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創作短編(41):支倉長徑、後に常長 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2012-03 WME36 梅邑貫

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時    :慶長十四年(1609年)より元和八年(1622)

場所  :仙台藩、その他

登場人物:支倉長徑、伊達政宗、その他

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 私達が支倉常長(ハセクラ・ツネナガ)として知る人物は、伊達政宗が藩主であった頃の仙台藩の藩士で、支倉六右衛門長徑(ナガノリ、又は、ナガミチ)です。

 長徑は元亀二年(1571年)、千二百石取りの武将山口常成の子として生まれますが、未だ子に恵まれていなかった伯父である支倉時正の養子になりました。ところが、時正に実子久成が生まれたため、陸奥仙台藩の藩主伊達政宗の裁定で、千二百石を六百石ずつに分けて長徑と久成が跡を継ぎました。

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 支倉長徑は文禄・慶長の役で朝鮮へ渡り、足軽と鉄砲の組頭として活躍しました。この戦いは、文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮半島を戦場として明国軍と李氏朝鮮軍を相手にして干戈を交えた戦いで、翌文禄二年に講和が成って停戦し、この講和が壊れて慶長二年(1597年)に再び戦いが始まり、慶長三年(1598年)に秀吉の死を以って日本軍は朝鮮半島から帰国しました。文禄・慶長の役の頃、支倉長徑は二十歳代の初めから半ばの年齢になり、地位は組頭ですが、立派な武将の一人でした。

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 慶長十四年(1609年)九月四日、異国の大船が上総國岩和田村の浜で座礁して壊れてしまいました。この場所は現在の千葉県夷隅郡御宿町です。

 船は「サン・フランシスコ」号と呼ばれ、当時のスペイン領であったフィリッピンの総督ドン・ロドリゴが帰任すべく乗り、やはりスペイン領であったヌエバ・エスパーニャ(新しいスペイン)、今のメキシコのアカプルコへ向かう予定でしたが、台風に遭遇して御宿の海岸に漂着しました。

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 岩和田村の人達が懸命に救出し、三百十七名を救い、五十六名が残念ながら行方不明となるか死亡しました。この縁で、御宿とアカプルコは今も姉妹都市の関係にあります。


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