創作短編(40):渡辺崋山 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]
2012-03 WME36 梅邑貫
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モリソン号が浦賀沖へ現われた天保八年(1837年)六月の二ヶ月前に徳川家慶が将軍に就き、水野忠邦が起用されて老中になりますが、天保十年(1839年)十二月二日に老中首座に昇進し、天保十二年(1841年)の閏一月から天保の改革に着手します。
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水野忠邦は、改革に際して、西洋事情に詳しい尚歯会の考えを聴こうと考えるのですが、それに強硬に反対したのが目付の鳥居耀蔵です。鳥居耀蔵は後に南町奉行にもなりますが、その厳しさ故に江戸の町民から嫌われ、甲斐守に叙任されていたこともあって、鳥居甲斐守耀蔵をもじって「妖怪」と呼ばれました。この妖怪は、後に上司である水野忠邦を讒言によって辞職へ追い込んだほどですから、並みの妖怪ではありません。
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モリソン号事件の後、幕府は江戸の海の測量をやり直すことに決めました。当時、東京湾なる言葉はなく、今の東京湾は「江戸の海」と呼ばれており、幕閣は鳥居耀蔵に西洋の学問に造詣の深い韮山代官江川太郎左衛門英龍の協力を得て測量を行うよう命じます。
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ところが、詳しい事情が判らないのですが、鳥居耀蔵と江川英龍は測量方法を巡って対立し、別々に測量することになりました。
鳥居耀蔵は幕府で儒学思想の下で官僚を育成する大学寮、今で言えば人事院の責任者を務めた林大学頭述斎の子で、旗本鳥居成純に婿養子として入りました。
一方、韮山代官江川太郎左衛門英龍は砲術を学び、近代西洋科学を取り入れて反射炉を建設して大砲をも製造した人物ですから、昔ながらの測量方法と西洋式測量方法で対立するのは当然でしょう。
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「崋山殿、吾等は吾等で測量致すことに相なりましたぞ」
「それはようござった」
「お力をお貸しいただけますな」
「勿論。委細憚らずにお助け申す」
かくて、渡辺崋山も加わって、江戸の海の測量が開始されるのですが、これが導火線となって、鳥居耀蔵の尚歯会への疑惑の目が注がれるようになります。
「江戸の海」と呼んでいたのですか。
by ぼくあずさ (2012-03-11 05:55)