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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -19/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


 慶應四年(1868年)閏四月二十九日、明治新政府は徳川家を徳川家達(イエサト)が相続することを認め、徳川十六代家達は五月二十四日には駿府藩藩主として七十万石与えられます。
 山岡鐵舟は徳川家達を補佐して駿府へ移りますが、同じ明治四年の七月十四日に廃藩置県が施行され、静岡県権大参事を務めます。権大参事とは副知事のことです。次いで、茨城県参事、伊万里県権令(ゴンレイ)を務めますが、一年ほど経った明治五年(1872年)、西郷隆盛に呼び出されました。

「おはんとおいどん、二人で苦労して取り仕切り申した維新もようやく整いましたな」
「左様。江戸の街も燃えず、総べて善きようになってござる」
「山岡さん、わしも駿府や江戸で大勢の者と話し合うたが、御貴殿ほど扱い難き者はおらなんだ」
「ほう。左様に難しきこを申しましたかな」
「幕臣にして朝敵たる山岡鐵舟、金も要らぬ、地位も要らぬ、命も要らぬ。まことに見上げたることにして最も扱い難きこと。西郷南州が保証致しますぞ」
 この言葉を聞いて、山岡鐵舟は大笑いしましたが、かつての敵であった西郷隆盛の度量の広さと温情を感じ取りました。
「実は、鐵舟殿、陛下のお側にお仕えいただけぬか。畏れ多きことでござるが、陛下にも維新を正しゅう捉えていただき、御政道に誤りなきよう側に誰かがおらねばならぬ」
「その大役を果たせる者、薩摩に大勢おりましょうが」
「いや。おいどんが心安らかに任せられる者、おはん以外には見当たらぬ」

 山岡鐵舟は西郷隆盛に説かれて、十年間に限って宮中に仕えることになり、明治天皇の侍従として務めました。
 あるとき、酒を多めに召された明治天皇が侍従の山岡鐵舟に相撲を挑もうとされますが、山岡鐵舟は天皇に「それはなりませぬ」と強く諫言したと伝えられます。


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