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創作短編(22): 遠浦帰帆圖と織田信長 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                   2011-06 WME36 村尾鐵男

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明智光秀では何故、織田信長を襲ったのか。諸説入り乱れております。

 巷間、最も多く流布されているのは、安土城で明智光秀が織田信長に面罵された恨みであるとする説です。

 五月十五日、信長は徳川家康を安土城へ招いて、永年の忠節を慰労するのですが、それに先立って明智光秀を家康接待の責任者に指名しました。ところが光秀が選んだ魚料理が臭いと言って光秀を叱り飛ばして解任し、家康接待が終わった後、五月十七日に光秀に中国へ出兵して秀吉を援けるよう命じ、光秀は安土城を辞して自らの居城である坂本城へ戻りました。

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 しかし、さらに気になることがあります。信長は博多の豪商であり茶人である者達を重用して、永年の関係があった堺の豪商や茶人との距離を開けました。ところが、信長に遠ざけられた堺の豪商や茶人を、光秀は自らの茶会に招き続けていました。

 そして、明智光秀と堺の豪商達が近い関係にあることを信長は知っていたでしょう。

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 この辺りの事情をよく知り抜いていた公卿の近衛前久は本能寺炎上の炎が一向に治まらない空を見上げて呟きました。

「惟任日向殿も、いささか目立ち過ぎたのう。だが、何もせねば、先の大将、信長殿の勘気を蒙るは必定。惟任殿は堺衆に唆されたのであろう。武人は単純なるが故の悲劇。ところで、博多から参った二人は逃げ遂せたかのう」

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ともあれ、天正十年六月二日未明、島井宗室と神屋宗湛は本能寺から逃げましたが、大広間を出るときに宗湛が、「どうせ燃えてしまうもの。頂戴しても罪にはなるまい」と言って、床の間から「遠浦歸帆圖」を外して懐に入れ、宗室も弘法大師の真蹟「千字文」を懐に入れました。

現在、弘法大師の真蹟「千字文」は博多の東長寺に、又、「遠浦歸帆圖」は国立京都美術館に所蔵されています。      (了)


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