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創作短編(41):支倉長徑、後に常長 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2012-03 WME36 梅邑貫

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  サン・ファン・バウティスタ号は支倉長徑の一行がスペイン本国へ赴き、さらにローマまで道程を延ばしている間、ただアカプルコの港で待機していたのではありません。

 その間に、仙台藩士横澤将監(ショウゲン)吉久が船長を務め、スペイン人の鉱山技師と銀の精錬技師を石巻まで届けて、再びアカプルコへ戻っています。

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 日本人による太平洋横断航海は幕末の勝海舟による咸臨丸の航海を私達は誰もが知っておりますが、その二百五十年ほども前に、日本で建造したサン・ファン・バウティスタ号が、スペイン人の助けを借りたとは思いますが、太平洋を日本人の手で横断し、しかも二往復もしております。

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 元和六年(1620年)八月二十四日、支倉長徑は帰国しました。支倉長徑が石巻の月の浦を出航したのが、慶長十八年(1614年)一月二十五日ですから、六年半に及ぶ大航海であり大旅行でありました。

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 しかし、この六年半の間に日本も大きく変わっていました。先ず、スペインとの交易に熱心であった徳川家康が、支倉長徑が帰国する四年も前の元和二年(1616年)四月に没しており、さらに遡り、支倉長徑が石巻を出航した慶長十八年(1614年)の十二月には徳川二代将軍秀忠によってキリスト教禁止令が全国に発せられていました。

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「殿、エスパーニャとの交易を段取りできぬままに戻りましてござりまする」と、長徑は藩主伊達政宗の前で頭を深く下げました。

「六右衛門、深う考えるではない。大御所様がお亡くなりになり、世の中、凄まじく変わり申した。六右衛門はキリシタンに改宗したそうだな。まことか」

「はっ。エスパーニャとの交易を取り決めまするに、調法かと思い至ってござりまする」

「そうか。今はのう、それなる故に六右衛門の命が危ぶまれる。暫し、目立たぬように逼塞しおるが賢明であろう」


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