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創作短編(35):謀臣本多正信 -7/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-12 WME36 梅邑貫

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天正十年(1582年)六月三日未明、京都の本能寺で織田信長が明智光秀の急襲を受けて自害したとき、徳川家康は僅か三十名ほどの供廻りで堺の街を見物していた。

如何なる事態に陥っても活路を見出す徳川家康も、本能寺の変の一報には狼狽を隠せず、明智光秀が手勢の少ない自分を次の標的にすると予想して半ば諦めの境地にも入り掛けた。その絶体絶命に近い徳川家康を救ったのが本多正信である。

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「殿、伊賀を越えて三河へ戻れまするぞ」

「正信、確かに堺と三河は地続きじゃ。だが、出来ることと出来ぬことがある」

「殿、我等に算段がござりまする。この正信、諸国を遊び呆けて巡り歩いたのではござりませぬ。いまこそ、その折の伝手(ツテ)が役に立ちまする。加えて、服部半蔵正成殿もおられますぞ」

 徳川家康は、堺から伊賀を越えるまでは得心できたが、まだその先に不安を覚えた。その家康の落ち着かぬ表情を正信は読み取った。

「殿、御安心なされ。尾張を突っ切るが如き無謀なる賭けは致しませぬぞ。伊賀を越えたる後、伊勢にて船を仕立て、勝手知ったる駿河の海へ帆を張るのみでござる」

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 徳川家康は用心深く、決して一か八かの猪突猛進はしない。人を選ぶのも同じで、情に溺れて不用意に危険な者を近着けることもしない。本多正信が一度は家康に歯向った過去を持ち、大久保忠世の仲立ちもあったが、その言動を常に用心深く見続けた。だが、この天正十年六月の伊賀越えを境に、正信の智謀に惚れ込んだ。

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 慶長四年(1599年)閏三月、正信の智謀に従って、石田三成を次男の結城秀康に佐和山まで護り送らせてから、秀吉恩顧の武将が次第に旗識を明らかにし、加えて正信の調略もあって、関が原の合戦で天下を制した。

 後年、慶長八年(1603年)二月十二日、徳川家康は京都の伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、念願の徳川江戸幕府が開かれたが、これも謀臣本多正信の言を容れたことによる。


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