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筑豊貝島炭鉱 [エネルギー]

                           by ぼくあずさ

下関にお住まいのSone友の方からniceをいただいたのを機に義母が
小学6年生になるまで住んでいた下関について思いをめぐらしました。

学生時代の昭和35年、機械科恒例の工場見学旅行で八幡製鉄と
小倉の東洋陶器を見学した。東洋陶器が準備した宿での歓迎スピーチ
は今でも忘れない。「皆さんの先輩は誰一人わが社に就職してくれま
せんでした。皆さんもそうだろうと思います。これからの会社生活の中で
一流ホテルに泊まることになるでしょうが、便器にわが社のマークが
あることを確認していただきたい。おわり。」
私一人宴を中座して開通間もない関門海底歩道を往復しました。

日比谷高校卒の学友が八幡製鐵に就職したが、毎年破格の歓待を
してくれる東洋陶器へはゼロでした。
なお機械科80名の見学旅行は名古屋、京都、大阪、神戸、広島、宇部
を経て九州に入りました。宇部興産では沖の山海底炭鉱の採掘現場
見学を私一人参加せず、秋芳洞を見物してから次の見学先のマツダ
宇品工場が用意した宿泊場所で学友たちと合流しました。

今思うと私の未知の土地への興味、ボヘミアンな性格がなせる行動
だったことが分かります。因みに国内では大隈重信公の生誕地佐賀県
だけは一度も宿泊したことがない。火力関係の顧客がなかったことが
理由と思います。

貝島太市義母は神戸須磨生まれだが父親(東京帝大卒)が貝島炭鉱社長貝島太市氏の秘書になり下関・東京に移り住んだ。
下関の社長宅には王さんという中国人コックがおり、我家にはその賄い食(ネギぱん)とアジのアンカケが伝えられている。
社長令嬢百合子さまと一緒によく遊んだとのこと。鹿鳴館時代を思わせる正装した二人の写真が残されています。
写真は貝島太市社長、リンク先より転載。


中近東に巨大な油田が開発され、世界のエネルギー需要は石炭から石油にドラステックに移行した。わが世の春を謳歌していた筑豊の炭坑地帯は大量の失業者で溢れた。

戦前には朝鮮半島から職を求めての密航者があとを絶たず、筑豊にはトイレもない朝鮮人部落ができた。堪りかねた政府は強制帰国させた
が一時期朝鮮人の数は12万人に達したと言われる。

写真家土門拳の「筑豊のこどもたち」による子供たちの笑顔に救われる思いだ。


ぼくあずさのコメント:

(1)韓国マスコミは事ある毎に労働者の強制連行・労働と叫ぶ。
(2)朝鮮には李朝朝鮮時代から続く貧しく厳しい人々の生活があった。
(3)リンク先の
朴正煕大統領談話にも朝鮮人密航者について触れて
   います。
(4)「赤心の人 貝島太市」の著者福田康生様より拙ブログへの
     リンクのご了承をいただきました。ありがとうございます。


筑豊の炭鉱王 貝島大助の物語
http://www.geocities.jp/book_of_tikuho/08tasuke.htm
宮若市石炭記念館
http://fuji.pro.tok2.com/sekitan1.html
土門拳『筑豊のこどもたち』と戦後日本—問いかけとしての戦後日本(その7)
http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0909.php
日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html
戦前、朝鮮人密航者
http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2014-07-26


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