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創作短編(38):江戸の悪党 鳶沢甚内 -6/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                              2012-02 MWE36 梅邑貫

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  しかし、江戸の古着屋は鳶沢甚内とその一味が商う店だけではありません。

 江戸は百万都市と言われますが、武家と町人を合わせて江戸の人口が百万人ほどになるのは享保年間(1720年代)の初めの頃であり、ほぼ半数を占めた町人の数が五十万を越えております。

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 徳川家康が盗賊の鳶沢甚内に古着屋を営めと命じた慶長年間(1596-1614年)の初めの頃はまだそれほど江戸の人口は多くありません。

 徳川家康が江戸幕府を開いてから六年後の慶長十四年(1609年)、スペイン人でフィリッピン臨時総督のロドリゴ・デ・ビベロが江戸で徳川家康に会っていますが、その旅を記録した「日本見聞記」には江戸の町人人口を十四万と記しています。

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 十四万の人口が実感として掴めないので、私が住む横浜市保土ヶ谷区の人口を調べたところ、平成2381日現在で206千人でした。保土ヶ谷区の賑わいから察して、十四万町人の当時の江戸で古着屋の商いが成り立つその繁栄振りが容易に察せられます。

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 ほどなくして、鳶沢甚内は再び徳川家康に会う機会を得ました。徳川家康による江戸幕府も次第に統治体制を整え、その最高峰に位置する徳川家康に誰でも容易く会えることなくなっていましたが、慶長十年(1605年)四月、家康が将軍職を嫡子の秀忠に譲ってからは、家康は大御所として政治の実権を握り続けてはいましたが、鳶沢甚内のような人物でも会える機会を与えられました。

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「どうじゃ、古着の商いは滞りのう参っておるか」

「はっ。上様のお陰をもちまして、繁盛しておりまする。さらに、上様御見通し如く、怪しげなる者達もよう網に掛かりおりまする」

「うん。聞いておるぞ。して、本日は如何なる用件じゃ」

「盗賊その他、上様の御政道に刃向い、邪魔立てする者をさらに引き寄せんがため、この鳶沢甚内に古着を一手に商わせていただきとうございまする」

「余人に古着の商いをさせるなと申すのか」

「はい」と答えて鳶沢甚内は平伏しました。


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