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創作短編(23):遠浦帰帆圖と豊臣秀吉 -4/8 [稲門機械屋倶楽部]

                           2011-06 WME36 梅邑貫

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 天正十年(1582)六月二十五日、清洲会議が開かれました。この頃は未だ「会議」の言葉はなかったと想像されますが、議題は信長亡き後の後継者を誰にするかと領国の再配分、或いは再編成です。本来なら安土城で開かれる会議ですが、安土城は明智光秀の軍勢か夜盗に放火されて天主閣は炎上していましたので、信長の元来の本拠地である清洲へ重臣達が集りました。通常は天守閣ですが、信長の安土城だけは天主閣と呼びました。

 馳せ参じたのは柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の四人で、重臣の一人であった滝川一益は関東へ出陣していて参加できなかったようです。本来なら、織田信長と既に家督を継いでいた織田信忠が参加すべきですが、二人は明智光秀のために自刃し、もう一人の重臣であるべき明智光秀も既にこの世におりません。又、徳川家康は織田信長方の一員でありますが、重臣ではなく有力な盟友でした。

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 この清洲会議で、黒田官兵衛の策が冴えました。織田信長の重臣達の中では、柴田勝家が他に抜きん出た実力と地位を築いていたのですが、その柴田勝家は織田信長の三男である信孝を信長の後継として選びましたが、黒田官兵衛は信長と共に自刃した信忠の嫡子である三法師を後継者として選び、まだ二歳にもなっていない幼児の三法師を秀吉に抱かせて清洲会議に臨ませました。それだけではありません。黒田官兵衛は柴田勝家を除く重臣には事前に根回しを行って、三法師を信長と信忠の後継とすることに同意を得ておりました。

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 清洲会議の席上、三法師を信長の後継者とすることに丹羽長秀と池田恒興が賛同して、さらに秀吉が幼い三法師の後見人となることも認められて、秀吉が事実上の信長後継者となりました。依然として儒教の長幼の序と長子相続の思想の強い時代ですから、黒田官兵衛の策は図星でした。 

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尚、この清洲会議には柴田勝家が推挙した織田信孝は何故か欠席しております。信長には十二名以上の男児がおり、上から信正、信忠、信雄(ノブカツ)、信孝の順となりますが、信正の存在が確実に確認されておらず、信忠を長男とする説も有力です。


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