創作短編(42):板額御前 -4/10 [稲門機械屋倶楽部]
2012-04 WME36 梅邑貫
.
翌年、建仁元年(1201年)早々、城資職は僅かな手勢を引連れて上洛し、後鳥羽上皇に源氏追討の宣旨を下すよう働き掛けますが、上手く運ばず、反対に追われる身となりました。
二月二十二日、城資職は郎党と共に吉野山に逃れているところを発見されて討たれました。
.
話は冒頭の建仁元年(1201年)三月の越後鳥坂城に於ける板額御前と甥の城資盛の場面へ戻ります。
.
「叔母上は、叔父上が京より発しましたる最後の文をお読みでござりましょう。如何お思いでござりましょうや」
「読まんで何としようぞ、資盛殿。吾が兄、資職殿、私には長茂殿と呼ぶ方が懐かしいが、兄者も既に亡くなられた。その兄を取り立ててくれた梶原景時殿も亡くなられておる。さらに上の兄である資永殿は十年も前に亡くなられておる。今や、城一族は資盛殿、そなたとこの私のみぞ」
「資盛、よう承知しておりまする。しかも、吾等は今や源頼家の御家人ではござりませぬ。朝廷より追討されし平家に戻りましてござる。吾等、最後の平家にござりまする」
「左様、吾等は最後の平家ぞ。吾等、城一族は誇り高き平家ぞ。資盛殿、お覚悟は宜しゅうござるな」
「叔母上が申されずとも、覚悟は既に固まっておりまする」
「ところで、攻め手の敵は誰ぞ」
.
資盛は首を伸ばして外を観る仕草をしましたが、森に身を隠した敵の軍勢が見えるはずはありません。
「物見の者の報せでは、佐々木盛綱の軍勢とのことでござりまする」
「佐々木盛綱は鎌倉の御家人。確か出家したはずだが。私は木曽義仲と戦うてみたかったのだが」
「出家したにもかかわらず、鎌倉より吾等を追討せよと命ぜられ、再び兵を挙げたようでござりまする」
「平家は既に壇ノ浦で亡び、残りたる吾等が最後の平家。いずれにせよ、よき勝負となりましょうぞ」
コメント 0