創作短編(37):江戸の悪党向坂甚内 -5/10 [稲門機械屋倶楽部]
2011-10 WME36 梅邑貫
. 慶長十五年(1610年)、宮本武蔵は高坂甚太郎を連れて遂に江戸へ入りました。宮本武蔵については判らないことが沢山あります。先ず、京へ上って吉岡一門と闘った時期です。慶長九年(1604年)、二十一歳のときとする説が一般的ですが、異説が多々あります。さらに、佐々木小次郎との有名な巌流島の決闘では、その時期が武蔵十八歳の慶長六年(1601年)から二十九歳の慶長十七年(1612年)までの間に説が分かれます。
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さらに、宮本武蔵の江戸での行動もよく判らないのですが、京で吉岡一門を倒してから、巌流島で佐々木小次郎と闘うまでの間に江戸へその姿を現したようです。
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江戸では神田のお玉ヶ池に剣術道場を開いたと記述する書があるのですが、お玉ヶ池が剣術の道場で勇名を馳せるのは、はるか後年、千葉周作が道場を設けた幕末の嘉永年間の頃のことで、慶長年間のお玉ヶ池は神田川下流の人気のない池があっただけのようです。ですから宮本武蔵が道場を開いたとしても仮の住まいのような粗末なものであったろうと推察されます。尚、お玉ヶ池は、現在の神田岩本町の辺りで、お玉稲荷があります。
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武蔵が江戸へ来た慶長十五年(1610年)、幕府の剣術指南役であった柳生新陰流からの挑戦を受け、武蔵は柳生一派の大瀬戸隼人と辻風左馬助を倒しました。
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高坂甚太郎は、摂津から江戸までの道々、武蔵に従い教えられ、続いてお玉ヶ池の道場で厳しく鍛えられたこともあって、甚太郎の剣は優れた体格にも助けられて格段に上達しました。この頃のある日、武蔵は甚太郎を呼び、静かに語り掛けました。
「甚太郎、精進目覚しく、我が新免二天流(シンメンニテンリュウ)の奥義も間近であろう。だが、精進を忘るるでないぞ」
「はい」
「さらに申せば、剣はときに人を殺める。父高坂昌信の名を汚さぬように致すには、甚太郎、そちの剣より邪気を消さねばならぬ。邪気を消すには、邪念を廃することだ」
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