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創作短編(53):女武者 巴御前 –7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                   WME36 梅邑貫


中三権頭は中原兼遠の別名ですが、中原兼遠は木曽中三(キソノナカサン)とも呼ばれていましたから、中三権頭は「ナカサンノゴンノカミ」と読むのでしょう。

ともあれ、巴御前は味方はもとよりですが、敵方にもその武勇、特に強弓で知られ、騎馬武者として一人前の評判を取っていました。

さて、ここから後が定かになりません。平家物語や源平盛衰記には巴御前の記述があり、合戦の場での武勇は語られますが、義仲亡き後の巴御前の記述は極端に少なくなります。

先ず、一説では源頼朝に呼ばれて鎌倉へ行き、そこで頼朝の御家人和田義盛に見初められてその妻となり、朝比奈義秀を産んだとされます。

その後、いつ頃のことか不明ですが、和田義盛が北条一族を追い落さんとした和田合戦の後、巴御前は越中国礪波郡福光の石黒家に身を寄せ、出家して義仲や親兄弟を弔い続け、九十一歳で没したと伝えられます。

巴御前が鎌倉へ行ったのは、少なくとも義仲が没した寿永三年(1184年)五月二十日より後です。一方、朝比奈義盛の生まれは安元二年(1176年)と伝えられますので、巴御前が鎌倉へ到着した頃には既に九歳にはなっていたはずで、巴御前が朝比奈義盛の産みの母とする説には首を傾げます。

さらに、鎌倉幕府の正史とも言える「吾妻鏡」には巴御前の名が出て来ません。
しかし、巴御前が強弓の技を備えた武将であり、類稀な美人であったことは事実でしょう。


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