第2の天安門事件の予兆(3/3) [クアッド’(日米豪印)]
天安門事件が起きた年の2月、私は一人ビザが下り、北京からタクシーで周口店にある中国石
油公司へ向かった。放射状に延びた道路を間違え、電灯も消えた農村地帯の舗装もされていな
い道を暫く走り、漸く目的の地に辿り着いた。翌日仕事を終え、タクシーで北京原人で有名な
周口店へ。猿山の如き処でした。石油公司の顔馴染みの女性チーフに挨拶して北京へ戻る。
憧れの北京飯店、夕食時に異常な事が起きていることに気ずく。何を注文しても没有の答え、
何が食べられたか忘れた。晩は更に悲劇的でした、長い通路は電灯が消え、室内の暖房も消え
た極寒の北京飯店で一夜を過ごす。現在の中国は電力不足で電力は計画停電中だそうだ。
親中反米のドイツメルケル首相が香港や
第二の天安門事件の予兆(2/3) [クアッド’(日米豪印)]
私の中国とのお付き合いは1972年の北京での90日間の技術交流で始まった。この時は中国専門商社T
物産の残留孤児の通訳とE製作所の義市長と3名でした。ホテルは天安門近くの民族飯店でした。偶に
近くの北京飯店で食事した。相手は20名ほどでした。大学教授や工場の技師たちでした。会場は北京
動物園近くの中国輸出入公司でした。動物園ではパンダを初めて見物、八達嶺と公開されたばかりの
明朝の地下宮殿に上海2台で案内されました。日中国交回復直前の富士電機技術交流団の最年少団員に
選ばれ上海和平飯店に3週間宿泊しました。当時はポンドのトラベラーチェックを持参して外国人専用
の人民元に両替しました。相変わらず出入国は香港経由でした。北京では高価な硯とメノウの製の実印
を記念に買い求めました。後日、東電本店の部長の紹介で東大でDr.になったL女史と知合い、同済大、
天津大、清華大の先生方との交流が始まりました。K社長のご意向と思われるが当時の私の接待費は制
限なしでした。