創作短編(44):直江兼續が詠む漢詩 -2/12 [稲門機械屋倶楽部]
2012-02 MWE36 梅邑貫
直江兼續は永禄三年(1560年)、坂戸城(現新潟県南魚沼市)で樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれ、幼名は与六でした。母は藤ですが、その名は蘭であったとの説もあります。直江兼續の生地については、現在の湯沢であるとの説もありますが、これは湯沢には樋口姓が多いことによります。
樋口惣右衛門兼豊は上杉謙信の陪臣でした。陪臣とは家臣の家臣
で、上杉謙信の幕議に居並ぶ直臣ではなく、役目は薪炭の調達で、高い地位ではありません。
一方、上杉家の総領である上杉謙信は戦国武将の一人として重きを成していましたが、生涯独身で子がなく、謙信の姉である仙桃院の実子景勝を養子にしておりました。謙信にはもう一人の養子がおりましたが、北條家から上杉家へ入った景虎です。
仙桃院は仙洞院とも書かれた文献がありますが、本名を綾と言い、長尾正景の正室でありました。その仙桃院がある日、五歳になった樋口与六を見て、その利発さと背丈の高いことに惚れ込みました。
斯くして樋口与六は長尾正景の屋敷へ移り、兼續の名を与えられ、仙桃院の次男である長尾景勝の近習となりました。このとき、与六は五歳、景勝は十歳でした。仙桃院には長男がおりましたが、早世しており、次男の景勝が上杉謙信の養子となり、やがて謙信の跡を継ぎ、上杉景勝と直江兼續の主従関係は終生のものとなります。
直江兼續は永禄三年(1560年)、坂戸城(現新潟県南魚沼市)で樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれ、幼名は与六でした。母は藤ですが、その名は蘭であったとの説もあります。直江兼續の生地については、現在の湯沢であるとの説もありますが、これは湯沢には樋口姓が多いことによります。
樋口惣右衛門兼豊は上杉謙信の陪臣でした。陪臣とは家臣の家臣
で、上杉謙信の幕議に居並ぶ直臣ではなく、役目は薪炭の調達で、高い地位ではありません。
一方、上杉家の総領である上杉謙信は戦国武将の一人として重きを成していましたが、生涯独身で子がなく、謙信の姉である仙桃院の実子景勝を養子にしておりました。謙信にはもう一人の養子がおりましたが、北條家から上杉家へ入った景虎です。
仙桃院は仙洞院とも書かれた文献がありますが、本名を綾と言い、長尾正景の正室でありました。その仙桃院がある日、五歳になった樋口与六を見て、その利発さと背丈の高いことに惚れ込みました。
「樋口殿、御長子たる与六、私に預けて下さらぬか」
「仙桃院様、嬉しき御言葉ではござりまするが、与六には未だ何も教えてはおりませぬ」
「構わぬ。私が然るべく与六の行く末を拓(ヒラ)きましょうぞ」斯くして樋口与六は長尾正景の屋敷へ移り、兼續の名を与えられ、仙桃院の次男である長尾景勝の近習となりました。このとき、与六は五歳、景勝は十歳でした。仙桃院には長男がおりましたが、早世しており、次男の景勝が上杉謙信の養子となり、やがて謙信の跡を継ぎ、上杉景勝と直江兼續の主従関係は終生のものとなります。
その樋口兼續はやがて景勝の命で直江家へ婿入りして船(セン)と所帯を持ちます。お船の方は与板城主直江景綱の娘ですが、直江家に男子が生まれなかったため、長尾藤九郎を婿に迎えて直江信綱と名乗らせましたが、その信綱が天正九年(1581年)に不慮の死を遂げ、その跡へ樋口兼續が婿入りしました。船は兼續より二歳ほど年上の姉さん女房でした。
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