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創作短編(37):江戸の悪党向坂甚内 -3/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                   2011-10 WME36 梅邑貫

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 高坂對馬と孫の甚太郎は摂津の芥川に庵を編んで目立たぬ生活を始めました。摂津の芥川とは今の大阪府高槻市です。

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 ところで、この高坂對馬と甚太郎のことですが、新旧複数の書にその名が現れるのですが、詳しいことが判りません。冒頭で記したように高坂昌信の本名は春日虎綱で、父親は「甲斐・石和の百姓春日大隈」であったと記録されています。長じて永禄四年(1561年)に香坂宗重の養子となって香坂家を継ぎ、高坂として知られます。しかし、高坂昌信の名は出家後のものとの説もあります。

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 高坂昌信には三人の男児がおり、上から昌澄、信達、昌定の順で、いずれもその履歴が明らかで、幼名であれ甚太郎の名は見付けられません。

 さらに高坂對馬も何者であるか、よく判りません。察するに、甚太郎は春日虎綱が正室以外の者、たとえば愛妾に生ませた子であろうと想像され、高坂對馬も、高坂の名を名乗ってはいても、甚太郎の母方に連なる者と想像されます。

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 高坂對馬と甚太郎が攝津の芥川に落ち着いたのが何時の頃かが明らかになりませんが、甚太郎の父親高坂昌信が亡くなったのが天正六年(1578年)ですから、その翌年の頃と推察されます。この頃の摂津はキリシタン大名高山右近が宰領しておりました。高坂對馬と甚太郎はキリシタンではなく、又、キリシタンに改宗もしていませんが、上杉や北條の目を逃れるにはキリシタン大名である高山右近の領内に隠れることは一つの着想であったと考えられます。

 又、摂津の芥川は当時の西国街道の芥川宿ですが、現在はJR高槻駅の西北、徒歩5分ほどの場所に大阪府の遺跡として残ります。

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 ある日、甚太郎が祖父高坂對馬と隠れ住む庵を訪ねて来た者がおります。甚太郎は既に成長して立派な体格の持ち主となっており、力自慢でもありましたが、その甚太郎が思わず後退りするような眼光鋭い武者が目の前に立っていました。

「通りすがりの者だが、一夜の宿を貸してもらえぬか」

  人品に卑しさもなく、怪しい気配も感ぜられないので、高坂對馬は頷いて中へ招き入れました。


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