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徳川家綱・綱吉の時代 [フリューレン村だより]

                by ぼくあずさ


高久の嫁は、幕府の実権を握っていた大老、酒井忠清の娘で
した (これも公儀随一の実力者との間に縁戚関係を築く手段
でした。) が将軍が家綱から綱吉になった時、忠清が失脚し
高久自身の身も危うくなります。
酒井忠清は失脚すると程なく没したましが、その死に疑いを
抱く綱吉が二度にわたり検視の使者を酒井邸に出した。
隙あらば取り潰そうというわけですが、その時酒井邸につめ
ていた高久が応対して死骸を見せずに追い返しました。
(切腹ならお家お取り潰し、藤堂家にも累が及びます)酒井家
ではこれを恩義とし、藤堂家よりも遅れて門松を飾ることに
したといいます。

その後、柳沢吉保(下屋敷が隣同士)にとりなしてもらい
やっと徳川綱吉の御勝手詰(将軍の御成前に御成先の屋敷の
勝手に控えてお迎えする)を勤めていたりしたので将軍家へ
の忠節を示すためにも天台宗のお寺の隣りの山にと遺言した
のでしょうか。徳川綱吉は柳沢吉保家に五十八回にわたって
訪問したといわれている(一説には吉保の妻と不倫関係にあ
った)ので御勝手詰としても通常より目をかけられたのでし
ょう。

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