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創作短編(27): 芋神様 青木昆陽 -5/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-08 WME36 梅邑貫

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二年後の享保二十年(1735年)、青木昆陽は「蕃藷考」(バンショコウ)を著し、大岡越前守を通じて将軍吉宗にも奉呈しました。

書名の「蕃藷」とはサツマイモのことで、青木昆陽は水が少なくても育つ蕃藷が救荒食物、即ち、飢饉や異常天候で農作状況が悪化した際の食物として好適であり、その栽培法や貯蔵法にも及んで研究を進め、「蕃藷考」でサツマイモの栽培を奨励するよう進言しました。

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江戸時代を通じて最大の飢饉は、この物語より五十年ほど後の天明三年(1783年)に起きています。「天明の飢饉」ではヤマセと呼ばれる北東の風が吹き続け、それがもたらす長雨で東北地方の太平洋岸を中心に大凶作となり、たとえば八戸藩では、人口が十二万から六万まで半減したほどでした。しかし、飢饉は天明三年だけではなく、規模の小さい飢饉が江戸時代を通じて幾度も起きていました。

戦国時代に終止符を打ち、戦乱のない平和な世の中を実現させた徳川幕府としては、飢饉によって一揆や暴動が起きることを最も嫌い、そのための諸策が講じられています。加えて当時の風潮がありました。それは古代中国以来のもので、「転変地変は為政者が徳を欠いているからで、天が怒っており、為政者を取替えなくては転変地変は治まらない」とする考えです。

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 青木昆陽の「蕃藷考」は将軍吉宗の目に留まり、やがて南町奉行大岡越前守忠相を通じて沙汰がありました。

「青木昆陽殿、上様がそなたに蕃藷を試しに育ててみよと申されておられますぞ」

「有難き御沙汰にござりまする」

「蕃藷を育てる場所でござるが、上様が三ヶ所を御指定になられた」

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 将軍吉宗が指定した場所は、江戸小石川の小石川薬園、下総國千葉郡馬加(マクワリ)村(現在の千葉市花見川区幕張)、上総國山辺郡不動堂(フドド、又は、フドウド)村(現在の千葉県山武郡九十九里町)の三ヶ所でありました。


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