが、住いは幕府から与えられました。現代の私達には羨ましいことで、しかも江戸の中心部にかなり広い屋敷が与えられ、同じ任務を帯びた者達が固まって住みました。その実例が町奉行の与力や同心が固まって住んだ八丁堀で、このように同じ任務に就く者達が固まって住む場所を「組屋敷」と呼びました。
 
 江戸の街には南北町奉行所がありました。但し、文禄十五年(1702年)から享保四年(1719年)までの十六年半ほどの間には中町奉行所もあったのですが、ここでは南町奉行所と北町奉行所のみを記します。

  この南北の奉行所に合わせて四十六騎の与力と三百人の同心がいました。与力の数を「騎」とするは、与力は騎乗が認められており、同心は馬に乗ることが許されていないからで、同じ御家人ですが、与力の方が格が上で、今日流に呼べば、与力が管理職で、同心は平社員です。
 与力には二百五十坪ほどの屋敷が与えられ、同心に与えられる屋敷は百五十坪ほどでした。

 今の時代から見れば広大な屋敷ですが、これは敷地面積であり、この土地に与力も同心も五部屋か六部屋の三十坪ほどの家が建てられていましたので、広々とした庭があり、この庭で躑躅(ツツジ)を育て、植木の仲買人に密かに売って副収入とできました。


  意外と知られていませんが、南北町奉行に所属する与力四十六名の俸給は、全員合わせて一万石の所領が与えられており、仮に四公六民、即ち、収穫物の四割が納められるとすれば、四十六名で四千石、一人当たりに平均して八十七石となります。
 同心は二十俵とか三十俵の俸禄ですが、治安維持と犯罪捜査の最前線にあって、余禄がかなりありました。
 又、この拝領屋敷を他人に貸すことは禁ぜられていましたが、幕末頃になると綱紀も弛み、屋敷内に長屋を建てて、博徒等を住まわせて高額の家賃を得た例もあります。
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