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創作短編(38):江戸の悪党 鳶沢甚内 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                            2012-02 MWE36 梅邑貫

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「そうか。ならば富沢甚内と致せ」

「大御所様より名を頂戴致し。有難きことにござりまする」

「日本橋の大伝馬町の南に、街並みの空きたる一画があるが、甚内、配下を集めてその場所へ移るのじゃ」

「はっ」

「以後、古着屋が集りしところを富沢町と呼ぶ」

「はっ」

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 家康の言葉に甚内が異を唱えることはできません。その後、江戸時代の日本橋富沢町は古着の町として知られますが、今も日本橋に富沢町が存在し、そもそもは家康と甚内のこの話から始まりました。

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 創作短編(37)で登場した向坂甚内は、短い期間ではありましたが、箱根山中に隠れ住んで風魔と共に過ごした時期がありました。その向坂甚内が江戸へ来て悪行を重ねますが、その居所を突き止めるのに富沢甚内が力を貸しております。

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 富沢甚内とその一味は日本橋富沢町で古着の商いを発展させて、富沢町と言えば古着商の街となったのですが、やがて江戸の人口が百万に達し、江戸の街並みが拡大するに従って、富沢町だけで古着を商うことが、江戸の町民には不便になりました。

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 江戸府中とは、千住、内藤新宿、品川の宿と、後に隅田川と呼ばれる大川に挟まれた地域を指し、さらに後には大川を跨いだ深川も江戸の一部として取り込まれます。

 仮に品川宿の近くに住む町人が衣替えの度に日本橋の富沢町まで古着を抱えて出掛けるのは大変ですから、富沢町以外の場所にも次第に古着屋が営まれるようになりました。

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 元和二年(1616年)四月、徳川家康は七十五歳で没しますが、それを聞き及んだ富沢甚内は静かな一言を洩らしました。

「大御所様、お亡くなりになられたか。わしも、ようここまで生き延びたものよ。風魔も近頃は見掛けんようじゃ。わしも静かに姿を消すか」                      

(了)


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