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ヤード・ポンド -1/4 [和田の泊りより]

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時々懇) 森田さん

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正論、有難うございました。面白く読ませていただきました。

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歴史などと言うものは、真実は一つの筈ですが歴史的に歴史書は時の為政者と言うか権力者の手によって都合の良いように捻じ曲げられるのが通例です。従って一つの歴史観だけでなく複数の歴史観を同時に見せると言うのは良い考えだと思います。日本人はお人好しですから余り疑うと言うことなどせずに何か言われるとそのまま鵜呑みにする傾向があります。そこで子どもの時からこのように物事を裏表から観るというのは論理的にも良い教育方法だと思います。

今の民主党のように物事を一面的にしか観ることが出来ない政治家に一番に教えてやりたいことですが。

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ヤード・ポンド

ここで話を脱線させます。アメリカでは未だにヤード・ポンド法を使っており温度も華氏を使っています。そこでメートル法に慣れた若いエンジニアなどはヤード・ポンド法を嫌がるのですがそんなときに私は、エンジニアなら物差しを二本以上持てと言ってやるのです。これはハードとしての物差しの意味もありますが頭の中の物差しも複数もって色々な角度から物事を見ろという意味なのです。

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同じ図面でもメートル法で見るのとヤード・ポンド法で見るのは違って見え、矢張り書いた人の気持ちが伝わって来るような気がします。そしてエンジニアが物事を一面的にしか観ることが出来ないのは危険であるとさえ思っています。今回の原発事故にしても安全性は十分検討されていると思いますが、ただ問題は上手(かみて)から、こうしておけば安全だというシステムを作っているのだと思います。逆の見方でメルトダウンを発生させるような条件は何かという発想から始めてそれに対する対処法を考えて行くと違った答えが出たような気がします。

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電車の話になって恐縮ですが、電車のドアは全てのドアが完全に閉まらないと運転士の前にある表示灯が点灯せずまたモーターともインターロックがとってあるので電車は走れない筈なのですがそれでもドアが開いたまま走ったと言う故障がたまに起こります。技術屋に言わせるとそんなことはあり得ないと言う答がほぼ100%返って来ます。

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確かにあり得ない筈なのですがしかし実際に起きる。これもこのようなことが起きるための条件を考えてみると各ドア毎に付いて全て直列に接続されているリミットスイッチのどれかがが固渋している、或いは接点が溶着していることがあると考えれば実際に起こってもおかしくないことになります。

                                                               月川@神戸


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noga

英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。

現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。

真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。

現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。

日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。

西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。

英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。

考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。

物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。

究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。

国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

by noga (2011-09-28 05:23) 

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