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創作短編(18):源頼朝の妻北條政子 -9/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                        2011-04 WME36 梅邑貫

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  頼朝亡き後、長子の頼家が跡を継ぎ、北條政子は落飾して尼となり尼御台(アマミダイ)と称されたが、十八歳の頼家を補佐するために隠然たる影響力を発揮し続け、尼将軍とも呼ばれた

 鎌倉幕府第二代将軍となった頼家は幕府を支える北條氏と比企氏の争いによって、建仁三年(1203年)五月に鎌倉を追われ、配流先の伊豆修善寺で死亡した。

代わって頼朝と政子の次男である十二歳の実朝が第三代将軍となった。しかし、その実朝も建保七年(1219年)一月に暗殺された。

 政子が産んだ二人の娘は、大姫が二十歳で、三幡姫が十四歳で病死しており、政子は四人の子供を悉く失って寂しい晩年となった。

 しかし、政子はますます本領を発揮し、京の朝廷から僅か九歳の九条頼経(ヨリツネ)を招いて幕府第四代将軍に就け、政子はその後見役として幕政の実権を掌握した。

 それ以前、三代将軍実朝が暗殺されてから四代将軍に頼経が就くまでの七年間は政子が尼将軍として将軍職を代行しており、この間は将軍が不在であった。

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 鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」を読むと、頼朝の落馬は記録されており、頼朝の死亡も記録されているが、その間の因果関係については何も記されていない。しかし、通説では頼朝が落馬で負傷し、それが原因で死亡したと伝えられる。

 一方で、頼朝がかなり重い飲水病、即ち糖尿病であったとの記録が残っており、騎馬に馴れた頼朝が橋の渡り初めの如く、平坦な橋上に馬をゆっくりと歩かせて落馬するはずはなく、頼朝は重い糖尿病で通常の運動神経も鈍っていたか、手足も麻痺していたと推察するが妥当であろう。

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 北條政子は嘉禄元年(1225年)、六十九歳のときに病の床に就いて死亡した。墓所は鎌倉市の寿福寺にあり、実朝の墓の隣りに位置する。又、頼朝が開き、政子が引き継いだ鎌倉幕府の政庁である大蔵御所は、その跡地が現在の清泉小学校となっている。  (了)


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rtfk

大河ドラマの影響で
北条政子というと岩下志麻さんを思い出します
by rtfk (2011-05-24 23:16) 

シラネアオイ

こんばんは!サクラを始め牡丹、芍薬、薔薇等全て2ヶ月遅れです。菜園の野菜類も軒並み遅れています。でもこの寒い北国が気に入って居ます。
by シラネアオイ (2011-05-24 23:58) 

ぼくあずさ

シラネアオイさん
貴ブログをお訪ねしました。羨ましいお暮らしです。出光興産に出張する時は、忘れずに王子製紙のサーモンを買求めたものです。
by ぼくあずさ (2011-05-25 03:59) 

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