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創作短編(30):番外編:江戸城大奥 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-10 WME36 梅邑貫

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八 御台所は寂しい

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 大奥の主は将軍正室の御台所であると記しましたが、将軍はその気になれば一日に何回も大奥へ入れましたが、御台所が夫である将軍の執務場所兼居室である表や中奥を訪ねることができるのは、一生に一回の「御表拝見」と称した行事のときだけで、この機会に恵まれなかった御台所も少なからずおりました。

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  三代将軍家光の御台所は鷹司孝子でした。鷹司家は京の公卿で、後には関白を歴任する名家ですが、その鷹司家の娘が家光の正室として嫁ぎました。しかし、家光と孝子の関係は、何故かよく判りませんが、険悪そのもので、事実上の夫婦関係はなく、子供もできませんでした。

 御台所は、本人にとっては苦痛ではあっても、夫の将軍のために側室や愛妾の存在を認め、大奥そのものを運営する責任を帯びているのですが、家光の時代には乳母の春日局がいて、大奥の運営は春日局が掌握していました。

 家光は正室の孝子がよほど嫌いだったようで、江戸城内の吹上に中の丸御殿を建てて、ここへ孝子を大奥から移してしまいました。

 家光は慶安四年(1651年)に四十八歳で没しますが、そのとき五十歳であった御台所孝子に遺された形見は金五十両と僅かな茶道具であったと伝えられます。

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 御手付中臈や汚れた方の大奥女中が将軍の子を産めば「御腹様(オハラサマ)」と呼ばれ、将軍の跡継ぎを産めば「御袋様(オフクロサマ)」と呼ばれて、まさに玉の輿となりました。

「玉の輿」は家光の側室で、五代将軍綱吉を産んだ「お玉の方」が語源との説もありますが、大勢の研究者がほぼ調べ尽くしてはいますが、未だ確実な説とはなっていません。

 私の義理の祖母の母親は徳川幕府最後の十五代将軍に大奥で仕えた腰元だったのですが、祖母の話では「お清」のままだったそうです。 この話、これでお終いです。


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ねじまき鳥

家光は女嫌いだったという説もありますね。
by ねじまき鳥 (2011-10-26 01:23) 

梅邑貫

「ねじまき鳥」さんと皆さんへ
御愛読いただき有難うございます。
徳川三代将軍家光の女嫌いは有名ですが、だからこそ乳母の春日局が家光が気に入りそうな娘を必死に探して大奥へ入れ、その結果、八人の側室を持つに至りました。
八人もの側室を持った家光は本当に女嫌いだったのか、大いに疑問です。
正室の他に側室や愛妾を持つのは世継ぎを作るためでもありますが、家光の息子二人が四代将軍と五代将軍になっていますから、その意味では家光は立派に任務を果たしました。
by 梅邑貫 (2011-10-26 08:04) 

ばん

歴史好きの僕にとって勉強になりました。
by ばん (2011-10-26 10:18) 

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