SSブログ

創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -8/15 [稲門機械屋倶楽部]

                                                             2012-01 WME36 梅邑貫

.

sutematu 1.jpg明治十五年(1882年)も押し迫った頃、山川捨松はアメリカでの十一年間の学業を終えて日本へ戻りました。捨松は、当時の世界標準では立派な女性として知性も知識も備えていましたが、明治初期の日本では違いました。「アメリカ帰り」と後ろ指を差され、遠巻きにして異人でも見るような眼差しに曝されて捨松は幻滅を感じました。

.

 その意気消沈する捨松に母の艶がこもごもと語り掛けました。

「捨松はね、十二のときから二十三になるまでアメリカで暮らしたから、無理もないよ。日本の文字も満足に書けないんだろう。他のお宅のお嬢さん達はとっくに嫁いでいるんだよ。捨松をもらってくれる人がはたしているだろうかね」

.

  山川捨松はアメリカの大学を卒業した最初の日本女性となりましたが、今で言う帰国子女の問題を一手に抱え込むことになりました。

  山川捨松と共に、官費留学十年を全うした津田梅と永井繁のことですが、津田梅は独り離れてジョージタウンの学校で学びました。ジョージタウンは今では首都ワシントンの一部になっていますが、当時は別の独立した都市でした。永井繁は捨松と同じヴァッサー大学に学びましたが、捨松が一般学部(Liberal Art)を専攻したのとは異なり、付属の音楽学校へ進んでいます。でも、ヴァッサー大学は全寮制で、この二人はその寮に寄宿したので、よく会うことができました。

「繁子さん、私達二人だけのときは日本語でお話をしましょうよ」

「そうよ。さもないと、日本語が怪しくなって、帰ってから困るでしょうからね」

 でも、日本から二人のところへ新聞や雑誌が届けられるはずもなく、彼女達の日本語は退化しました。 尚、捨松の実兄である山川健次郎は同じニューヘイヴンに本拠を置くイエール大学(Yale University)で物理学を専攻して学士号を得て、捨松より一足先に帰国しています。

.

 この頃、捨松は親友のアリスに手紙を送り、「アリスに判るかしら。私、二十三でもう売れ残りなのよ」と歎いています。

 帰国して悶々たる日々を送る山川捨松に縁談の話が舞い込みました。相手は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの参議・陸軍卿の大山巌です。大山巌は妻を亡くして後妻を探していました。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。