玉縄城築城500年 -1/2 [時々懇]
村尾さん: 写し 西島さん:
大船が「玉縄城主本多正信の城下町」とのお説、大船近隣の町村と住民は大賛成の筈で、ただ大雨のアト水があふれ出るだけで他に取り柄が無いので声をあげる自信がありません。
マリヤも数年前まで何度も水浸しになりました(ここ二三年はカミソリ護岸でなし)。小生は日本映画最高傑作「東京物語」の制作地としてウル以外無いないといってるのですが... ほんの冗談と云われますが、今年サイコウの冗談で小生連休中ズッーと引きずられました。柏尾川の水運を利用して、もとは近隣でどうにか産出できるアワの集散と積出地で、その「アワ船」で大いに賑わったことから転化していつの間にかこの地大船と云われたとも...。
幾つかの歴史散歩やフォーラムに参加し、自分ではあの辺土地勘あると思うのですが、1,512年北条氏が関東進出の拠点にしたが、東海道(陸路・海路)整備発展と共にそのルートから外れてたので徐々にさびれた...というのが筋書きのようです。
今年築城500年イヴェントが結構幾つかあり参加する積りです。
本牧・八聖殿のアノ講師のレジメから下記二つ転載させて貰います。
(毎度自分の意見・コメントがなくてすいません)
玉縄城と大船 [稲門機械屋倶楽部]
http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-2
江戸時代初期に造られた東海道が、僅かな距離で大船から離れてしまったのは何とも不思議なことです。
想像する以外に術がありませんが、やはり柏尾川の氾濫と大船が低地に立地していたことが主因でしょうか。
或いは、徳川家康も源氏を名乗っていましたから、源氏の聖地たる鎌倉から東海道を少しでも離しておきたっかのか。
ともあれ今の大船、広過ぎず狭過ぎず、森田さんが徘徊するには恰好の街並みです。
by 村尾鐵男 (2012-05-12 08:09)
横須賀線から東海道線への乗換と、「鯵の押し寿司」を購入する所
by hanamura (2012-05-13 11:07)