寒山寺の梵鐘 -3/4 [稲門機械屋倶楽部]
2010-12-23 WME36 村尾鐵男
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月落烏啼霜滿天 江楓夜泊轉凄然
兵戈破却寒山寺 複無鐘聲到客船
〈月落ちて烏啼いて霧天に満ち、江楓夜に凄然と泊転す
兵戈、寒山寺を破却し、複(マ)た客船に到る鐘声なし〉.
この詩は張繼の「楓橋夜泊」と初めの詠い出しは同じですが、その続きが大きく異なります。
明治六年(1873年)、明治政府の外務卿副島種臣が台湾出兵の後始末と日清修好通商条規の批准書交換のために清朝の首都北京を訪れた際に詠んだのが上記の詩です。.
副島種臣は文政十一年(1828年)の生まれですから、このときは45歳でした。佐賀藩の出身で、後には大隈重信と共に脱藩して尊皇攘夷の実現を目指して馳せ周りますが、漢学と漢詩への造詣が深く、数々の漢詩も詠っております。.
上記の詩は、寒山寺が清朝末の太平天国の乱で破壊され炎上した後の光景を詠っており、このときには有名な鐘が既に消失してしまい、揚子江の川面に響く鐘の音が聞けぬ状況であったと推察されます。
この副島種臣の詩は、清朝末期に洋務運動を激しく主張した康有為からも絶賛されたと伝えられるほどの出来栄えで、日本の教養人とその教養の高さを清朝の高官達に知らせることにもなりました。
尚、康有為はその意識に於いては副島種臣の尊皇攘夷と相通ずるものを持ち、西洋の知識文物を中国発展のために大いに採り入れるものの、西洋一辺倒にはならないとするもので、一度は清朝の改革を任されますが、その激しさに驚いた西太后に退けられてしまい、行動を共にした弟が捕らえられて処刑されたこともあり、康有為自身は日本へ幾度か亡命しております。
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