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東京裁判と民間人(非戦闘員)の殺戮 -3/5 [和田の泊りより]

                                                                               .by 月川善雄

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②空襲翌日

九死に一生を得た我々の顔は真っ黒。目も脂で十分に明けることができませんでした。自宅に帰る途中の光景は地獄さながらでした。川の水面は死体と漂着物に覆われ水面が見えないほどでした。道々には焼死体がいたるところにあり、途中寄った防空壕も焼失し焼死体が沢山ありました。焼失した家に帰ってみると助かったのは隣組で我が家だけだったようで、指定された広場に逃げた人や、防空壕から動かなかった人は助からなかったようです。クソまじめな父のお陰で最後に逃げたのが幸運に繋がったと思っています。

帰ってしばらくすると高粱が配給になり、焼け爛れた鉄兜であちこちで漏れている水道で煮て食べました。

以上毛利さんの体験談

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前置きが長くなってしまったがこの東京大空襲は一晩で10万人の人間を焼き殺してしまった非人道的な空襲で立派な戦争犯罪を構成すると思うのですが、日本人は例の洗脳で自分が悪かったことばかり考え、他人の悪業について何も言っていない。しかしこの後の広島・長崎でさらに数十万の非戦闘員を瞬時に殺戮した行為と共に世界に向かってその非道を訴えるべきではないか。それが戦火に焼かれた無辜の民の無念に対する鎮魂となるのではないか。

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先日NHK総合TVで「二度と原爆を使ってはいけない」と題する番組を見ました。これは戦後、長崎軍政部に司令官として着任したアメリカ陸軍中佐ビクター・デルノアについての物語です。彼は戦車隊長として欧州戦線で活躍しドイツに向かって進撃する途中、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の跡を目撃しその非道ぶりに怒りを覚える。

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戦後、彼は英雄として昇進し、長崎に着任するのだが、そこで彼が見たものはナチスとは桁違いの大量殺戮がアメリカの手で行われたことだった。彼はトルーマン大統領は過ちを犯したと言い軍人の身でありながら政府を批判した。そして昭和23年には平和祈念式典の開催を認めそこへ送ったメッセージには「原爆は人類を破滅に導く無用の長物であり、二度と使ってはいけない」と記されていた。また原爆に関する言論統制が厳しかった当時、14歳の少女が綴った原爆の体験記の出版を認めるようGHQの上層部に何度も働きかけたが、当然のことながら認められることは無かった。この時期は東京裁判とダブっておりGHQはその影響を懸念したのではないかと言われている。そして彼は常に原爆の火で焼かれた長崎の天主堂の絵を身近に置いており13年前に亡くなる前に長崎で生まれた娘のパトリシアにその絵を託す。

彼女は今年、生まれ故郷である長崎を訪れ父は何も言わなかったが(多分言おうにも言えなかったのではないか)学校では原爆投下については教えられたがこのように大勢の人間が死んだことについては何も教わらなかった、アメリカに帰ったら友人達にこの事実を話すと語っていた。


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村尾鐵男

東京大空襲の3月10日の夜明け頃、疎開先の香川県の住まいで、近くの陸軍林飛行場から来た陸軍の兵士とトラックに起されました。父の長兄の家に疎開していましたが、大きな蔵が二棟あって、陸軍の戦闘機用機銃弾を預かりその蔵に保管していたのですが、その機銃弾を取りに来ました。
急ぎ東京の立川へ輸送機で送り、米軍の爆撃機を攻撃するために使うと言っていました。機銃弾は金属製のベルトで結ばれ、赤、緑、黄色の識別塗装が施されており、曳光、徹孔、爆装の順です。
どれほど役立ったのかは知りません。
by 村尾鐵男 (2011-08-25 11:59) 

ぼくあずさ

縁故疎開先の旧増戸村はB29編隊の帝都上空侵入ルート上にありました。阿伎留野にある高射砲陣地からの弾はB29 には届きませんでした。また戦闘機の急降下体当り攻撃は高々度を飛行している為、敵機を落とすのは稀でした。立川にあった家作は無事でした。飛行場は占領後の利用を考えて攻撃をしなかったと後に聴きました。
by ぼくあずさ (2011-08-25 15:06) 

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